いま、電車の中なのだが、乗客のプライヴェート・スペースがある程度確保された車内事情にもかかわらず、深夜につけっぱなしにしてたら観てしまったホラー番組みたいな距離感で、知らないおじさんが眼前に立っている。やめてほしい。
それはさておき今朝、こども3人を自転車に乗せて歩き、それぞれの幼稚園と保育園へと送迎をする道すがら「まるで中国雑技団だな」と蒸し暑い頭で考えていた。
1人を送り届け、いそいそとペダルをこぎながらも、頭の中にはまだ「中国雑技団」が居残っていた。「雑技」ってあまりにも雑すぎないか。そんなことを考えながら残りの団員たちを送り届けると、軽くなったペダルが後押しする様に、今日まで"塊"として受け入れてきていた言葉たちが押し寄せる。私のラスト・ランを一目見ようと押し寄せる熱狂的ファンの如く。
一、マサチューセッツ工科大学
二、デンゼル・ワシントン
三、大正漢方胃腸薬
すべて分解可能ではあるが脳内で1度たりとも分解したことがない、地元の塊仲間である。
一、マサチューセッツ工科大学
マサチューセッツにそこまで馴染みのない私の人生においては、マサチューセッツまで口にしたら工科大学まで言わないと納まりが悪い。逆に工科大学と言われたらマサチューセッツであるべきだ。
…そんな考えだったのか、おまえは。怖い。
工科大学関係者各位にきつくお叱りを受けるべきだ。いつの間にマサチューセッツ工科大学至上主義の工科大学過激派原理主義者になったのだ。マサチューセッツマサチューセッツマサチューセッツ
二、デンゼル・ワシントン
言わずと知れた名優。どんな作品でも、主演でも助演でも、内容すら忘れても、後に必ず思い出すことができる顔と名前。妻とはじめて一緒に観た映画はなぜかたまたま上映してた『デジャヴ』だった。主演のやつ。思えば、彼をデンゼルとしてもワシントンとしても認識したことは一度もない。
"デンゼル・ワシントン"
声に出して読みたい日本語だ。森の奥深くに何万年も昔から鎮座する岩のような佇まい。古くからその土地に住む者達から崇められ、生活に寄り添い、時に恐れの象徴として、時に恵みの象徴として、文化や風土の名残りの様に受け入れられている真っ当な存在感。この類の感覚は大人になると新たには得難い。こどものときには「あなたトトロっていうのね!」と一瞬でまるごと飲み込めるというのに。
つまり、"デンゼル・ワシントン"がない世界を思う行為は、自転車に乗れるようになる前の感性に戻り、原付免許を取得しようとするそれに近いと言えよう。
三、大正漢方胃腸薬
メロディーまで追いかけてくる、必殺技のように清廉で甘やかな響き。大正の強さ。これが昭和だったり平成だったりするとまた違うのだろう。昭和漢方胃腸薬。まあまあ信頼できそうではあるが、ほのかに実感できる古さがかえって気になる。平成漢方胃腸薬。ちょっと頼りない。令和漢方胃腸薬。ちょっと怖い気もするけど試してみたくもある。ただ、胃腸が弱っている時に人間は冒険しない。やはり大正なのだ。「大きく正しい〜BIG JUSTICE〜」とは、昨今ではあまり聞かないし、思いついても声高に叫べない主張。主語も述語もでかい。しかし本当に弱った時に頼りたくなる/すがりたくなるのはこの字面であり、この響きである。この存在感を含めたあらゆる要素が有事において特に有効だ。
そういえば、名に元号を冠すセンスってどんどん廃れていくのだろうか。昭和〇〇とかそういうネーミングは多い気がするが、平成〇〇とかだとまた何か違う感じもするし、そこまで多くない気がする。"平成教育委員会"しか思い浮かばない。
令和の時代において、令和〇〇は一周して良さそうな気がしてきた。大正〇〇や明治〇〇は「実感のなさ」がもたらす厳かオーラが私より下の世代にどう影響するのか、めちゃくちゃ暇があったら知りたいところだ。
では、仕事します。
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