日本国が「目指したもの」2~我が国の歴史から『差別』について考える~(後編)ー日本人のための『和の国・日本国』講座56ー
こんにちは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
さて、
前回まで
のテーマでお話をさせていただいています。
前編・中編の続きからお話をさせていただきますので、
ぜひ、ご覧になってから、見てくださいね!
教育界を振り返ると、
これからお話しする「えた・ひにん」などの『部落史学習』では、
まず、江戸時代の民主の悲惨な状況を強調し、
そして、「近世の被差別部落は、悲惨な生活を強いられた民衆の不満をそらすために、支配者がつくった」と教えてきました。
その結果、「被差別部落は、さらに悲惨であたにちがいない」というイメージが定着することになりました。
しかし、現在、教科書に書かれていることは、本当に真実なのでしょうか?
今回は、この「えた・ひにん」について
日本史観に立ってお話をしていきます。
1)『部落差別』って何だろう?
そもそも、『部落差別』があることを知っていますか?
『部落差別』は、
これまで「江戸時代につくられた身分制度がもとになっている」と言われてきました。
その「身分制度」について、社会科の教科書では、たいてい次のような説明をしています。
江戸幕府は、秀吉の決めた身分のきまりをいっそう強め、武士が農民と町人を支配する身分制度をつくりあげていきました。
これは、農民や町人に自分たちよりも低い身分のものがいると思わせて、武士への犯行と不満をそらす役割を果たしたと考えられています。
小学校の教科書では、
「さらに低い身分」と表現されていますが、
実際は、「えた」身分、「ひにん」身分などと呼ばれ、
社会から差別を受けていました。
2)全国にどのくらい『えた身分・ひにん身分』の人々がいたの?
江戸時代の日本は、約300の藩に分かれていました。
藩は幕府から独立したかたちになっていて、
班の政治はそれぞれの大名のもとに独自に行われていました。
江戸幕府の命令が及んだのは、
原則として、天領という幕府が直接支配した領地と、将軍の家臣である旗本の領地だけでした。
しかし、
江戸幕府の力が圧倒的に強かったので、幕府の意向に沿った政治を行う藩もありました。
明治初年の人口統計は身分別になっていますが、それによると、
日本全国309の府藩県のうち295に、
「えた身分」「ひにん身分」の人々がいました。
つまり、
江戸時代の終わりごろには、全国のほとんどの藩に「えた身分」「ひにん身分」の人々がいたことになります。
しかし、その人口の割合は、地域によって大きな違いがありました。
一般的には、西日本が多く、東日本は少ないとなっていますが、
東日本でも関東地方の北部では多く、
また西日本でも九州の南部や西部は少なくなっています。
江戸時代の身分差別は、「法令にもとづいた差別」だといわれています。
幕府や藩は、「何々をしてはならない」とか、「何々をせよ」という法令を出し、それに従わなければ処罰の対象にしたと言います。
また、「えた身分」や「ひにん身分」の人々は一部に集まって生活し、「えた村」や「ひにん小屋」などと呼ばれていました。
ここでは、「被差別部落」と呼ぶことにします。
では、「被差別部落」はいつ、どのようにしてできたのでしょうか?
3)『被部落差別』はいつ、どのようにして生まれたの?
鎌倉幕府時代の「河原者」は、「えた身分」の一種とされていますが、「禁裏御庭者」として、清めの白砂を用いて庭づくりに携わり、
天皇に直属して、四条河原に「祓田(はらえだ)」という田地を支給されていました。
後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒に立ち上がった建武の新政では、河原者も加勢しています。
戦国時代に主要な街道の坂道に多く住んだ「坂者」は、諸国を自由に往来して塩を売る権利を天皇から与えられているとして、商売をしていました。
塩が清めの働きを持つことから、彼らも「清目」の職能をもつ人々でした。
こうした人々は、「清目」の職能を持って、
皇室や寺社など「聖なる存在」に仕える特権職能集団でした。
しかし、
南北朝の動乱以降、武力や世俗的な政治力がものをいう時代になり、
天皇や寺社仏閣の権威が低下すると、職能民の地位も下がっていきます。
特に、死んだ牛馬の解体のような「穢れ」にかかわる職能民は、
かつての特権が逆転して、差別を受けるようになっていきます。
江戸時代に入ると、幕府の政策で職能に基づく、「身分制」が確立され、武士、町人(都市に住む商人や職人)、百姓(農民)と分けられました。
さらに、大工、鍛冶屋、薬屋など、同じ職種を同一区画に集めて、住まわせる集住政策がとられました。
江戸幕府がこうした身分を確立させたのは、社会の安定を保つためでしょう。
戦国時代のように、農民が武装して、いつ領主に反抗するかわからないようでは、平和な社会を保つことはできません。
また、大工、鍛冶屋などを集住させることで、それぞれの職能ごとにある程度の自治を行うことができるようにし、幕府の統治も容易になります。
この施策の下で、皮革業を用いた草履を作る職能民などが一角に集まり、
これがその後の「部落」となっていきます。
当時の状況について、
オランダ商館付きの医師シーボルトが、文政9(1826)年の長崎から江
戸への旅に基づいて書いた『江戸参府紀行』には、次のように書かれています。
一方、江戸時代に入って皮革の需要が高まり、西日本各地から原皮を集める大阪の渡辺村が成長しました。
そこでは、年間10万枚もの原皮を扱ったと言われています。
そうした中で、裕福な皮革業者も生まれました。
嘉永3(1850)年に履物の原材料である竹皮の値段が急騰した際には、17か村のえた身分の人々が団結して、市中の竹皮問屋と交渉し、卸売り値段の値下げに成功したという記録もみられます。
えた身分の人々は、封建的な身分制のもとで日常的な差別は受けつつも、それを跳ね返すように、皮革加工や履物製造など特定の職能を通じて相当の経済力、交渉力を持つに至ったのです。
えた身分の中には、農地を所有して農業を営む人々も現れました。
当時の安定・確実な生産手段は農業だったので、金銭的な余裕ができると農地を買ったようです。
河内(今の大阪)の国更池村では、「かわた」と呼ばれたえた身分が28戸あり、すべて農地を持っていました。
その平均は約8、4石で、一般農民の約6,5石より多かったという記録が残されています。
江戸時代の中・後期になると、得た身分の人々に農地を売ることを禁止する藩も出てきます。
これは、えた身分の農地取得が拡大しつつあり、それを阻止しようとする動きとみられています。
その中でも、えた身分の人々が堂々と領主に訴えて争った事例も記録されています。
江戸時代の人口は、新田開墾や、農具の発達により、前半に急激に増加しますが、中期以降は停滞します。
ちょうど地球が寒冷期を迎えて、享保、天明、天保と大飢饉が続いたからです。
しかし、その間も、えた身分の人口は順調に増え続けました。
その理由としては、
農業とともに皮革業その他の職業ももっており、農業一本やりの百姓よりも生活は安定していたからと考えられています。
こうしたことから、えた身分の人々は社会的には差別されていましたが、
だからといってすべて経済的に搾取され、生活もひっ迫していたわけではなかったのです。
4)『差別』はどのようにして生まれるのか?
そもそも「えた身分」が生まれた背景には、
「清め」と「穢れ」の存在をお伝えしました。
「穢れ」とは、
もともと「本来あるべきではない現象や行為」「正常ではない状態」のことです。
それは、死や出産、犯罪、戦乱、失火、異常気象、そして肉食なども含んでいました。
しかも、「穢れ」は、放っておくとうつると信じられていました。
だから、「社会を正常に保つには穢れた状態を清めなければならない」と考えられていました。
そこで、中世になると「清め」に携わる人々が生まれてきました。
それは、使者の葬送、動物の死骸処理、清掃、庭園づくり、警備、刑の執行、吉凶占い、さまざまな芸能でしたがいずれも「穢れ」を取り除く「清め」の行為と考えられていました。
芸能と言えば、今では娯楽的なものですが、もともとは清めの行為であったのです。
そのため、人々は清めにかかわる人々を「特別な力を持つ、おそれ敬うべき人々」とみなすと同時に
「自分たちとは異質で、避けるべき人々」ともみなしました。
そのために、清めにかかわっていた人々との交流を避けるようになったのです。
そこで人々は「穢れ」を連想する人を「穢れに触れることが多い」という意味で『えた』と呼んで差別するようになったのです。
現代では、「穢れ」思想はそれはそれとして…と分けて考えることができますが、当時の人々は、それを新しい知識として受け入れていたにちがいありません。
だからこそ、穢れ思想は広まっていったのです。
江戸時代のように多くの民衆の間にまでそのうような知識が普及すると、その影響は深刻なものになります。人々が「穢れ」を連想する人々を疎外・排除した結果、「被部落集落」が形成されることになったのです。
近代的なすばらしい知識も、不用意に理解されると、とんでもない結果をもたらすことにもなるということは注意する必要がありますよね。
私たちが今後、差別と偏見のない社会を作っていくには、どうも一人一人があたたかい心を持つだけでは不十分なようです。
私たちは、どんな知識が人々の判断を狂わせるのかということも考えていかなくてはなりませんね。
自分や自分の家族の幸せだけを願っていた僕が、この日本国に生まれ、日本人として生きることができ、本当に幸せだな。誇りに思うことができるようになりました。
だから、あなたにも知ってほしいのです。
私たちが生まれた日本国が本当に目指していたものを。日本国が本当に素敵な国だということを。
そして、今日まで、私たちが豊かな暮らしを営むことができるこのすてきな国が続いているのは、日本国を、私たちを命がけで守ってくださった先人たちのおかげであるということを。
先人たちが大切にしてきた精神性。
僕たちの心の中に眠っている精神性。
『和の精神』を呼び覚まし、再び日本を皆がよろこびあふれる豊かな国にしたい。
自分を、自分の国を堂々と語り、誇りに思ってほしい。
子どもたちが希望を感じ、いきいきと輝くことができる国にしたい。
それが今、我が国に生きる僕たち大人の役割だと思うのです。
一緒に、日本を学びませんか?
最後まで、お読みいただきありがとうございました。