【No.1582】この国の歴史は、俺が作る


皆さん、こんにちは。前のめりの藤倉です。

東京は今日も晴れ渡り、清々しい気分です。
最近、北方謙三さんの歴史小説『チンギス紀』第1巻を読み終え、今、興奮冷めやらぬ状態です。あと16巻もある!(笑)

物語の舞台は、12世紀のモンゴル高原。後のチンギス・カンことテムジンの、若き日々が描かれています。
当時、モンゴル高原には、多くの遊牧民が暮らしており、それぞれが独自の部族を形成していました。
モンゴル族も一つの大きな部族でしたが、モンゴル族の中にも、多くの氏族が存在し、互いに競い合っていました。

物語の主人公であるテムジンは、有力な氏族の一つに生まれ、父の死をきっかけに、氏族内の権力争いや、外部の部族の脅威に直面します。
彼は、家族や仲間との絆を深め、困難を乗り越えながら、やがて部族の長としての道を歩み始めるのです。

そんな中、14歳という若さでありながら、テムジンは「歴史は俺が作る」と言い放ちます。
これは、小説の中の言葉であり、フィクションも含まれているでしょう。
しかし、この言葉には、テムジンの並々ならぬ野心と、強い意志が表れていると感じました。まだ1巻なので多くは語られていませんが、彼は、父の念願であったモンゴル族の統一を成し遂げるだけでなく、さらに他の部族も統一し、大きな国への野望を抱いていたのかもしれません。

また、物語の中には、他にも、モンゴル族の未来を真剣に考える少年も登場します。

一方で、モンゴル族の他の氏族長たちは、どうでしょうか?
彼らの多くは、自分がモンゴル族のトップになることしか考えていません。
目の前の権力争いとして、主人公を殺すことしか考えておらず、モンゴル族全体やその未来などは見えていません。「あいつ(主人公)を殺せば俺がモンゴル族のトップや!ほかの奴らも認めるやろ!」程度です。他の部族とのことなんてもっと考えていません。

フィクションも含まれているとはいえ、この対比は、非常に示唆に富んでいます。
テムジン(後のチンギス・カン)は、モンゴル族の統一は当然として、その先の大きな目標を(まだ言及されていないとはいえ)持っていました。それは、単に自分がトップになる、という個人的な野心を超えた、もっと大きなビジョンだったと思います。

一方で、他の氏族長たちは、モンゴル族のトップという、当時の苛烈な氏族間の争いからすると大きな目標ではあるものの、国や歴史を作るというところから比べると"小さな目標"に囚われていました。

その結果は、歴史が語るとおりです。

この物語を通して、僕は、目標の違いが、いかに大きな結果を生むのか、ということを、改めて感じざるを得ません

目の前の小さな目標に囚われていては、大きな成果を出すことはできない。
もし、何かを成し遂げたいと思うのであれば、もっと大きな目標を持ち、それに向かって、一歩ずつ進んでいく必要がある。そう強く思いました。

しかし、ここで、もう一つ、大切な視点に気づきました。それは、目標の大きさだけではなく、「誰のための目標か?」という視点です。

テムジンが、部族の統一という大きな目標を持てたのは、彼が、自分のためだけでなく、家族や自分に従ってくれる者や友人知人、モンゴル族全体の未来を真剣に考えていたからなのだと読み取れました。

一方、他の氏族長たちは、自分の権力欲という、私的な目標に囚われていたからこそ、小さな争いに明け暮れ、大きな目標を持つことができなかった。実際「俺が」という言葉をよく使うのです。主人公は使いません。

つまり、目標を定める時、それが、自分のためだけの目標なのか、それとも、周りの人のためになるような目標なのかを意識することが大切なのではないか、ということです。

もし、自分の目標が、周りの人を幸せにするものであれば、それは、より大きなエネルギーを生み出し、大きな成果に繋がる可能性を秘めているのではないでしょうか。

なんか、いつも書いているようなことになった気もしてきましたが(笑)

それでは、今日も一日、自分自身の目標を、誰かのためになる余地がないか見つめ直し、そんな目標を胸に、一歩ずつ進んでいきましょう!

■■今日の教訓(ポイント)■■

・目標の違いが、大きな結果を生む。
・目標の大きさだけでなく、「誰のための目標か?」という視点も持とう。

■■以上■■

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