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東証マザーズ上場より高校時代が幸せだった~戦力外Jリーガー社長の道のり

フランスの哲学者、アランは『幸福論』のなかでこんなことを言っています。 
「幸福はあのショー・ウィンドウに飾られている品物のように、人がそれを選んで、お金を払って、持ち帰ることのできるようなものではない」
 
幸せはお金で得られる物ではなく、振り返ってみたときに初めて感じるものではないか。 私にとってそれは、無心にサッカーボールを追いかけていた“あの頃”でした。

これは21歳でガンバ大阪から戦力外通告を受けビジネスの世界に飛び込んだ私の物語。

サッカーとの出会い

 
サッカーとの出会いは小学4年生。初めて自分から「やりたい」と母にお願いして始めたこのスポーツは、毎日の生活をワクワクさせてくれるとても楽しいものでした。小学6年生の時にはJリーグが開幕。Jリーガーになることが私の夢になりました。
 
学校でも「早く放課後にならないかな」「ボールを蹴りたい」とウズウズしていたあの頃。幸運なことに小・中・高とチームの中心選手としてプレーすることができ、高校卒業と同時に、小学校の卒業文集にも書いた夢、「Jリーガーになること」をかなえることができました。

高校時代が「幸せだった」と感じるのはなぜなのか?

今振り返って、一番幸せだったと感じられるのは、夢をかなえたプロサッカー選手時代でも、経営者として東京証券取引所マザーズ市場への株式上場したときでもなく、高校時代です。
 
私の母校は、関西大学第一高等学校、通称・関大一高です。サッカー部は、全国高等学校サッカー選手権大会に1997年と1999年、2009年、2010年の4回出場を果たしており、2009年はベスト4、2010年にはベスト8に進出した実績があります。
 
私も1999年、高校2年生の時には大阪大会を勝ち抜いて第78回大会に出場しているのですが、こうした結果が残せた、強豪校でプレーしたから幸せだったというわけではありません

高校時代の3年間は、悔しい思いもたくさんしましたし、辛かったこと、キツかったこと、悩んだり、うまくいかなかったこともたくさんありました。むしろその当時は、自分自身が幸せだとは感じていませんでしたし、ただ夢中で目の前の練習、試合、ボールに向かっていった記憶しかありません。

「楽しい」から「幸せ」とは限らない

高校3年間は、毎日が早起き。電車で一時間半かかるグラウンドで朝練に参加するために早朝に家を出て、また同じくらい電車に乗って帰ってくるのは夜遅く。サッカー中心の生活で、とんでもなく走らされたこともありましたし、キツい練習もたくさんしました。

そもそも関大一高に進学したのは、父の「大学くらいは出ておいた方がいい」という助言があったからでした。中学時代のチームメイトとは別の進路を選び、大学の付属校の中では当時もっとも選手権出場の可能性が高かった関大一高で、「Jリーガーになるために」まずは選手権出場という明確な目標を持って日々の練習に励んでいたのです。

目標が明確だった分、悩んだりうまくいかなことがあったりしても、それを乗り越えたときにやってくる「はっきりと感じ取れる自分の成長」を得る喜びがつらさを上回っていました。Jリーガーになるための自己研鑽、そのためのマイルストーンである選手権に出るための努力、そして厳しい練習をともにしたチームメイトと一つの勝利に本気で喜んだり、悔しがったりできたこと……。

苦しいことがあったからこそ感じられた成長、成長があったからこそ得られた勝利や成果、そのすべてが鮮明に思い出として残っています。

Jリーガーへのマイルストーン、選手権出場!

 
高校時代を美化しているわけではありません。もちろん、反省もあります。
高校2年生の時に出場した選手権は、自分をJリーガーに導いてくれた高校時代の一つの成果であると同時に、今思えば自分たちの甘さが出た試合でもありました。

第78回全国高等学校サッカー選手権大会大阪地区大会では清風高校を4-2で下して優勝、全国の舞台へ

大阪大会決勝で清風高校を破り選手権出場を決めた関大一は、初戦(トーナメント上は両校シードで2回戦)で、前年に準優勝していた東京代表の帝京高校と対戦しました。結果は1対2での敗戦。3年生には“和製ロナウド”と呼ばれた点取り屋の矢野隼人選手、2年生には浦和レッズなどで活躍したドリブラー、田中達也選手がいる帝京高校は、もちろん強かったのですが、それ以上に自分たちの「目標設定の甘さ」を実感した試合になりました。
 
1年生から試合に出させてもらっていた私は、1年生時から「選手権出場」を目標に据え、練習に励んでいました。

結果から言うと、その目標設定自体が甘かったのです。

私も含めたチームの全員が「高校選手権、全国大会に出場する」ことに目標を置いていたわけですから、大阪大会で優勝した時点でこの目標はかなってしまっていました。

1月の選手権を迎えるに当たって気持ちを切り替える声がけはしていましたし、出場で満足している選手はいなかったと思いますが、それでもやはり「選手権で優勝」「国立でハットトリック」みたいな活躍を自分の頭の中で描けていなかったわけです。

大きすぎる目標に自分を合わせる本田圭佑のすごさ

ビジネスでも同じなのですが、不思議なことに選手権出場を目標にすればどんなにうまくいってもそこまで! という結果しか得られません。
 
選手権出場の常連とはいえなかった関大一高では「選手権に行こうぜ!」という言葉を掛け合っていたわけで、それが知らず知らずのうちに自分たちを縛る“呪い”になっていたのかもしれません。

選手権を目指したからこそ出場がかなった。でも、そこを目標にしたから「帝京に勝って国立に行く」「優勝する」自分たちを思い描けていなかったことでやはり負けてしまった。

W杯での解説が話題になった本田圭佑選手が、ヨーロッパに渡るに当たって「レアル・マドリーで10番をつけてプレーする」と公言したことは有名な話ですが、当時本田選手の発言は、ビッグマウス、夢物語と叩かれただけでした。しかし、本田選手は「高すぎるかもしれない目標設定」に自分を追いつかせるために日々の行動を変え、発想を変え、成長の次元を変えていったのではないかと思うのです。

結果として「レアル・マドリーの10番」はかなっていませんが、本田選手はイタリアの名門・ACミランで10番を背負ってプレーするほどサッカー選手として成長しました。

このあたりの目標設定の妙は、ビジネスの世界に身を投じてから痛感することになりました。

続く


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