
【エッセイ】わたしか、リズムか、うつくしさか
『悲しき熱帯Ⅰ』の冒頭にこんな一節がある。
「私は旅や探検旅行が嫌いだ。それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている」(川田順造 訳 中央公論社)
文化人類学者である、クロード・レヴィ=ストロースの言葉だ。フィールドワークに従事する著者のことだから、奇妙なまでに感傷の響きがこめられているように思う。言わずと知れた知の巨人でも、わたしのような市井の人でも、嫌いなものとは、自分にとっての過去のことだろう。五十年ほど生きてきたが、わたしもやはり旅が嫌いだ。たまの連休だからといって、どこか遠くの場所へ旅行をしようとは思わない。家でじっとしているほうが性に合っている。本を読んだり、酒を飲んだりしながら、物思いに耽るほうがむしろ、世界は広がってゆく。ただ、歩くという行為には、思いを湧き上がらせる何かがあるように思う。思い立って旅に出なくても、歩くなら近場の公園ぐらいがちょうどいい。列車の時間を気にしなくてもいいし、宿をとるわずらわしさもない。気が向いたときに行って帰ってくるだけだ。できれば、何度も歩き慣れた場所のほうがいい。わたしにとって、決まりきった風物が、歩行に伴う高ぶった心を鎮めてくれるからだ。視界に舞い込む光景が、歩行のリズムにしっとりと馴染むからこそ、心に浮かぶ波立ちもはっきりと立ち上がるのだと思う。
高速道路の下をくぐりぬけると、城跡公園の入口がある。平日の昼間だから車列も少ないのだろう。ごうごうと吹き渡る風の音もさほど大きくはなかった。濃緑色の暗幕のようなものがだらりと垂れ下がっている。落ちる心配もないから誰も気に留めないのだろうが、わたしはそういったものに目を配ることが多い。気づいたからといって、自分以外の誰かに結びつくようなことではないが、流れる意識を駆り立ててゆくには、他愛のないもので十分だ。意識が淀みなく走り抜けるのは、スニーカーを通しても、足裏から感じる歩行のリズムが心地よいからだ。小川のせせらぎや雨音、炎のゆらめきなどには、人を落ち着かせる「ゆらぎ」があるらしく、わたしは、歩行にもそれが存在すると思っている。独力でそれを得られるところがなおさらいいのである。
横断歩道の信号が変わった。いよいよ入口だ。車よけの金属の塊の間をすり抜けて公園に入った。目を上げると、山嶺のようにして、聳える天守閣がわたしの目を射抜いた。自らの卑小さに恥じ入ってしまい、視線を落とすと、行き交う観光客が目についた。入口付近のスペースには左右にずらりと植物の見本市が広がっていた。盆栽や観葉植物、多肉植物などさまざまな植物が所狭しと並んでいる。歩くために来ただけだから、買うつもりもないので遠慮しいしい見ている。奥のほうで空の鉢植えのようにかしこまっている店主もわたしが冷やかし半分だと分かっているのだろう、声をかけに来ない。そこがなんともいい。心ゆくまでお気に入りの植物たちと戯れることができる。わたしが好きなのは、多肉植物だ。あのぷにぷにとした触感や、突き抜けるような緑の豊饒さに目を奪われるからだ。花は咲かずともかまわない。触れるたびに、てのひらから、植物たちのせわしい情感が伝わってくる気がする。
てのひらに みどりのひとひら ひらひらと
みだりなまでに よりどりみどり
あまりにも気分がよくて、歌を作ってぶつぶつと呪文のように口ずさむようになった。歩行のリズムがついには、定型のリズムを生み出すようになるのもわたしの癖らしい。たまには、このように定型が崩れることもあるけれど。歌ができれば、そこでおしまい。次なる場所に向かうことにしている。植物たちに別れを告げて、向かったのは、入口付近から三分ほど歩いた先にある森の広場だ。途中には、噴水もある。円形のコンクリートで囲まれた場所には、たまたまだろうか、放水はされていなかった。岩の形をした粘土造りのモニュメントがいくつも空を目指している。噴き出す水がないだけに、やるせない気分にもなるが、ちょうど三叉路の真ん中に位置しているから、見晴らしはよかった。右に折れて、広場にやって来た。ここに来ると、日常で起きた、たいていのことを忘れることができる。距離にしてどれぐらいだろうか。約百メートルほど、等間隔に植林された杉林が続いている。わたしは、その中央付近にある広場を目指そうとはしない。広場に入る手前のアスファルトの道に沿って、その木立を眺めて歩くようにしている。すっくと伸びる木が、次々に入れ替わり立ち替わり、わたしを追いかけるように残像を生み出してゆく。眩暈にも似た、視界の幻惑にわたしは一枚の絵画を思い起こした。シュルレアリスムの画家であるルネ・マグリットの『白紙委任状』(一九六五年)だ。薄紫色のフォーマルなドレスに身を包んだ貴婦人が馬に乗っている。栗毛の馬は中央にいる。悠々と闊歩しているのだが、一見して目を疑う。少しくすんだ葉むらの色味からして季節は秋なのだろうが、馬と貴婦人は、木立と奥に控える薄緑の空間と溶け合うような、パッチワークを構成している。マグリットの絵画には、単なる、だまし絵をこえた何かがある。ジグザグ、あべこべ、さかさま、互い違い、つぎはぎだらけ、矛盾、表裏一体。どの形容も拒むような、その絵画の魅力をできれば自分の目で味わってほしいものだ。遠近も、濃淡も度外視した、その超然たる趣に心を奪われてしまうから。それでも、人を食ったような冷たさは感じられなくて、わたしには、それが哀感に思えてしかたがない。
気づけば、木立の残像はもうどこにも見られなくて、お堀に貯められた水位がちらと目に飛び込んできた。がやがやと人の声が聞こえてくる。反対方向に目をやれば、ロードトレイン(エレクトリックカー)が走っている。乗客は、まばらだが、見ているだけで楽しい。蒸気機関車を模した、薄桃色の先頭車両が青と黄の客車を引っ張りながらじれったいぐらいのスピードで過ぎ去ってゆく。鮮やかなペンキの色合いが、周りの濃緑色の木々とあいまって、森の中のネオン電飾を思わせた。わたしの歩く速さよりは断然はやいけれど、それでも周りの景色を心ゆくまで眺められるように設計されているのだろう。一人で乗るよりも誰かといっしょに乗れば格別に心地よさそうだ。ああでもない、こうでもないと言いながら、流れる視界を共有することができる。ふいに、不安にも似た寂しさを覚えた。わたしのほうはといえば、意見の対立などは決してないけれど、湧き上がる想念を抱えているのは、あくまでわたしだけだ。ここではたと気づく。だから、短歌などを詠んでいるのだ。流れては消えてゆく景色のように心に生み出される灯りのようなものだけでは飽き足らず、口に出して韻文をつぶやくことで誰かとの交流を求めているようなところがある。自然やその光景とも交歓しているようでもある。ともあれ、自意識の「電飾の明滅」はさらに続いていくのだろう。
ロードトレインとすれ違ってから、開けた道に出た。左側を眺めれば、お堀の全景が見えた。鈍色とまではいかないが、藻などを含みこんでいるから、水は自然、暗緑色に近くなる。現に、名前の分からない水生植物がところどころ浮かんでいる。そこだけやけにほの白く耀いているのがいい。かすかな華やぎをたたえている。柵の手前には、ベンチが据えつけられている。恋人たちもいれば、家族連れもいる。何かの撮影をしようとしている集団が笑い声をあげた。それぞれが何を話しているのかは分からないが、いたって楽しそうだ。わたしの楽しさとは別のものだ。日々、生まれては消える情感がここぞとばかりに昇華するのは、彼らを取り巻く水という存在のおかげかもしれない。海のように美しいとはいえないまでも、たいていは、風紋や陽光を照り返すきらめきが彼らを日常から解き放ってくれる。むしろ、波のように、寄せては返す時間というものを感じさせないのがいいのかもしれない。わたしから見れば、ひとつところにとどまって、彼らの話にじっと耳を澄ましている、水の辛抱強さに憧れてしまう。わたしは、リズムの人だから。現に、今もこうして、見るもの、聞くものにつけて思いを馳せることができるのは、歩行して体を動かしているからだ。どうやら、マグリットの絵の中の貴婦人と馬がわたしの心の襞にまで歩いてくるようだ。公園のひそやかな静寂とわたしの小刻みなリズムもまた、順逆を誤った、一枚の絵画なのだ。絵画ならどこまで歩いてもキャンバスの中に閉じこめられたままだが、わたしの絵画は違う。自分の意思で歩き、自分の心が思う。旅行は嫌いだが、歩くことを好むのはこんなところにもあるのだという気がする。
さあ、城内のお堀のあたりを通り過ぎたなら、今度は、いよいよ公園を一度出ることになる。アスファルトの道路に描かれた「ラン&ウォークコース」の表示を横目に、車列が行き交う幹線道路までやって来た。といっても左手には、まだ、お堀が続くような格好になるが、その趣は少し違うと言える。道行く人や車もお堀の水には決して目もくれないから、単なる風景の一部と化してしまう。見上げれば、天守閣に通じる場所の裏側にあたる木々が見えた。初夏の入口で戸惑うように色づく葉むらが眩しかった。わたしは、何の気なしに物寂しく感じて、せめて水面のほうに何か話しかけてやりたくなった。立ち止まってさっきみたいに歌を詠んでやればよいのだと気づいた。
黄緑の 樹冠にさわぐ おもひでに
時を忘れて 射すくめられる
この世に水の精がいたとして、わたしのつぶやきを聞いてくれているならば、返歌でも詠んでくれるのだろうが、あいにく、水のことよりも木々に思いがいたったのだからつい悪びれてしまう。そそくさとその場を後にして、もう一度、城内に入るスペースまで歩を進めることにした。右手には市庁舎や大きな建築物が並んでいた。電波を受け取ったり、送信したりする、巨大な御椀型のアンテナも目を惹いた。これが夜だったならば、銀白色の宇宙船が不時着したようにも見えることだろう。
もう一度、城内に入ると、ブロンズ像に出合って驚いた。馬にまたがる女性をかたどっていたからだ。どうやら、今日の歩行は、マグリットから逃れられないらしい。ただし、闊歩するというよりも、女性が手に鳥のような動物を乗せているから、受ける感じは違っている。馬もペガサスのように飛び立つ間際のようだ。わたしが、さっきまで考えていた宇宙船のことを見抜いて、こんなブロンズ像を作ったのだとしたら……。この世のどこかにわたしの一挙手一投足を見守る、時の化身が待ちかまえていて。わたしは、高揚を抑えるようにして先を急ぐ。気分はいいが、お門違いの想念は、歩くという行為にも影響するはずだ。転んだり、ぶつかったりしないとも限らない。目の前の人や物にもっと注意を向けよう。すると、ジョギング姿の男性とすれ違った。青い野球帽に黒のTシャツと短パン姿だ。汗が玉のように頬から零れ落ちている。手足を鞭のようにしならせて軽やかに駆けてゆく。振り返ればそのスピードは、ぐんぐんと勢いを増して、横断歩道の向こうに消えていった。前を向き直ると今度は、一人の女性が日傘を差して歩いてくる。濃紺のブラウス姿がよく似合う若い女性だった。髪は長く、化粧はほとんどしていないように見えた。買い物か何かだろうか。先を急いでいるようでもあり、暇を持て余しているようにも見えた。ふわふわと歩く速度は、彼女にとってほどよいものだったのだろう。すれ違ってから、習い性のようにわたしは、振り返ってしまう。ジョギングをしていた男性と同じコースを辿るようだ。
空色の ブラウスまとった あの人が
青白い夏へ 駆け上がるのを
そろそろ、歩く人もいなくなった。イチョウやケヤキの木立の枝ぶりが左右に覆いかぶさるようにしてひんやりと冷たい一本道をつくっていた。空を押しのけてまで、ここを通り過ぎる者たちに何を与えてやりたいのだろうか。一つは、沈黙だろうと思う。ほてった身体と心を冷まして休憩するように告げているのかもしれない。現に、左手には藤棚だろうか、蔓草がこんもりとからみつく屋根とベンチがひかえている。座っている人はほとんどいない。照り返す陽射しも少なくて、お堀の水もくすんだ色のままだから、せっかくの鏡面が映し出すものは何もない。これでは眺めを楽しむには、不向きというものだ。けれど、水面に映りこむものは、何も視界に入る光景だけとは限らない。静謐と手を取り合う内面の安らぎがあれば、ぜいたくな時間を過ごすことも可能だろう。お堀の水の鏡面には、「わたし」が映りこんでいるのだ。孤独と不安をひといきに溶かしてしまう、静寂の坩堝が目の前に広がっている。歩くスピードも少し落ちた。座るまでにはいたらないが、お堀の柵の手前までやって来た。藤の花が咲いていない中でも、その棚は十分、役目を果たしているように思えた。風光をさえぎって、わたしのことをわたしたらしめる、鏡まで導いてくれたから。心に映りこむのは、ここまで歩いてきてよかったという思いだ。旅が嫌いでも、外の景色を引き連れて歩く体力さえあれば、これほどまでの充溢感を味わうことができる。
もう少し歩けば、さっきの入り口付近に出る。まだまだ歩いていたい思いに駆られるが、同じ場所をふたたび歩く気にはなれなかった。そのときどきの心境を裏切ってしまうような気がしたからだ。せめて、ゆっくりと歩くことにしよう。さらに進めば、今度は、がやがやと色めき立つ声が聞こえた。遠目にだが、駐車場だと分かった。どうやら外国人旅行客を乗せていた長距離バスが着いたのだろう。リュックサックや手提げ鞄を持った人々がバスから雪崩れるようにして降りてくるのが見えた。皆、いちように疲れて見えるが、期待の感覚に包まれて、顔はほころんでいる。これから公園内を歩いてゆくのだろう。ガイド役の日本人もそばで待機している。仲間たちといっしょに異国の情緒にふれるのは楽しいことこの上ないはずだ。わたしは、少しだけ切なくなって、口笛をぴゅううと吹くようになった。口笛なんて、何年ぶりだろう。その音色は、きれぎれでどこか弱々しかった。けれど、この音を聞いた、観光客の幾人かは、寒々しく震える空気を吸うことで、わたしに同情してしまい、後をついて来てくれるのではないだろうか。不埒な想念がわたしの胸にちいさな引っかき傷を残した。ひとたび傷ついた以上は、もっと想像の域を広げたくなる。たしか、子どものころに読んだ童話の中に「ハーメルンの笛吹き男」という話があったはずだ。ハーメルンという町に、夥しい数のネズミを退治するため、一人の男が訪れる。町の人が悪さをするネズミに手を焼いていたのを聞きつけたのだ。金貨を見返りにネズミ退治に名乗りを上げたのだった。見事にネズミを笛でおびき出して、川で溺死させたのに、町の人は結局、男に金貨を払わなかった。腹を立てた男は、その場を後にするが、しばらくすると戻ってきて、町の子どもたちをさっきの笛の音によって誘い出す。男は、洞窟の中に子どもたちを押し込めて自分もろとも内側から封印してしまったということだ。
わたしが、ハーメルンの笛吹き男なら、観光客をどこに連れていくだろうか。約束をほごにされたわけではないから、仕返しするはずはない。この公園のうつくしさを知っているから、観光客たちに甘美な思いをさせてやりたい。旅が好きかどうかという違いがあるだけで、自分の目を心ゆくまで楽しませたいと思うのは同じである。人間というものは、生理的な感覚からすれば、たいして変わりはないのだと思う。主義・主張がたとえ違っていても、同じ景色を楽しむことは、格別の慰めになるはずだ。現に、人の身体の組成を考えてみても、約六十パーセントが水だと言うではないか。水という無色透明の液体を媒介にして、人は、きっと底のほうでつながっていると思う。わたしと観光客が、いっしょに口笛を吹きながら、お堀の水の底のほうまで歩いていくのがいいのかもしれない。すり切れた音色は、水の中でもたくさんの空気の泡を生み出してわたしたちを生き永らえさせてくれるだろう。だが、口笛は絵空事でもない限り、彼らの耳には届かない。森が作る一本道から遠くはなれたところに彼らはいる。聞かれていなくても口笛を吹き続けてやろう。わたしは、入口付近へと戻る道をさらに歩いて行った。
口笛を馬鹿にされたように感じて疚しくなり、一本道から逸れて公園の外の歩道から帰ることにした。そろそろ家でゆっくりしたくなる。時間にして、かれこれ一時間は歩いたはずだ。傾斜のきつい坂道を駆け足で降りてゆくことにした。今までよりも歩くスピードを速めれば、足裏から感じるリズムも激しくなって、ここまでのふしだらな想念に別れを告げることができると思った。坂道が足先付近を励ますようにして、勢いを増してゆく。たんたんたん、と舗装されたアスファルトの地面を突き放しては、可愛がるようにしてやった。いつの間に雨が降ったのだろう。ところどころに、水たまりも見えるから、かがやくアスファルトには、わたしの顔や身体がひっきりなしに跳ね返されてゆく。お堀の水のような静けさはないものの、軽やかな抵抗がむしろ心地よかった。薄い水の皮膜のよそよそしさが、風物へのしがらみをわたしから解き放っていたように思う。速度が増してゆくほどに、数メートル先で先を急ぐ、国道の車列が生み出す風もまた、わたしの背中を押してゆく。風はわたしの全身を渦巻くようになった。ぴゅううという音を聞いた。ようやく公園の入口付近まで帰ってきた。車よけの金属の塊の間を一人の男がすり抜けた。ひしゃげた唇の形は、まさしく口笛を吹いているように見えた。
参考文献
書籍
阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』(ちくま文庫)
クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯Ⅰ』(川田順造 訳 中央公論社)
絵画
ルネ・マグリット『白紙委任状』
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