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ちょっと横道「体験格差」について語る

今夏休みの時期だからでしょうかね、やたらと「体験格差」という単語を目にします。

一人旅を主軸にしている私のnoteですが、ちょっと今回は横道に逸れて「体験格差」とやらについて語ってみたいと存じます。

40代に入って少し経済的にゆとりが出来た頃から私は異常なほど旅行に憑りつかれておりますが、これ、実は子供時代の「体験格差」に影響されたものです。


私の両親は真面目なだけが取り柄の貧乏で無学(父・農業高校卒/母・中卒)な人達でした。
まあなので確かに「毎日家に借金取りが押しかけてくる」とか「親に暴力を振るわれる」とか、そこまで辛い経験はしなかったものの、由緒正しき「貧乏家族」であり、当然「体験格差」を感じる立場で育つ少女時代でした。

旅行なんて夢のまた夢。


せいぜい同じ県内にある母の実家「お婆ちゃんの家」に泊まりに行くことが私にとっての旅行でした。

私は昭和48年生まれ、千葉のベッドタウンと言われる町で育ちましたが、その時代、そんな地域の公立小学校でも当然お金持ちの家の子はいました。
それこそ「ちびまる子ちゃん」の漫画にも出てきますが、海外旅行に行って皆にお土産を買ってくる花輪クンのような子もいれば、盆踊りでオバQ音頭を踊ったのが思い出のまるちゃんのような子もいたのです。

(いやむしろ田舎町で私立の学校なんて無かったので大体の子が公立の小中学校に来るので、その差は非常に激しくなっていたのだと思われる)

私は当然まるちゃん側の人間で、妬み深い性格もあって、花輪クンのように海外旅行に行ったり、夏休みの自由研究で綺麗な昆虫標本をデパートで買ってくるような子達には呪いの視線を送る日々でした。

中学の時に仲良くしていた友達の一人は、当時で両親が学習院大学を卒業しており、もう一人は大学院まで修め、学者をしているお父さんを持っていました。彼女たちの家に遊びに行った時、天井まで届く本棚が四方を埋める図書館のような部屋があり、呆然としたことを覚えています。

ネットの無い時代、例えば夜、テレビを観ていて「〇〇って何だろう?」と思ったら、私は翌日を待って学校に行って先生に聞くか、図書館に行って調べるしか手立てが無かったのですが、きっと彼女達だったらまず両親に聞いて、それでわからなければ自宅の蔵書で調べることが出来たのでしょう。
私が翌日にならないと分からないことを、彼女達だったらその日のうちに分かった訳です。
「情報格差」は今とは比べ物にならない位激しいものでした。

ただ完全にその格差に負けたのかというと、実はあんまりそうでも無くて、私は貧乏ながらも少しだけそれに立ち向かう術を持っていました。
これは私だけじゃなく日本に住んでいる人ならだれでも持っている術です。
そう、それは

図書館 です。


友達が夏休みにスイスに行くと聞けば、その夏休みの間、図書館でスイスに関する本や、海外旅行に関するエッセイ本を読みまくりました。
ホームステイに行く子も出始めた頃、やはりクラスに一ヶ月ホームステイに行く友達が居ましたので、行きもしない癖にホームステイに関する本を読み漁り、「あとは金さえあれば行ける」位まで虚しく知識を蓄えました。
また、友達がフランス料理を食べに行くいえばフランス料理のマナー本を始め、フランス料理の料理書(当時はレシピ本なんて洒落た言い方は無かった)を読んでどんな種類のものがあるのかをチェックしまくったり。

そう、私は図書館で「疑似体験」「体験予習」をしていたのです。

子供ながらに

「フン、海外行ったからってえばっちゃって」


と負け惜しみを言うよりは

「あら、〇〇に行ったの?いいなぁ~、そういえば〇〇には有名な△△って場所があるらしいけど、行った?どうだった?」

と返した方がスマートかつ、完全に負けてはいない切り返しだと思っていたのです。

幸い私の友人たちは本当に育ちが良い子達だったようで、私の入念な下調べによる的確な質問に驚きつつも色々と旅の話をしてくれたものです。
それはそれで素直に面白く興味深いものでした。

私が通っていた図書館は市の外れにある小さな分館で、今でこそ10時から開館していますが、当時は平日は13時から17時のわずか4時間の開館時間でしたし、蔵書もそんなにたくさんは無かったのだと思います。
また、今のように検索ツールも無かったので自分が読みたい本は自分で探し出すしかありませんでした。

でも何も予定の無い夏休み、午前中宿題をやったり今日返す本を読んで、お昼を食べたら飛び出すように図書館に向かい、宝探しをするような気持ちで読みたい本を探しまくった子供時代の夏休みの思い出は決して惨めなものではありません。

そんなに御大層な本を読んでいた訳じゃないですけどね

なにもディズニーランドに行くことが子供時代の貴重な体験ということは無いと思います。いや、むしろ作られた娯楽を楽しむだけの受け身の経験になるので、そんなものは別に大人になってから自分の稼ぎで行く位で十分なのではないかと。

ディズニーランドに行きたいけど行けないのであれば、図書館にいってディズニーランドやディズニーの本を読んでみることだって十分な体験になるはずです。今は検索機で「ディズニー」と入力すればすぐにピックアップしてくれます。
最初はガイドブックやムック本から読み始めて、調べて行くうちにディズニーの経営、ディズニーがミッキーを作った頃のアメリカの時代背景、そこからアメリカの歴史なんかに興味が出てくれば更に良いかと。なんならそのアトラクションを作った会社や工場なんかまで調べ抜いて、これまた図書館に必ずある「会社四季報」や「業界地図」なんかでその企業研究なんかしちゃったりして。ちなみに会社の名前の由来なんかだって結構面白いんだから!

その本たちを記録して、内容をまとめ、簡単な感想と考察でも付け加えればそれだけでもう十分自由研究にすらなりそうじゃないですか。

こういうのもたちまち

「ネットで調べれば済むじゃん」


で片づけられてしまいそうですが、そこは勿体無い!
例えばですよ、同じトプカプ宮殿について(すんません、トルコ旅行控えているんで)話すにも

「Wikipedia(ネット)で調べたんだけどトプカプ宮殿って~~」

と語りだすよりも

「『トプカプ宮殿の光と影』っていう本を読んだのですが~~」


と語りだした方がなんかカッコ良くないですか?単純に

世の中これだけ「コスパ」「タイパ」が流行っているのに、何故人は
「本を読む」という行為の「コスパ」「タイパ」の良さを忘れてしまうのでしょう!!

人は希少なものに対して無条件に価値を見出すものです。
本を読む人が少なくなってきている今だからこそ「本を読む」という行為自体に付加価値が付き始めているのに、何故それを見過ごすのか!

ましてや図書館で借りた本なら実質0円!これ以上にコスパの良い情報ツールってありますか?!

税金納めているなら使わなきゃ!!


そりゃね、私だって子供時代に飛行機に乗ってみたかったですよ。
初めて飛行機に乗ったのは20歳の短大の卒業旅行のグアムでしたから。
(その短大だって都内で一番学費が安いという理由で選んだ)

でもぶっちゃけどうしようもないじゃないですか。
親ガチャって本当にあるんだもん。
20代の頃、某開業医の奥様のアシスタント的なことをしていた時期があったのですが、そこのお坊ちゃまは小さい頃からファーストクラスでの海外旅行、習い事はゴルフ、サッカー、学習塾も勿論。通う小学校は勿論「あの」お受験最高峰の小学校、「キャンティ」での夕食やカウンターで寿司をつまむことすら日常という生活ぶりで、たまに後ろから膝カックンしてやりたい衝動に駆られたものですが・・・しょうがないんですよ。

自分が政治家になって世の中を変えるとか、それも大体の人は無理だし。

でも全く何も出来ないことは無くて、そりゃ絶対に不利だし、実体験には敵わないかもしれないけど、「学ぶ・知る」という武器は手に出来る訳ですよ。

どうか変に反発したりひねくれたりしないで、まずは最寄りの図書館に足を向けてみて欲しいと思います。
文字を読むという行為は人に知性というものが生まれ始めた頃からの本能に近いものだと思うの。
それにわずか数十年の歴史しかないツールのネット、スマホじゃなくて、数千年の歴史を持つ書物の価値を見直して欲しいな、と思います。

今、あちこち旅行する度に、ふと「あ、この光景、あの本に出てた」とか「あーこの境内に遺体があって主人公たちが事件に巻き込まれるのよねーで、このお寺ってこういういわれがあるのよねー」(←京都ミステリーの読みすぎ)などと頭に浮かぶことがよくあります。
子供の頃、私は「疑似体験」「体験予習」を武器として戦っていましたがそれは今は頼りがいのある私の旅の友になってくれています。


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