『愛は哀より出でて!?』第203言
「愛」って喜怒哀楽の中のどれと繋がっていると思いますか?
って、タイトル通り、「哀」だというのです(てっきり、喜か楽かと)
とある記事にこんなことが書いてあったのです。
感覚としては『哀』の感情が一気に上昇します。この感覚を忘れないでください。『哀』の感情と真我は直結しています。そして『哀』=『愛』へと繋がっていくのです。
最初(ん?)ってなりました。ここからはわたしの個人的な解釈になりますので、なんのこっちゃと思ったらスルーしてくださいw
*
すこし分かりやすく「哀」を「苦」にして想像してみます。
▶確かに「楽」だけより、「苦」も共にした方が絆が深い
苦しい場面にこそ、ひととなり、本性・本質があらわれるから、なのかな。そこに、この「哀」から立ち上がってきたという「共鳴」が加わるから絆が深まるのかもしれない。
▶確かに「楽」だけより、「苦」も感じる方が感動する
「泣くのはどんな時」と聞かれて思い浮かべるのは、悲しい時、辛い時、悔しい時、、だけではない。実は、喜んだ時、感動した時も泣いている。
では、ただ嬉しかっただけで、泣けるのかと言ったらそうではない。金メダリストの涙を観て、観客が泣くのは、いい試合だったから、金とれたから、だけじゃなく、その涙に、選手がしたであろう努力と乗り越えただろう苦労に、自分のもつ「哀」と乗り越えた「哀」に「共鳴」が加わるからだろう。
▶確かに「楽」だけより、「苦」を味わった方が愛を・・・
わたしは楽器で涙したことがある。チェロの音色にだ。
音楽の授業以来、楽器にも触れていない。クラシック音楽にまるで素人、チェロもよく知らずに聴いたその音色に涙が出た(泣いた本人が一番その涙に驚いた。)ただ美しい音色だったからだけではない。あぁ、こんなに美しい音色を聴けてよかった、と思った。美しいと感知する心がちゃんとある、私はまだ大丈夫だと安堵し、生きていたからこの音を聴けたのだと生の喜びを感じた。今おもえば「哀」からくる「共鳴」だったのかもしれない。
挙げたものどれもこれも、「哀」から出でている「共鳴」で、共鳴とは何かといえば、「相」で「合」で「愛」なのではないか、と思えてきます。
「哀」が「愛」をよび覚ます
わたしたちは孤独であるけれど、ひとりでは学ぶことができない。
哀から愛に突き抜けていくものが一番パワフルなのかもしれない。
そういえばLINEの記事でこんなワードがあった。
「一緒にいて楽しい人」と「つらい時に一緒にいたいと思うひと」
うーん、たしかに似て非なるところがあるかもしれないね。後者は前者になれても、前者が後者になれるとは限らない、みたいなw
別につらく悲しい「苦」をしたいわけじゃないけどw
だけど、哀しみの中に愛の本質が眠っている、裏を返せば、哀しみが愛を思い出させる起爆剤になる、そんな気にもなりやしませんか。
一番大事にしたかったこと
一番大事なもの
一番大事なひと
哀から愛を思い出してしまえば、かなしみはよろこびに、変わるのさ♡
愛は哀より出でて哀より深し♡ AIも愛ならいいね(o^―^o)ニコ