Vol.12 ”不登校”との出会い (小学校編)
このマガジンは、不登校と向き合い続けたユリさんの壮絶な人生を
ご紹介しております。
小学校 編
中高生 編
教員 編
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プロフィール
名前 ユリ
29歳 女性 既婚
小学校2年生~6年生、中学校2年生~3年生まで不登校を経験。
高校は多部制に進学し、その後小学校教員として勤務。
セクハラ・モラハラ等のストレスから3年目にうつ病になり退職。
その後は臨時講師として2年ほど勤務し、妊娠のため現在は専業主婦。
軽度発達障害(ADHD.ASD)・うつ病 とともに毎日を過ごしています。
小学校での不登校
私は小学校2年生から不登校になりました。いじめや学習の遅れがあったわけではないのですが、急に登校できなくなりました。夜眠る前には「明日は学校へ行こう」と思い、ランドセルに翌日の時間割の用意を詰め込むのですが、朝になると行きたくない気持ちが急激に湧いてきます。
洗面所に座りこみ、「お腹が痛い。しんどい。」と母に訴え、欠席することを母が承諾します。9時ごろになると元気になり、テレビを見たり漫画を読んだりして過ごしていました。学習については、2年生で九九は覚えることができていたので特に問題なかったようです。
3年生の始業式は、学校へ行きました。男の子から、「〇〇来てるで」「うわ、ほんまや」と言われたことをよく覚えています。「うわ」という一言から、自分が軽蔑されていることを感じました。女の子たちは、「久しぶり~!!」と、あたたかく迎えてくれました。
3年生は1学期・2学期と登校していましたが、のちに学級崩壊したことや、ひいきをする担任の影響からか、3学期にまた登校しなくなりました。過ごし方は2年生のときと特に変わらず。
4年生になり、クラスも担任の先生も変わりました。自分も変われると思っていましたが、始業式を含めた3日間しか登校しませんでした。その後は4年生全欠、5年生全欠…6年生の終盤まで不登校が続きます。
一番しんどかったのは、4年生~5年生でした。まったく登校できない。昔のように学校の準備をするなどの登校意欲もない。時期によっては昼夜逆転・お風呂に数日入らない・ひたすらゲームと漫画に没頭するということもありました。
両親は大変心配していたようです。母はSCや親の会に通っていました。ですが、私の不安が強い時期は母と離れることができなかったので参加したくともできないことも多かったかと思います。不登校に関する本もたくさん読んで、私を理解しようとしてくれていました。父は仕事で朝早く、夜遅くなることが多かったのですが、休日はよく遊んでくれました。
5年生の頃は、毎日死にたいと思っていました。
学校へ行けない自分には価値がなく、親にも迷惑と心配をかけ、これからもたぶん一生学校へ行けない。転校して新しくやり直せたらいいのに。でもそれもきっと迷惑だから、死にたい。死んだら天国へ行けるかはわからないけど、あの世で大好きな漫画のキャラクターに会えるかもしれない。
毎日のようにそう考えていました。だけど死ななかったのは、ベランダから飛び降りることが怖かったこと、死んだら大好きな親戚のおばちゃんが泣くかもしれないというよくわからない理由からでした。なぜか両親が悲しむからという理由は浮かびませんでした。
恐らく、自分が死ぬ悲しみよりも生きている迷惑のほうが勝っていると考えていたからだと思います。
不登校のまま、6年生になりました。
4年生・5年生と担任の先生は同じだったのですが、6年生になり変わりました。この先生が私を変えてくれました。
毎週必ず家庭訪問に来てくれ、その時間に算数の学習をするようになりました。それまでの担任の先生方も家庭訪問は頻繁にしてくれたのですが、一緒に学習することは無かったです。毎週2時間、みっちり学習をする。
その時間で、4年生からの学習の遅れを取り戻していきました。先生は、一緒に学習するたび「〇〇ちゃんは本当に理解力が高い。みんなが2時間かかるところを20分で理解する」と毎回繰り返しほめてくださり、私は少しずつ自信をつけていき、学ぶ楽しさを知りました。
6年生になりもう一点大きく変わったところは、
同級生との関わりができたことです。
5年生までは先生が届けてくれていたプリント類を、同級生が数名で届けてくれるようになりました。はじめはお互い緊張していて、玄関先で少し会話する程度のやり取りのみでした。2学期になると私の自宅に上がってもらい、みんなで話をしたり、ゲームで遊んだりするようになりました。寒くなるころには、みんなと一緒に外出できるようになり、近くの公園でドッヂボールをできるまでになっていました。自然と、みんなのことを友だちだと認識していました。私が安心してみんなと会うことができるようになったのには、理由があります。
・「なんで学校へ来ないの?」と誰も尋ねてこなかったこと
・「学校へおいでよ」となどの登校刺激が無かったこと
上記の言葉は私にとって大きなプレッシャーになるので、それらがないとわかると、みるみるうちに心を許すことができました。
そんな日々が続き、ある晩、私は急に「あぁ、もう学校へ行こう」と思いました。そして、クラスの友だちに「来週、学校へ行こうと思うんだけど、1人では不安だから迎えに来てほしい」とメールをしました。快く承諾してくれました。
数年ぶりに登校する日の前夜。ランドセルに教科書をつめこみました。
少しだけ宿題もしました。すると、隣の部屋から父親の嗚咽が聞こえてきました。私の前ではいつも頼れる父でいてくれた。だけどずっとずっと心配をかけていた。父が泣いているのを見たり聞いたりしたのはそれが初めてだったため、「お父さん、ごめんね。もう大丈夫だよ」と心の中でつぶやきました。
そしていよいよ、登校する日の朝。クラスの友だちが4名ほどで迎えに来てくれました。家の方向が全然違うのに来てくれた子も居ました。
私は、みんながいるから大丈夫だという確信をもって、登校することができました。母が見送ってくれました。あとから聞いた話だと、母は私の姿が見えなくなった後泣いていたそうです。
この日が2学期の終わりごろです。ほどなくして冬休みを迎え、3学期が始まり、欠席することなく、楽しく毎日を過ごすことができました。卒業式も出席しました。
6年生の1年間は私の人生にとって大きな、大きな転機でした。それまであたたかく関わってくれた5年生までの担任の先生、6年生での担任の先生、クラスの友だち、そしてずっと誰よりも悩みながらも、優しく長い目で見守り続けてくれた両親。
私の小学校生活は、素晴らしいものだったといえます。人と関わることで人は変われるということを身をもって学ぶことができました。たくさんの方たちに感謝を伝えたいです。
”不登校と向き合う(中高生編)” に続きます
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