ラジオによって沈んだレコード業界がラジオによって完全復活した話

TBSラジオで毎週金曜日8時30分~午後1時まで放送の「金曜ボイスログ」
シンガーソングライターの臼井ミトンがパーソナリティを務める番組です。

このnote.では番組内の人気コーナー
「臼井ミトンのミュージックログ」の内容を書き起こし。
ちなみにyoutube版では動画も公開しているのでそちらも是非。

ラジオによって沈んだレコード業界がラジオによって完全復活した話


史上初のフリーメディア=ラジオ

ラジオというのはそもそもが軍事技術です。
1910年代の終わり頃、ちょうど第一次世界大戦が終わったタイミングで平和な世の中になったぞ。ということで、アメリカの軍事技術である無線通信が民間に転用されてラジオ放送というものが生まれました。当時無線技術というのは軍事機密でもありますから、他国にこの技術を絶対に漏洩しないということを条件にアメリカ政府が国内の電機系・通信系の超名門大企業の数社に独占的に放送免許を交付します。
ヴェルサイユ条約が結ばれた1919年のことです。

ただ1920年代に入ってラジオ放送が本格的に始まると、困っちゃったのが
レコード会社。
1910年頃からレコードと蓄音器というのが出回り始めて、ちょうど10年かけてようやくそれが普及し始めた矢先にラジオ放送が始まりました。
ラジオっていうのは史上初のフリーメディアなんて言われたりもしますよね、無料で音楽が聴けてしまうようになってしまったわけですから。
無料で聴けるのに一体誰がレコードなんて買うんだ?って話ですよ。
これって近年になってインターネットが普及してからの音楽業界と全く同じ構図ですよね。

壊滅的なレコード産業とそれを救うラジオ

しかもですね、実は、当時の蓄音器の時代は、レコードよりもラジオの方が遥かに音が良かったんです。その頃の技術では最新の軍事技術であるラジオ放送の方が、再生出来る帯域がレコードよりもはるかに広くて、音が良かったんです。当時ラジオで音楽を流すと言っても、レコードをかけたわけではないんですよ。スタジオで生演奏したんです。生演奏をマイクで拾ってそのまま放送に乗せた方がレコードよりも遥かに音が良かったから。

ラジオをつければレコードよりも高音質の生演奏がいつでも楽しめる。
必然的にレコードは全く売れなくなり、世界恐慌も始まって、レコード産業は壊滅的な打撃を受けます。ほとんどのレコード会社が立ち行かなくなり、勢力を強めたラジオ局に次々と買収されてしまう。

ただ、ラジオ局がレコード会社を買収したことによって、逆に音楽産業の
状況は少しずつ好転してゆきます。何故かというと、ラジオ番組でじゃんじゃんかけて流行らせた曲をレコード化して売る。というビジネスモデルが
成立し始めるからなんですね。それまでレコード会社にとってラジオ局っていうのは商売敵だったんですが、買収されたことによって、むしろお互いの良いところを活かし合う協力体制が築けたんです。

ラジオ局が自ら流行りを生み出し、それをすぐに自社でレコード化するというサイクルを確立することによって、一旦壊滅状態になったレコード産業は少しずつですが息を吹き返してゆきます。

ただ、レコードそのものをラジオの放送でかけることは絶対にしなかった。先ほど説明したようにもともとは音質面で劣るからという理由ではあるんですが、それが転じて「バンドの生演奏を生放送出来るようなちゃんとしたスタジオ音響設備を持ってる会社にしか放送免許を与えない」というシステムが出来上がってしまっていたからなんです。
つまり、既存の大手ラジオ局が、既得権益を守るためにこういう意地悪な
ルールを作り、規模の小さい会社が新規参入しづらい環境を作ったんです。それと、せっかくお金をかけて作ったレコードをタダで聴かせられたら、
たまったもんじゃない!というレコード会社やミュージシャンの労働組合の意向もあったみたいです。
だから、レコードをラジオでかけることはそもそも禁止されていたんです。

戦争がきっかけでルールが変わっていく

このルールがいつどのタイミングで崩れたかというと、これがまた戦争が
きっかけなんです。第二次世界大戦。兵士のための娯楽としてアメリカ陸軍が駐屯先でラジオ放送をするわけなんですが、さすがにラジオのために世界中の戦地にバンドを派遣して生演奏させるのは手間とお金がかかり過ぎて
キツいわけです。だから、特例として戦地のラジオではレコードをそのままかけることにしました。

レコード会社やミュージシャンの労働組合は、レコードをそのままラジオでかけるなんて違法だと裁判を起こして抵抗したんですが「買ったレコードを煮るも焼くも自由!放送に使うのも自由!」と判決が出るわけなんです。
もちろん著作権とかそれに伴う印税とかはまた別の話として、とにかくこれでレコードを放送でかけるのが、少なくとも違法な行為ではなくなったわけです。

ロックンロールの生みの親・〝DJ〟Alan Freed

これによって初めて誕生した職業というのが「DJ」なんです。なんせラジオ放送でレコードが合法的にかけられるようになりましたから、俺のオススメはこれだぜって言ってセレクトして次から次へとレコードをかける職業が生まれたわけです。DJ=Disk Jockey、つまりレコード盤の操縦士ですね。

もともとはアメリカ陸軍の軍営ラジオに務めていたAlan Freedという男も
そんなDJの1人。彼は終戦後、地元クリーブランドに戻ってローカル局で
番組を始めた。クリーブランドは重工業・鉄鋼業で栄えた街ですから、2度の大戦と復興特需で南部からアフロ系の労働者が大勢やって来て、彼らも徐々に真っ当な所得を得られるようになる。そして彼らは南部で親しんだ
音楽をこの街でも求めるようになり、その結果クリーブランドでは、
「リズムアンドブルース」のレコードが売れに売れていました。

そして街ナカのレコード店でかかるリズムアンドブルースに対して人種的な抵抗感を持たず素直に体を揺らす白人のティーンネイジャーたちを見て、Alan Freedは思いつきます。今の若い子たちは肌の色なんて関係なく音楽を聴いている!リズムアンドブルース専門番組をやれば絶対に流行るぞ!と。

しかし人種差別主義が根強く蔓延っていた時代ですから、白人向けの放送局でリズムアンドブルースと大々的に銘打ってしまってはちょっとマズい。
そこでAlan Freedは一計を案じる。この音楽を別の名前で呼ぶことによってカモフラージュするんです。それが「ロックンロール」という呼び名です。

Alan Freedがロックンロールと名付けてラジオでかけまくったことにより、リズムアンドブルースは人種の壁を越えて大ブームとなります。
Alan Freedをはじめとする全米各地のカリスマDJたちがラジオで紹介した
シングル盤レコードは売れに売れた。ここに来てレコード産業は完全に息を吹き返すんです。

日本のSONYがアメリカの若者の夢をかなえた

ただ一つ問題がありまして、このロックンロールという音楽、リズムの激しさや歌詞の過激さ、人種差別的な固定概念も相まって、当時の大人たち、
親御さんたちが顔をしかめるようなカルチャーだったわけです。
リビングにデーンと置かれた真空管のラジオで家族の前で聴くにはちょっと気まずい音楽だったんですね。だから50年代当時の若者は自分専用のラジオがどうしても欲しかった。でも当時のラジオは一家に一台の高級品。おいそれとは買えません。

そんな若者たちの夢をかなえたのが、日本のSONYなんです。50年代にいち早く小型で安価なトランジスタラジオを開発して、ロックが聴きたくてたまらない若者たちに熱狂的に受け入れられたんです。トランジスタというのは真空管の替わりになるもので、技術的には色々困難があったのをSONYが
見事に克服した。さらにその技術を日本の他の家電・電機メーカーが応用して、カーラジオを普及させる。これがその後のアメリカの若者文化のあり方を決定付けることになります。

日本のメーカーの安くて小さいトランジスタラジオがなければロックという音楽がここまでの勢いで世界中の若者に広がることはなかったでしょうし、逆に言えば親の目を盗んでロックを聴きたいという若者たちの渇望こそが、実は日本の電機メーカー・オーディオメーカーの戦後の大躍進の一つの大きな要因になったのかもしれません。

このように、ラジオによって一度は完膚なきまでに打ちのめされた音楽産業は結局ラジオによって救われ、そしてラジオとレコードによって育まれた
ロックンロールという音楽が今度はラジオの受信機側の技術革新を促すという、今日はそんな持ちつ持たれつのラジオと音楽の歴史のお話でした。

お聴きいただくのはロックンロールの名付け親、Alan Freedが見出し
自らマネージャーも買って出たドゥーワップグループの「The Moonglows」一番最初のヒット曲。Alan Freedも作曲に加わった「Sincerely」。

youtube版では動画で同様の内容をご覧いただけます。

金曜ボイスログは毎週金曜日8時30分~午後1時にて放送。
AM954/FM90.5/radikoから是非お聞きください。