小説『伝わってくる"たいおん"に』
背中から伝わる冷たさと硬さに、今日も目を覚したのだと分かる。
「おはようございます」
そう口にすると、部屋の扉が開いて人が入ってくる気配がした。私がいるところから一直線上にその扉はあった。
身体を起こして音のした方へと向きを変えた。
「おはよう」
入ってきた人はいつものように私に話しかける。いつもの低い声。少し掠れているその声はもう聞き慣れ、安心を運んできてくれる。
「おはようございます」
今度はその人に対して朝の挨拶を口にした。
「今日は何を持ってきたのですか?」
彼が部屋に入ってきてから、何やら甘い匂いがしたのでその正体を尋ねる。
「よく気づいたね。今日はまんじゅうを持ってきたんだ」
私は、まんじゅうと聞いてもどんなものなのか想像がつきません。甘い匂いからして食べ物なのかな。私はそれに触れたくてそっと手を伸ばした。すると彼が私の手の中にそっと"まんじゅう"を置きました。
「軽い...」
私がそう感想をもらすと彼は笑いました。
「そうか、そういう反応をするのか」
「私の反応はおかしかったですか?」
「いやそういう訳じゃないんだ。気を悪くしたらごめんよ」
「いえ、大丈夫です。それよりこれは口に入れてもいいものですか?」
そう尋ねると彼はまた笑った。それからどうぞといって、私の右側に腰を掛けた。人の身体が意外と温かいことに気がついたのはこの人がこの部屋に訪ねてくるようになってからだった。それまでは私に近づいてこようとする人なんていなかったから。
「美味しい。でもちょっと甘い」
そう言って舌を出すと、彼が私に近づいてきて私の舌に噛み付いた。
「確かに甘い」
私から離れて元の体制に戻った彼がそう呟いた。
彼が私に触れる度、身体が少し熱くなる。
何も見えない私の耳には、自分の心臓の音だけが一際大きく聞こえていた。
***
「それではそろそろ行くね」
彼はいつもすぐにいなくなってしまう。
「お仕事ですか?」
「そうだよ。働きに行ってきます」
そう言って彼は立ち上がる。そのまま扉の方へとリズムよく歩き始めた。今日ももうこの時間が終わってしまう。そう悲しくなった時、靴音が止まった。
「明日、君を連れ出していいという許可が出たんだ。明日は一緒にいるから待っててくれ。じゃあ行ってくる」
明日は彼がずっと一緒にいてくれる...
出かけることはたまにあったけれども、彼と出かけるのはこれが初めてだ。私は嬉しくなって、扉が閉まる音がする前に叫ぶ。
「楽しみにしてます」
***
電車はとても速いらしい。以前出かけた時よりも風が一層強くなっているので、スピードも更に出るようになっているのかもしれない。
彼が飲み物を買いに離れている。今がチャンスだと思った。
一人の部屋で静かに過ごす中で、ずっと考えていた。
何もできない私は何故生き続けているのか。
皆は働くことができても、私には働くことができない。
皆はそれでいいと言うけれど、そんな自分が嫌になっていくのを避けられなかった。
今日、連れ出してくれたのはいい機会だった。点字ブロックの止まれも無視してそのまま歩き続ける。少しずつ。でもリズムよく。一歩一歩進んでいく。すると足下の地面がなくなった。あと一歩。そのまま静かに落ちていく。
電車の音が大きくなる。
最後に彼が側にいてくれて本当によかった。人の体温を、温かさを運んでくる"体音"を、教えてくれてありがとう。