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中村勘三郎が導いた、過去・現在・未来

「中村屋!」
「六代目!」

威勢のよい大向こう(おおむこう)が聞こえる。

ここは、浅草寺の裏広場に建てられた仮設の芝居小屋「平成中村座」。舞台に立つのは、若き六代目・中村勘九郎。見得(決めポーズ)を切るたびに、客席から掛け声が飛ぶ。

ステージを見つめる私の心は、十年前に戻っていた。勘九郎の父親である、故・中村勘三郎が演じる歌舞伎『隅田川続俤 法界坊』(すみだがわごにちのおもかげ ほうかいぼう)を見たのが、まさにこの平成中村座の一席でのことだった。

そのエンディングで感動のあまり、生まれて初めて無意識にスタンディングオベーションをしていたことを思い出し、涙がこぼれそうになった。

実は私は、30代半ばまで歌舞伎に全く興味がなかった。

そもそも能や文楽など一連の「伝統芸能」と呼ばれるものが堅苦しくて苦手だった。特に歌舞伎についてはテレビでチラッと見たことがある程度だったが、セリフの意味が理解できないうえ、演目のタイトルの読み方すらわからなかった。

『隅田川続俤 法界坊』もそうだが、ほかに例を挙げるなら、菅原道真の失脚事件を描いた『菅原伝授手習鑑』は、(すがわらでんじゅてならいかがみ)、美しい白拍子が実は大蛇の化身だった『京鹿子娘道成寺』は、(きょうがのこむすめどうじょうじ)と読むのだ。

江戸時代、演目名には縁起を担いで、割りきれない奇数個の漢字が使われた。さらに粋を競って当て字を駆使したため、現代人が一見しただけではその読み方が分からないという結果になったという。

当時の私が見ていたのは、人気ドラマの『ごくせん』や『ショムニ』だったから、歌舞伎を縁遠いものととらえたとしても仕方がない。

そんな状態であったので、会社で営業担当だった私はアポに遅れないように東銀座の歌舞伎座の前を速足で通り過ぎるだけで、長い間、なかに入ることは一度もなかったのだ。

しかし、歌舞伎座は宝箱のような場所だった。そのことに気づくまで長い時間がかかった。

歌舞伎を見るきっかけとなったのは、当時通っていた料理教室でのやりとりだ。60代の先生は、ファッションデザイナーであり、自宅で料理教室を主催していた。彼女の料理は、ボリュームがありながらも、盛り付けが上品なうえにエレガントで、相反する要素が皿の上で見事に融合していた。

さらに毎回、食器はもちろん、テーブルクロス、カトラリー、ワイングラス、花、音楽まで料理や季節にあわせてコーディネートされており、それは一つの空間としても時間としてもパーフェクトに成立し、まるで一つの舞台を鑑賞しているようだった。

「なんとか盛り付けだけでも近づけないものか」と見よう見まねで真似をするのだが、定食屋のランチのように山盛りになってしまったり、量を少なくするとうら寂しい食卓に見えてしまい、なかなか先生のように仕上げることができなかった。

それである日、どうすればそんな世界を生み出せるのか、彼女にたずねた。

「美しいものを見てストックを増やすことが大切よ。特に本当に美しいものを学びたいなら、歌舞伎を見なさい。舞台セット、役者の衣装、小道具まで一分の隙もなく神経が行き届いて……日本文化の美の結晶だから」

「でも、チケットが高いですよね」

「コクーン歌舞伎なら、それほど高くなかったはず……」

実は歌舞伎が好きだった先生は、語り始めた。『コクーン歌舞伎』は、渋谷の文化村で毎年一カ月間行われる現代感覚を取り入れた歌舞伎だ。

通常の歌舞伎との違いは、芝居のように演出家が起用されていること。本物の水や泥が使われ、ポップソングが挿入される斬新なスタイルなのだという。最初は、奇異に見られていたが、人気が出て文化村の代表的な出し物となり、先生は毎年楽しみにしているらしい。

チケットの値段を見ると、一番安い三等席なら私にも出せる金額であった。そのことを告げると、

「あなた、本物を身に着けたいんでしょう。できるなら、身銭を切って一等席で見なさい」

「でも……」

「ずっと良い席で見続けなさいと言っているわけではないの。大切なのは、初めてのタイミングで最高級を体験すること。その世界がなんとなくわかるようになったら、逆に二等、三等とランクを落としていくのよ。最初から三等で見たら、確かにお金は浮くかもしれない。だけど、ステージが見えないし、声も遠いから『やっぱり歌舞伎、おもしろくなかった』と言って二度と見に行こうと思わないんじゃないかな。低いランクから始めたら、そのものが持つ本質や本当の魅力は決してわからないから、それこそが無駄遣い。人生のチャンスを失うことよ。これが何事においても私がやってきた勉強のコツよ」

給料でギリギリの生計をたてていた私にとって、厳しい言葉であった。しかし、日頃から料理やファッションを含めて先生の洗練された暮らし方に感銘を受け続けてきた私は、直感でその言葉を信じることに決めた。早速、徹底して節約することにしたのだ。

先生はそんな私の姿を見てアドバイスをくれた。
「一等席はすべて同じというわけではないのよ。大切なお金を使う以上は、慎重に席を選ぶように」と。

確かに調べてみると一等席のエリアは広く、何百席もあった。劇場のチケットセンターへ足を運び、係の人に相談しながら慎重にチケットをとった。劇場の人と直接話すと、舞台の見え方や通路の位置、お手洗いの場所が事前にわかるので、遠回りのようだが確実に自分に合う席を確保できる。初心者にはピッタリの方法だった。

当日の演目は、『夏祭浪花鑑』(なつまつりなにわかがみ)。役者の表情やふくらはぎの筋、衣裳の模様までハッキリと見える席だったので、初めての歌舞伎に時間を忘れて見入った。

「この粋な主役の人、誰だろう?」
それが、五代目・中村勘九郎(のちの中村勘三郎)との出会いであった。

ストーリーは、ケンカが原因で牢屋に入っていた大阪の魚売りの団七が外の世界に戻り、これから頑張ろうと思っていたところ、さまざまな事情から恩人のために強欲な舅を殺してしまうというものだ。

色鮮やかな彫り物、ケンカ、泥水にまみれた殺人といった強烈なシーンが続くのだが、仁義に生きる男が、泥臭く描かれていた。

実際、舞台のうえの勘九郎は、義理人情に生きる彼の魂そのものが舞台に登場しているように思えた。親近感あふれる近所の住人のように錯覚した次の瞬間には、神々しく遠い存在へと変化する。営業でいろいろな人に会ってきたが、このようなタイプの人を見たのは初めてだった。

この演目では、ユーモラスなシーンがふんだんに織り込まれていた。それまで歌舞伎とは、行儀よく姿勢を正して見ないとダメなのだと思いこんでいたが、私はクスクス笑ったり、緊張で息を飲んだり、主人公を応援したり、普通のドラマを見ているようにその世界に入り込んでしまっていた。

あとで知ったのだが『夏祭浪花鑑』の団七は、勘九郎の当たり役で海外公演が行われ、話題になったそうだ。特にニューヨーク公演の幕切れでは花道からニューヨーク市警の警官たちをパトカーで登場させ、団七にピストルの銃口を向けて「フリーズ!」と叫ばせたという。このエピソードからも、勘九郎の型破りなキャラクターが伝わってくるのではないだろうか。

当時、私の夢は会社員をやめて自分の手で仕事をたちあげることであった。しかし、大学卒業以来、長く組織のなかで生きてきて「いつかは……」と思いつつ、なかなか踏ん切りをつけられなかった。中村勘九郎との出会いをきっかけに、小さかった世界に風穴が開いて新鮮な空気が流れこんできたような感覚があった。

このようなかたちで歌舞伎デビューは成功した。節約を続けながら、たまったお金で東銀座の歌舞伎座へ通うようになった。

個人的に入門編としてわかりやすかったのは、源義経とその周辺の人々にスポットをあてた『義経千本桜』、『勧進帳』、『東海道四谷怪談』、『仮名手本忠臣蔵』などだ。さらにロビーに用意されていた「イヤホンガイド」が有料だったが必需品であった。解説がわかりやすく、これを聞くことで難しい演目を簡単に理解することができたからだ。

歌舞伎は、基本的に昼の部と夜の部にわかれている。公演時間は、それぞれ約4時間。昼の部が11:00〜15:00ごろまで、夜の部が16:30〜20:30ごろまでで、途中に15〜30分の休憩が何度か挟まれる。

つまり、昼食か夕食の時間にかかってくるわけだ。最初のころは、右も左もわからず、コンビニで買ったおにぎりをぱくついていた。しかし、通うにつれ、「今日はこれを食べよう」というのが出てきた。

私のおすすめは、「助六寿司」だ。その由来は、歌舞伎の演目の『助六所録江戸桜』(すけろくゆかりのえどざくら)の主人公の名前”助六”から来ている。助六の愛人は吉原の花魁で、名を”揚巻”(あげまき)という。揚巻の”揚”を油揚げのいなり寿司、”巻き”を海苔の巻き寿司になぞらえて、この二つを詰め合わせたものを「助六寿司」と呼ぶようになったと言われている。

徐々にチケットのとりかたのコツもわかってきた。歌舞伎座の席をとる時に重要なのは、花道の存在を頭に入れることだ。花道は、舞台に向かって左のほうに客席を縦断するかたちで張り出したもので、ここでも演技が行われる。

特に舞台に近い「七三(しちさん)」と呼ばれるエリアでは、花道を通る役者が、一度立ち止まり、見得を切ることがあるため、その周囲は人気の席となっている。また、歌舞伎通は「とちり席」を選ぶといわれる。1階席の7〜9列目の席のことで一般的にいちばん見やすいと言われている。「とちり」と呼ばれる理由は、一列目から「いろは」で列を数えていた頃の名残で、7列=と列、8列=ち列、9列=り列というわけだ。

最初は、中村勘九郎を目当てに通っていたが、だんだん贔屓の役者も出てきた。女形の坂東玉三郎だ。特に彼の演じる『阿古屋』は、知的に洗練されていて興行のたびに何度も通った。阿古屋では、琴・三味線・胡弓の三つの楽器を玉三郎が演奏するのだ。それに加え、傾城ならではの気品や色気、愛する人を想う心理描写も表現しなければならず、女方屈指の大役だ。それを見ながら「ああ、私も女としてがんばらなくっちゃ」と励まされたものだ。

このように歌舞伎では、男性が女性を演じる。それには歴史的な理由が関係している。
歌舞伎のはじまりは、安土桃山時代に出雲大社の巫女だった出雲の阿国が、京都で「かぶき踊」を興行したことだった。「かぶき」とは、奇抜な身なりをする「傾く」(かぶく)に由来している。これを見た遊女達が真似をしたことから「女歌舞伎」が流行したが、風紀を乱すという理由から禁止された。その後、美少年達が「若衆歌舞伎」を始めるが、こちらも同じく風紀を乱すという理由で禁止される。

だが、1653年に成人男子が演じる「野郎歌舞伎」は、興行を許された。しかし、女性の役者を使えないため、男性が女性に扮する「女形」による演技が生まれたのだ。

私は、歌舞伎の演目の感想をまめに料理の先生にシェアして、自分の見方が正しいのかどうか判断を得るのがルーティンであった。好きに見て楽しむことは、もちろんとても大切だと思うが、なにせ最初の自分の目的が、歌舞伎から「美しさ」について学ぶことだったから、このような確認作業が必要だった。

歌舞伎通の先生は、演目を言うと「あのシーンの衣裳はどうだった?」「最後、どう思った?」など感想を聞いてきた。最初のうちはしどろもどろで全く答えられなかったのだが、こういった問答を繰り返すうちに見どころがわかってきて、不思議と先生と対等に話せるようになってきたのだ。

2012年の春、忘れもしない。初めて先生が「一緒に歌舞伎を見に行こう」と誘ってくれた。演目は、平成中村座で行われた中村勘三郎の『隅田川続俤 法界坊』(現在、DVDで視聴可能)で、それも千秋楽であった。そのとき、五代目・中村勘九郎は、襲名して、十八代目・中村勘三郎となっていた。私は感激して「やっとこの日が来たか」と一人前になれた気がしてうれしかった。

平成中村座は、浅草寺の裏の広場に小屋を仮設して興行されていた。主催者の「楽しませよう」という気持ちで満ちた、江戸情緒たっぷりの造りであった。

実は、東銀座の歌舞伎座は明治になって開場したものでその歴史は新しい。江戸の芝居小屋の歴史は、1624年にさかのぼり、京で猿若舞を創始した狂言師の猿若勘三郎が、現在の京橋付近で開いた猿若座が最初だからだ。この座は移転を繰り返し、1651年の移転の際に「中村座」と改称した。

中村勘三郎が心血を注いだのは、中村家の祖である中村座を「平成中村座」として復活させることであった。平成中村座の演目には、初めて見たコクーン歌舞伎のときと同じく演出家の串田和美さんが起用されていた。中村勘三郎が演じるのは、豪放な坊主の法界坊。悪行を行うものの憎めないキャラクターがユーモラスに描かれる。

脇をかためるのは、勘三郎の弟の中村橋之助(現在の中村芝翫)、息子の中村勘太郎(現在の六代目・中村勘九郎)、二代目・中村七之助などであった。その和やかでありながら、完璧に一体となった歌舞伎の空気はそれまで一度も感じたことがない観客を圧倒するようなものであった。

とは言え、ジョークがふんだんに挿入されていて、ふだん笑顔を見せない料理の先生も声を出して笑っていた。私も先生の前ではいつも緊張していたが、そのときばかりは勘三郎や演者の演技やセリフに笑いが止まらなかった。まるで自分も平成中村座の一員になったような気がした。

最大の見どころは、クライマックスだ。舞台の奥の壁が一気に取り払われ、浅草寺が現れた。そこに桜の花びらが吹雪のように乱れ散り、勘三郎が見得を切った。そのすばらしさときたら……私は自分でもわからないうちに立ち上がって激しく拍手をしていた。この見事な体験をくれた彼らに贈ってあげられるものは拍手しかなかった。両手が痛くなるほど拍手を続けた。気づくとまわりの観客も皆同じようにしていた。舞台を見てこれほど感激に包まれたことはなかった。

しかし、それが舞台の上の勘三郎を見た最後になった。その年の12月に57歳で亡くなったのだ。私はニュースを知って、涙と動揺を止めることができず、料理の先生に電話をして教室へ駆け込んだ。先生も泣いていた。

多くのファンが私と同様に衝撃を受けたようだ。告別式への参列者は、1万人を超えたという。以後、私は勘三郎を失ったショックで歌舞伎座へ足を運ぶことができなくなった。この世から灯が消えたような気がした。

それは約10年という歳月まで長引いてしまった。私は、歌舞伎を見ていたのではなかった。勘三郎という役者が夢が叶えるところを観客席から見ていたいと心から願っていたのだ。そして、その舞台を見ることが「自分もきっと前に進めるはず」という励みとなっていたのだ。

やっと整理がついたのは、十年後の2022年のこと。平成中村座の公演に足を運ぶことができたのだ。

勘三郎の遺志を継いだ、勘九郎と七之助による、すばらしい舞台であった。私が現実から目をふさいでいる間に役者たちは前に進んでいた。自分も彼らと一緒に進みたい。そのときの私はすでに料理教室を卒業し、個人事業主となって新たな出発をしていた。失った空白を埋めながら歌舞伎を鑑賞していこうと決めた。

先日は、中村獅童とバーチャルシンガーの初音ミクが共演する「超歌舞伎」を観劇した。古典と仮想空間という最新技術が一体となり、新しい予兆を感じさせた。中村獅童の型にはまらないパワフルな立ち回りも魅力にあふれていた。

「変化」と口にするのは、簡単だ。しかし、これほど難しいことはない。一人の人間にとっても、古い殻を破って新しい道を選ぶことがどれほど大変なことか。歌舞伎という400年の歴史を背負った伝統芸能であれば、なおさらのことである。しかし、歌舞伎は本質を守りながら柔軟に変化している。

特に今はAIの発展により、未来が予測できないなかにある。そのなかで歌舞伎は残り続けると私は確信している。私が過去に歌舞伎を通じて得た感動は、間違いがないものという自信があるのだ。そこに自分が生きるヒントも隠されていると思うのだ。私は、歌舞伎を通じてそれを知りたい。そして、ためらわずに歌舞伎とともに変化したいと考えている。

《終わり》

執筆者プロフィール
杉村五帆(すぎむら・いつほ)。株式会社VOICE OF ART 代表取締役。20年あまり一般企業に勤務した後、イギリス貴族出身のアートディーラーにをビジネスパートナーに持つゲージギャラリー加藤昌孝氏に師事し、40代でアートビジネスの道へ進む。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなど美術品の価値をシビアな眼で見抜くプロたちによる講演の主催、執筆、アートディーリングを行う。美術による知的好奇心の喚起、さらに人生とビジネスに与える好影響について日々探究している。
https://www.voiceofart.jp/

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