何も咲かない寒い日は。高橋尚子さんの教え
今日は最近ファンになった、高橋尚子さんについて書きたいと思う。
高橋尚子さんは、言わずと知れた2000年のシドニーオリンピックで金メダルを取ったマラソン選手。Qちゃんという愛称でおなじみだ。女子スポーツ界で初の国民栄誉賞を受賞し、国内外の大会でも記録を残したあと、2008年に現役を引退した。
彼女が活躍していた時代、私はスポーツやオリンピックにほとんど興味がなかった。大きく取り上げられたニュース記事だけ義務的に目を通す程度であった。
そんな私でも高橋さんの活躍は知っていた。年齢が近いこともあったし、オリンピックで走り終わったあとの「すごく楽しい42キロでした」という言葉が心に残っていた。
このほかにも、1998年の名古屋国際マラソンでの「日本最高記録が出せてうれしい。マラソンは楽しい」というコメントからも、いつも前向きな選手だという印象があった。
しかし、当時はもっと深く知りたいという欲望が湧いてこなかった。仕事が忙しかったのと、マラソンという競技の奥深さを実感できていなかったのだ。
今思えば、その時に一歩踏み込んでいれば現役時代の彼女からどれほど励みをもらえただろうかと後悔している。
そんな私の人生が最近、高橋さんと交差したのである。
2020年、コロナ禍で緊急事態宣言が発令されるなかで、私は仕事のミスでそのフォローに追いかけられていた。
その時に気分転換で立ち寄った本屋で出会ったのが「脳を動かすには運動しかない」という一冊だ。科学的な視点から、運動がもたらす脳と心身への大きな影響について書かれている。
メリットとしてはまず、心血管系が強くなる。肥満を防ぐ。ストレスを抑え、気分を明るくする。免疫系を強化する。意欲を高める。脳の成長に欠かせいない栄養がさかんに供給されるようになる、などなど。
本のなかの一つ一つの実証が、今の自分に最も必要なのは運動だと訴えていた。
手軽に始められそうなのはランニングだったが、知識がないまま走ると膝を痛めると聞いたことがあった。誰かコーチをしてくれる人を見つけたかったが、人との接触は避けなければならないため無理であった。
その悩みをFACEBOOKに書いたところ、知人が「ライブラン」という無料の運動アプリをすすめてくれ、早速スマホにダウンロードした。ラジオの中継のように専属トレーナーの話をライブで聞きながら、走ったり、歩いたりできるのだ。多いときは、世界中から数百人が参加している。
トレーナー陣には、世界陸上の優勝者、もと格闘家の神主、サーフィンのチャンピオン、劇団四季の俳優などユニークな経歴の持ち主が揃っていた。
彼らがランニングはもちろん、ヨガ、瞑想、時にマインドの持ち方などを音声で指導しながら伴走してくれるのだ。
私はこのアプリの導きでランニングと筋トレを自然なかたちでスタートした。
そのクラスの一つに、高橋尚子さんがゲストで登場したのだ。2021年1月のことであった。
「何を差し置いてでも参加しなければ」という直感があり、時間になるとアプリを立ち上げた。
インタビュアーとして登場したのは、もとマラソンの金メダリストの瀬古利彦さん。なんともぜいたくな60分のセッションがスタートした。
アスリート同士だから競技の話が中心になると予想していたが、人生に置き換えられる深い気づきが詰まっていた。
私は、途中で何度も立ち止まって携帯のメモ機能に高橋さんの話を打ち込んだ。
こんな感じだ。
①走る前には、身体を触って身体の声を聴く。
②スタート地点では選手同士が団子になる。その状態にイライラしないこと。みんなが同じ条件なのだから。
③坂道は気のせい(坂道と思わないこと)。坂道と思った途端に苦しくなる。
④上り坂では、自分は子猿。下りは、小石だと思って走る。イメージが大事。
⑤途中調子が良いからとピッチを変えると、20キロ地点でバテる。
⑥スター選手でなかった時代、小出監督に「Qちゃんは世界一になる」と言われ続け、一年たったらそんな気がしてきた。自分への言い聞かせは効果絶大。
⑦頭で思うことは、身体がそう動く。
なかでも印象的だったのは、学生時代に恩師から贈られたというこの言葉だ。
「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」
明日すぐに花は咲くことがなくても、必ず未来に花を咲かせる準備をしているという意味で、高橋さんを最も支えてくれたという。
アプリには、セッション中に自分のコメントをトレーナーへ送る機能がついている。それがリアルタイムで読まれるのが特徴だ。
私は、仕事に追われて精神的に辛い日々を送っていたが、高橋さんの話を聞いて現実に立ち向かう力がまた湧いてきたことをコメントとして送った。
すると、それを読んだ高橋さんが「バジルさん(アプリ上での私の名前)、マラソンもビジネスも同じ。今は苦しいだろうけど絶対、大丈夫だから!」とセッション中に声援を送ってくれたのだ。
高橋さんは、マラソン中の苦しさを私の苦しさと重ねたのだろう。
その瞬間に、高橋さんの心と自分の心がシンクロした気がして、涙が出るくらいうれしくて一瞬で「あきらめずに続けていくことができれば、きっと乗り越えられる」と確信したことを覚えている。そして、実際に難局を越えることができた。
以来、日常的に苦しいことがあると「何も咲かない寒い日は……」という言葉を心のなかで唱えるのが習慣になった。
すると、次の瞬間に平常心を取り戻すことができ、淡々と目の前のことを続けていこうという気力が内側から生まれてくる。今日まで間違いなく魔法の言葉となってくれているし、これからもそうであり続けることだろう。
この文章を読んでくださっている方のなかにも、「こんなにがんばっているのに、自分だけなぜ報われないのか。辛い目に遭うのか」と何かを投げ出しそうになっている人がいるかもしれない。
自分に語りかけてみてほしい、「何も咲かない寒い日は……」と。
きっと何かが変わるはずだ。
《終わり》
執筆者プロフィール
杉村五帆(すぎむら・いつほ)。株式会社VOICE OF ART 代表取締役。20年あまり一般企業に勤務した後、イギリス貴族出身のアートディーラーにをビジネスパートナーに持つゲージギャラリー加藤昌孝氏に師事し、40代でアートビジネスの道へ進む。美術館、画廊、画家、絵画コレクターなど美術品の価値をシビアな眼で見抜くプロたちによる講演の主催、執筆、アートディーリングを行う。美術による知的好奇心の喚起、さらに人生とビジネスに与える好影響について日々探究している。
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