【Lv.01】何故、大人も子供も学び続けることが大切なのか〜心身の発達と教育の重要性⑨
前回の続きです。
義務教育修了までに学ぶ事で特に大切な事はこの世界における生きていくための共通認識であり、社会観・道徳観・倫理観ということで価値観の裾野を広げるために教わる作業で「基礎(型)」の段階です。
しかし人はそれぞれ生きている段階が異なります。
前回の記事(Lv.0)の有料部分でも触れている部分ですが、インド哲学や輪廻転生という考え方で言えば六道と表現できるでしょうか。
人は同じ時代に生きていながら生きている段階(レベル)が異なります。
実際に六道のような6段階なのか、また前回触れたような7段階なのかは解釈次第ですが、Level1の人もいればLevel5やLevel6などに生きている人も同時代にいます。
高位のレベルであるLevel6の人が観ている世界、例えばAmazon創業者のジェフ・ベゾス氏らが観ている世界とLevel1で今日自分が生きることに必死な人では同じものを見ても感じる事は変わってきてしまうでしょう。
尚、前回からの繰り返しになりますがここでのレベル(Level、Lv)とは経済的な物差しだけではなく、精神性、幸福感など多方面で最も低い水準の段階を指します。詳しくは前回の記事を参照。
ヴィクトル・ユゴーの代表作『レ・ミゼラブル』は19世紀初頭のパリを舞台に描かれます。
フランス人権宣言が出され絶対王政が崩壊。フランスにも資本主義が押し寄せ始め強烈な格差が生まれ、食うに困って生きるために主人公ジャン・バルジャンは若き日にパンを盗みます。
結果、彼はこのことがきっかけとなり19年監獄に入ることになります。
窃盗はいけないことと現在では多くの人が共通認識を持ってしていますが、では生きるために盗んだパンで19年も監獄に入れられる罪かと問うとそれは違うのではないかときっと現代の多くの人は考えるのではないでしょうか。
19世紀初頭のこの時代にはまだ生活保護という社会福祉の概念もなければ、フランスでは社会保障制度もまだ誕生する直前の時代。
この時代にもし仮に現在のジェフ・ベゾス氏らの現代の富豪らが生きていたら、そして持てる知性と財力でホームレスや生活が立ち行かない人たちに炊き出しを行ったり、彼らが手に職を持てるような支援組織を作ったりするのではないでしょうか。
生きている時代が違うだけで、私たちはかつてなら生きていけないような極度の貧困や住む場所を失うなどのリスクから知らず知らずのうちに守られています。
しかし歴史を学ばず、また理屈としての情報だけを取り入れていても実際の現実に何が起きているのか、それがどんな状況であるのかを本当の意味で理解することは困難です。
知識と感情・体験、そして行動はそれぞれ独立したもので、これらの外から得た刺激を結び付けて自身の内発的行動を促せるようにすることを「教育」と呼びます。
主観と客観
人間は基本的に”主観”による視点を持っています。
この主観とは以降の記事でまた触れたいと考えていますが、ここでは自分自身から観た自分の外の世界や、自分の内の世界に対しての観方であり価値観と捉えて下さい。
しかし学校の教科は”客観”による視点から世界を観たことを語っています。
私たちは主観と客観の共通認識を持つことで内外の世界を認識し、意思の疎通や交流をすることができます。
一方でこの”主観”と”客観”の違いを多くの方たちのように混同して学んでしまうと、片面だけ(客観)の世界の観方だけに取り込まれてしまい、”主観”について鈍感で探求の手がかりを失ってしまうことになりかねません。
テレビなどに代表されるオールド・メディアはそれを如実に行い、時に人々を扇動洗脳して世論を動かそうとします。
”共通認識”というものはとても大切で、最近で言えばある有名な若者がホームレスの命を軽んじたり生活保護受給者を侮蔑するような発言はこの共通認識が知識と理性、道徳や倫理そして実体験などそれぞれと結び付けられずに欠落していることで起きる問題でもあるように思えます。
社会的な問題と個人の置かれている状況、個人の意見はそれぞれ独立した別な問題であり、知名度や影響力のある人間がそれを発言することがどういうことかは十分に考えなければならないでしょう。
そして若い頃に確立したその人の持つ常識は、「人間性」や「人格」として時に混同して語られることがあります。
インターネット世代との差異
私は現在41歳の世代(1980年生まれ)ですが、高校生になる頃にはWindows95が登場し、インターネットがある世界というのが当たり前の青年期を過ごしてきました。
日本では就職氷河期世代(後期)とか、海外ではミレニアル世代などと呼ばれ、やや大きなくくりではデジタルネイティブ世代と呼ばれることもある世代ですがインターネットが登場する以前と登場した後の時代の両方を知るギリギリ最後の世代(1980年代)と言えるかもしれません。
この世代を皆一括りにしてしまうのは恐縮ですが、我々の世代は言葉の意味を知るためには本を読み、紙の辞書を引き、そして自分の中のバックボーンを育てていくということを私たちの世代の一部の人たち*まではやって来ました。
*育ててこなかった人たちが大部分だが。
具体的には本を読む際に作者の言わんとしている事(意図)を読み取るという読書の仕方は学校で教わる国語の学習の段階ですが、この前の段階には幼少期などの読み聞かせなど物語や情報の中に自分が入り込む(浸る)という基礎の段階が必要です。
そしてその次の段階にはその情報や物語を受け取る段階、咀嚼する段階があり、それに触れた事で自分の中から何が変わったのか、生み出されたのかという観察の段階とそれを自分の言葉にするアウトプットの段階があります。
そしてその情報や物語が現実世界と異なるという区別と分離の段階を経て、学校教育における相手の意図を読み取る段階へと発展していきます。
これが恐らく1990年代以降に生まれた人たちはインターネットがこうした言葉を覚える、学ぶ段階の時に既に当たり前のように普及していたのではないでしょうか。
彼らが10歳になる頃には2000年頃ですので、ADSLや光インターネットがものすごい勢いで家庭に張り巡らされていきました。日本のインターネットの普及率が一気に進んだ時代は携帯電話の個人所有も一気に進んだ時代です。
彼ら彼女たちが中高生になる頃には、スマートフォン(2007~)が登場してニコニコ動画やYouTubeなどニューメディアも登場して今日の原型となるSNS(facebookやTwitterなど)も盛んに利用されるようになりました。
1980年代と1990年代の幼少期~青年期(大学卒業まで)を比べるとその学習における環境と情報量の違いに大きな隔たりがあることを感じるでしょう。
どちらの時代が良かった悪かったではなく、どちらの時代に生まれ育ったとしてもその情報の取捨選択は常に一人一人に与えられていました。
但し、放っておいても情報が溢れてなだれ込んでくる1990年代と比べて、1980年代は自分から主体的に動かなければ情報にたどり着けなかった時代であるということを念頭に思い出してほしいのです。
例えばテレビゲームの攻略法一つ取り上げてみても、1980年代は自分で頭をひねって、時間をかけてやってみるか、同じゲームをやっている友人らと情報を交換するか、発売日から時間がやや経ってから発売される攻略本を観て攻略法を得ていました。
しかし1990年代生まれは既にインターネットが普及しており、攻略Wikiなどを観ながら攻略法をピンポイントで検索して絞り込んで、いわば結論だけを抽出してそれを活用します。
やや分かりづらいですかね?ではこうしたらどうでしょうか?
旅に出かけようという時に、時刻表という辞書のように分厚い冊子…これを引いて乗り継ぎする電車を逆算して旅行の行程を組み立てるという作業をやったことがあるか、ないかです(笑)
NAVITIMEや駅スパート、Yahoo!路線検索で出発駅と到着駅と出発/到着時刻を入力するだけで最短の乗り継ぎ方法を探してくれる現在はとても便利ですが、この便利さによってそぎ落とされてしまったものが何なのか。
個人的な体験ですが、電車がどのルートを経由して目的地にたどり着くのか。このルートはどうしてこの山間部を走っているのか、この乗継の駅は何故ここで乗り継ぎになっているのか。
地形やその土地の歴史や背景などを学ぶ絶好の機会でしょう。(新幹線ではなかなかこういうことは感じづらい、なんかブラタモリ的な話ですね)
乗継の合間に駅を出て、時間を潰した町で思いがけず出逢った景色や人々の姿…自分が住み慣れた土地ではない場所で、人が生活をしている姿を見て、その季節の気温や匂い・味を記憶に刻んでいくこのアナログな作業は、単なるノスタルジーではなく、人生の豊かさだと私は思います。
これはそのまま勉強や学習にも同じことが言えます。1980年代生まれは幼少期から絵本や図鑑・百科事典などの紙媒体の本を手にして、その情報から自分が得る情報の取捨選択を行ってきました。
書店や図書館はこの世の様々な情報が集まった神聖な場所でしたし、本を買って手にするというのは情報と同時に、所有という価値をもたらしてくれました。
「この本面白かったよ」などと言って、貸し借り(回し読み:共有)ができるのも紙の本の大きな特徴で大切な文化だったと思います。
しかし1990年代以降、絵本や図鑑・百科事典なども一部には残るものの、インターネットの普及によってその情報は「キーワード検索」によって条件合致を前提としており、思いがけない情報との遭遇や不都合な情報の切り捨てを半自動的に行うという状況に傾倒していきます。
検索の仕方を変える方法もありますが、わざわざそれを利用しているのは恐らくごく一部の人たちに限られているのではないでしょうか。
書店は次々と姿を消し、今や一部の書店が細々と営業をしているにとどまり、図書館はインターネットにその役割の一部を奪われかつてよりも静かで、無償で本を借りられるなどの娯楽に置き換わりつつあります。(別にこれが悪いわけではない、静かなのは利用者にとってはありがたい)
電子書籍が登場したこともあり、現在では情報を得るが容易になりました。
一方で情報の共有という点ではどうでしょうか?
Googleなどインターネットで検索をして得られる情報に価値はあるでしょうか?
知識はあくまでも知識であり、知識のままだと殆ど価値はありません。
誰もがアクセスできる情報に、情報としての価値はほぼありません。
同じようなキーワードで検索をすればいいだけです。
かつてインターネットが現在のように普及する以前(1990年代以前)は、知識・情報を得るためにはコストがかかっていました。
新聞・雑誌・書籍…そしてそれを読む能力・理解する能力・それを自分の腹に落とし込み活かせる能力がバラバラでした。
しかしインターネットへのアクセスが容易になったことで急速に知識を誰もが得られる時代になりました。
なのにそれを理解する能力・自分の腹に落とし込み活かせる能力は置きざりにされ、知識だけが偏重されて肥大化しているように感じられます。
誰かが一部だけを切り取った情報を発信して、その結論だけを知って全体を知ったように思い込み知識を持っていることをアピールする。
この浅ましさに誰も気持ち悪さを感じないのでしょうか。
やや意地悪な言い方をすればこの結論を発信している人が発した受け手にとって都合の良い情報が間違っていたとして、多くの人に伝播して、多くの人が何もそれを疑いもせず間違った行動を誘発するドミノ倒しのような事が起こらないとも限らないという危惧があります。
かつてナチスドイツでヒトラーが集団心理を掌握して民主主義の名の下に独裁者となったように、人々が大勢の意見に飲み込まれて考えるのを放棄した時、権力は暴走し、破壊と破滅に向かいます。
知識は、生きていくために活かされてこそ生活の糧となります。
しかし活かされず、考えることが放棄された情報はやがて血液の中のコレステロールのように社会の歯車の動きを乱し、それを社会の歪みとして何処かに吐き出していきます。
我々人間にとって知識(知る)と体感(分かる)・実体験(できる)はそれぞれ別なレベルの話なのです。
子どもにデジタル機器を与えない
かのスティーブ・ジョブズは我が子たちにiPadやiPhoneなどを幼少期に持たせなかったと言います。
自分の創り出した世界中の大人たちが驚くような革命的な商品なのに?
デジタルデバイスの有用性は、それをコントロールできる人間になってからでなければ有害と彼が考えたのかは分かりませんが、少なくとも私はそう思っています。
何故、デジタルデバイスを幼少期の子どもに与えなかったのでしょうか?
私はデジタルデバイスは消費者のためのものであって、機器やサービスを創り出す側のものではないからだと考えています。
我が子を消費者にするのか、機器やサービスを作る側(クリエイター)にするのか。
この発想は私たちが子どもの頃、テレビゲームを与える親と与えない親がいましたが、とてもよく似ていると思います。
消費者とクリエイターはまるで思考の仕方が異なります。
人は放っておいても消費者にはなれますが、クリエイターには放っておいてもなれません。
クリエイターになるためには渇望感、欲求を高め、想像力を働かせる余地(余白)が必要です。
そしてそれを育てるのは幼少期の頃の、自分で知識や情報を主体的に取り込み咀嚼して、自分が進むべき道を自分で選ぶことで開拓されていきます。
幼い頃からデジタル機器に慣れさせるは百害あって一利なしです。
説明書もなく操作ができるiPadやiPhoneに慣れるも何もありません。
何歳からでも与えればすぐに使えるようになります。
もっと言うなら未就学児(小学校入学前)にデジタル機器は不要です。
そんなものを一人で触らせる時間があったら、裸足で土の上でも散歩したり、木と木の間にかけたハンモックに揺られて昼寝でもした方がよほど人生経験を豊かにしてくれるでしょう。
こういう考え方、個人的に近いのは嫌なんですけどこの人の意見と近いんですよね(笑)
子どもの発育・発達段階から考える習い事
さて、子どものいる保護者であれば習い事を検討している方や既に学ばせているという方もいるでしょう。
子どもの習い事で人気なのは音楽や水泳、体操教室、英会話教室などでしょうか。
何故、音楽や水泳などは幼児期の子どもたちを持つ保護者たちから人気の習い事なのでしょうか?
何を与えるかは大切ですが、それは何を目的にそれを学ばせるのか。
まだ物心のつかない子供に代わって保護者が判断をする必要があります。(責任)
ピアノであれば音感を育てたいのか、育脳のためなのか、音楽を楽しむ感覚を与えたいのか…
それによっても通う頻度も練習の密度も、何歳から通わせるかの時期も変わってきます。
「スキャモンの発育・発達曲線」というデータがあります。
生殖型は卵巣・精巣などいわゆる生殖(第二次性徴)の発育・発達段階でおよそ18~20歳までには殆どの人が成人と同じ成熟の段階に到達します。
身体型は心臓・肺・骨・筋肉や臓器などが完成する段階です。
神経型は脳やせき髄などの成熟について、リンパ型は胸腺・扁桃などの成熟を表しています。
運動神経を良くするには0~6歳の生活が重要とされています。
人間は頭脳(知識)と身体は連動しますが、直接結びついていません。
脳神経と運動神経を結び付け、行動に起こせるようにするとは、人生におけるあらゆるシーンで役に立つ基礎ではないでしょうか。
保護者達が子どもにこうしたことを学ばせようとするのはこうした効果を期待してという面もあるのではないかと思います。
一つの型を学ぶことは、この後でも触れますが他の型を学び応用する上でもとても重要な要素になってくるからです。