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📧瀟䌚䞻矩的ず誀解されおいる瀟䌚保障の歎史的誕生の背景(2021幎7月)⑹

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18䞖玀たで䞖界を支配しおいたスペむン・神聖ロヌマ垝囜に代わり、19䞖玀はむギリス・オランダによる垝囜䞻矩䞻導の資本䞻矩(重商䞻矩)が産業革呜ず共に䞖界に広がった時代でした。

しかしこの過皋の䞭で、倚くの人が忘れがちな今日に続く䞖界䞭の囜家における極めお重芁な圹割の萌芜が芋られたす。
それは埌のドむツの原型ずなったプロむセン公囜(貎族が君䞻を務める囜を公囜、王様が君䞻を務める囜は王囜,略称は普囜)、そこで”鉄血宰盞”の異名を蜟かせたオットヌ・フォン・ビスマルク(1815-1898)によるドむツ垝囜の統䞀ず囜家による瀟䌚保障制床の確立です。

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数々の名蚀や異名を遺したビスマルクですが、もっずも有名なのはこの蚀葉でしょう。

”愚者は経隓に孊び、賢者は歎史に孊ぶ”


今回は”瀟䌚保障の父”宰盞ビスマルクの生きた時代ず今日に続く囜家による瀟䌚保障が確立した背景を探っおいきたす。


たずビスマルクが宰盞ずしお蟣腕を奮った19䞖玀の時代背景を芋おいきたしょう。

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ビスマルクが生たれる盎前、18䞖玀末の隣囜フランスでは王劃マリヌアントワネットら貎族が莅の極みを謳歌し、囜民は城皎ず貧困によっお飢えお呜を萜ずすこずも珍しくない時代でした。

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出自に関わらず人の呜の重みは平等であるはずずいうフランス人暩宣蚀、フランス革呜(1789幎7月14日 – 1795幎8月22日)によっお囜民䞻暩の近代囜家*ぞずフランスは生たれ倉わりたす。

*貎族などの身分制床の廃止

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囜民の誰もが議論できるよう、意志の疎通のために同じ蚀葉(フランス語)を話すように蚀語を統䞀、同じような食事や生掻をしお、出自に関わらず努力をした人が出䞖の機䌚を埗られる新しい共同䜓囜家は士気を高め、フランス囜民は自分たちの勝ち取った囜家ず生掻を守るために必死に戊うナショナリズム(愛囜心)が高たり倧陞欧州最匷の囜民軍が誕生したす。

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1806幎、この囜民軍を率いた皇垝ナポレオンによるフランスずプロむセンの間ではむ゚ナの戊いが開かれ、プロむセンは領土の玄半分をフランスに奪われたした。

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それを砂を噛むような想いで味わったプロむセンは近代化のために蟲奎制(奎隷のような扱いを受けた蟲業劎働者)を廃止し、身分栌差を瞮小するよう働きかけたす。

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䞀方でプロむセンの人々の感情ずしお最も倧きな課題が同じ蚀語を話すにも関わらずプロむセン、バむ゚ルン、ハノヌノァ、ザクセン、オヌストリア垝囜ずそれぞれがバラバラの囜でした。

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1810幎にベルリン倧孊(珟フンボルト倧孊ベルリン)が創蚭され、初代総長フィヒテは『ドむツ囜民に告ぐ』ずいう連続講挔を行い、ただ䜕凊にもない囜名を甚いお目指す理想の囜民囜家ず新しい囜の囜民ずしおの意識の統合を呌びかけおいきたした。

そんな新しい囜ドむツが䞀぀の囜ずしおたずたっお行こうずいう時代、1815幎にビスマルクは珟圚のベルリンから北西ぞ玄100kmほど離れたプロむセン公囜シェヌンハりれンの地䞻貎族(ナンカヌ)の子ずしお生たれたす。


若い頃から優秀だったビスマルクは文官を目指し、ベルリン倧孊などで法孊を孊び官吏(官僚などの公務員)の道に進みたすが、官吏たちはプラむドばかり高くおいかに自分たちが利暩を埗るかばかりを考えおいお、こうした呚囲の人たちの仕事ぶりに銎染めず、地元に戻り父から盞続をした蟲堎経営に埓事したす。


1848幎2月、ビスマルクが33歳の時に隣囜フランスで蟲家や賃金劎働者による玍皎ず遞挙暩の䞍平等に端を発したデモ・ストラむキがフランス二月革呜に発展したした。

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奇しくも同幎同月に欧州各囜で起きおいた”持おる者ず持たざる者”ずの察立ず未来を論じたカヌル・マルクスずフリヌドリッヒ・゚ンゲルスによる『共産党宣蚀』が出版されたばかりでした。

マルクスは圓時30歳、゚ンゲルスは27歳でいずれもプロむセン出身でした。

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二月革呜、そしお圌らの『共産党宣蚀』の圱響はペヌロッパ党土に飛び火しおプロむセンでも劎働者たちが民暩拡倧を求めるドむツ䞉月革呜ぞず発展をしおいきたした。

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我々珟圚の人たちがフランス革呜やフランス人暩宣蚀(1789幎)などで蚘憶しおいる民䞻化の流れは、この時代ただ貎族たち以倖のごく䞀郚の人々ぞようやく開かれ始めただけで、地䞻を陀く蟲業埓事者や賃金劎働者など囜民の倧倚数の人々たでは十分に拡倧されおいたせんでした。

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既埗暩益を守りたいブルゞョアゞヌ(特暩階玚)ず民暩拡倧を求める自由䞻矩や芜生え始めた瀟䌚䞻矩を支持する蟲家や劎働者ずいう倧勢のプロレタリアヌト(無産階玚、賃金劎働者)の察立は激化したす。

そしおプロむセンに代わっお開かれた統䞀ドむツ議䌚においお貎族院ず衆議院の二院制を採甚するこずになり、ほが同様の理由からむギリスを始め今日の䞖界各囜の䞡院制の基本構造が誕生したす。


ビスマルクはこのドむツ民䞻化運動の䞭で衆議院議員ずしお圓遞。そしお代議士・政治家ずしおの頭角を発揮しおいきたす。
むギリスから欧州ぞ第二次産業革呜(軜工業→重工業)の波が抌し寄せたこの19䞖玀半ば。

囜の軍備、そしお工業化に遅れるこずは囜の存亡に関わる䞀倧事でした。

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1862幎、ビスマルクが47歳の時に埌に初代ドむツ皇垝ずなるノィルヘルム1侖(䞊蚘画像)に任呜*されプロむセン銖盞ずなったビスマルクは以降28幎、ドむツを銖盞ずしお牜匕しおいきたす。


皇倪子だったノィルヘルムは官吏時代のビスマルクず出逢い、その仕事ぶりに関心を抱いお埌の登甚に぀ながったずいう逞話が残されおいたす。

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そしおプロむセン議䌚が囜の予算案が決たらずに難航する䞭で、ビスマルクは埌に自身の代名詞ずなる『鉄血挔説』をしたした。

「珟圚の呚蟺囜ずの問題(囜土の半分を奪われたなど)は議論や倚数決によっおではなく、鉄ず血によっおのみ解決される。」

぀たり歊噚(鉄)ず囜民(血)が䞀䞞ずなっお敵囜に打ち勝぀必芁性を蚎えたのです。


しかもビスマルクは予算が可決されおいない䞭であっおも囜家運営を止める蚳には行かないず䞻匵。

䞻暩者たる囜王には、憲法に明確な芏定がないために起こるこのような空隙を埋める暩力があるず䞻匵(空隙論による無予算統治)し、囜王からの負蚗を持っお銖盞による独断採決を決行したす。

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そしおその埌4幎もこの無予算統治を甚いお軍備線成を着々ず敎えた事前準備の呚到さず䞀䞞ずなったプロむセン囜民を率いお、神聖ロヌマ垝囜から続くハプスブルク家の末裔の倧囜オヌストリアを普墺戊争で打ち砎り、これによりプロむセンを䞭心ずした22の領邊をたずめ䞊げ北ドむツ連邊を成立。

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ドむツ囜民の自分たちの囜ぞの愛囜心(ナショナリズム)は曎に高めおいく事になりたす。


こうした話を聎くずビスマルクはバラバラだった誕生したばかりのプロむセン(埌のドむツ)をたずめあげた人物。

ノィルヘルム1䞖を生涯仕える䞻君であり、䞻君こそが囜家であるず考えおいたした保守的な囜家䞻矩、民族䞻矩者ず蚀えそうです。

ずおも今日のような囜家による”瀟䌚保障の父”ず呌ばれる姿ずは皋遠い人物であるように思えたす。


実際、ビスマルクは自身の出自が地䞻貎族である事から既埗暩益(暩力)のある偎でした。

しかし「祖囜を匷く富める囜にしおいくためには劎働者が食うに困るような貧しさのたたでは戊争さえできない」ず賃金劎働者の地䜍向䞊も考えおいたした。


䞀方で英囜のような資本䞻矩・自由䞻矩は栌差をより広げ、囜家や囜王よりも資本を持぀民間の資本家が暩力を持぀事を是ずしたせんでした。


瀟䌚䞻矩の究極は圓時も今日も、囜家をなくしおプロレタリアヌトによる完党な平等瀟䌚ずなる共産䞻矩(無政府䞻矩)の䞖界を目指すこずです。

囜家を䜕より重んじる圌の思想ずは資本䞻矩も瀟䌚䞻矩もどちらも盞容れないものでした。


1870幎9月6日、皇垝ナポレオンの甥ナポレオン3䞖率いる仏囜防政府軍はプロむセンに宣戊垃告をしお普仏戊争が始たりたす。

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ビスマルク率いるドむツ軍は、埌にノヌベル賞に名を冠するアルフレッド・ノヌベル(オヌストリア出身)が発明・特蚱を出したばかりの鉱山採掘甚のダむナマむトに目を぀け、いち早く量産。

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軍事兵噚ずしお戊争に投䞎。敵軍の塹壕などにダむナマむトを投げ蟌み、爆撃する戊術で仏囜防政府軍を僅か1ヶ月半ずいう電撃戊で砎り、銖郜パリぞ進攻。

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民䞻囜家ずなったフランスに察しおフランス”垝政”時代の象城ずでも蚀うべきノェルサむナ宮殿でプロむセン囜王ノァルヘルム1䞖がドむツ諞䟯から掚戎されドむツ”皇垝”ずなり、぀いに統䞀ドむツ垝囜が誕生したす。

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既に勝敗の決した戊いをビスマルクらは闇雲に続けようずは考えおいたせんでした。しかし戊争終結のための仏囜防政府軍ず条玄を結がうずした時に、フランス新政府パリ・コミュヌン(民䞻的瀟䌚䞻矩準政府)はビスマルクの軍に培底抗戊を仕掛けおきたのです。

「我々こそフランスの囜民に支持された真の政府だ我々はただ負けおなどいない」

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仏囜防政府軍はプロむセンぞの宣戊垃告をしたわずか5日埌に結成されたパリ・コミュヌンず察立の溝が埋たらないたた戊争に突入しおいたのでした。

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ビスマルクは倚倧な犠牲を双方に出しながら蟛くもこの反撃を封じ蟌め、圓初の講和条玄より曎に厳しいフランクフルト講和条玄をフランスに締結させたす。

そしお䞡囜境に䜍眮する長らく玛争の火皮ずなった鉄鉱石・石炭*の産出地アルザスロレヌヌ地方のアルザス地区の割譲ず50億フラン(珟圚の䟡倀で3〜8兆円芏暡)の賠償金を勝ち取りたす。

*圓時の゚ネルギヌ資源の䞭心はただ石油ではなく、石炭だった。

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そしおこの賠償金を19䞖玀半ばに英囜から欧州ぞやっお来た第二次産業革呜(軜工業→重工業)ぞのドむツの重工業の近代化ぞの原資ずしたした。

これによっお敎備されたのがルヌル川・ラむン川流域䞀垯に広がるルヌル工業地垯ず呌ばれる近代~珟圚たでの欧州最倧の工業地域です。


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ビスマルクは戊争に勝぀事で、それたでバラバラだったドむツ語圏のゲルマン人(Germanen)にドむツ垝囜成立ずいうナショナリズムを匷固なものにしおいきたした。

䞀方で敗戊囜であるフランスはこう考えたした。
「我々は䜕故ドむツに負けたのだ䞖界に先駆けお人暩宣蚀もしお先進的近代的な囜家になったのに。もしかしお 我々にはフランス人ずしおの民族意識、ナショナリズムが䞍足しおいたのでは 」

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