ズル休みの哲学、私を形成した自己正当化と自己肯定感(黒歴史)⑥
皆さんはズル休みをしたことがあるでしょうか?
学校であれ、会社であれ、事情は兎も角として誰しも一度はありますよね?
(え?したことがない人とか本当にいるの?)
時計を見て、学校では授業が始まる時間になったのに布団の中にいる…
ズル休みでする二度寝の寝心地という名の罪悪感は、
まさに至高ですよね(´艸`*)海原先生
ましてや同級生たちが勉強しているはずの時間帯にする遊びともなれば、
「俺やってやりましたよ!」という妙な高揚感を与えます(笑)
※学校には目的をもって行きましょう。何か学べることがあるはずです。
私の「ズル休みの哲学」
私は学生時代、多くの人が経験するであろう煙草と万引き以外のいけないことは大体経験しています。
不登校も経験しました。
いじめも経験しました。
自殺未遂も経験しました。
高校受験失敗もしました。
高校生で親元を離れての下宿生活も経験しました。
高校退学も、高校受験浪人もしましたし、
1歳下の人たちと高校一年生をやり直すという経験もしました。
同級生より遅れて19歳で高校卒業という経験もしました。
大学で転入や科目等履修生という経験もしました。
同級生よりも2年遅れて社会に出ました。
数々の経験の中で、私が最大級のそれを確信したのは中学3年の運動会でした。
運動会は日曜開催でしたが、私はズル休みをしました。
この「ズル休み」こそ私の学生時代の中で、至高の経験でした。
学校が嫌いだったから?運動が苦手だったから?
いいえ、確かに学校はそんなに好きではありませんでしたが別にそういう理由ではありません。
確かにスキップはできませんし(/ω\)
それで泣きを見たこともありますが(T_T)←プライドだけは高い(笑)
※川田アナ、ご出産おめでとうございます。今も大好きです(´艸`*)
スキップもできないなんてくだらない理由で学校を休むなんて馬鹿です。
たとえイジメられても、テストの点数が悪かったとしても、好きな子にフラれても、腕の骨折をしても、学校を休まなかった中学時代の私。
しかし、その日だけは、どうしても譲れなかったのです。
そんな私が運動会を休んだ理由、それは…。
なんと私が当時、ドはまりしていたママレードボーイ(アニメ)の最終回と運動会の日が重なったのです!!!(大事件!!!)
私は原作(漫画)も追っかけていました。
だけど、気になる♪~ (・ε・)
原作とアニメ版は後半のエピソードが異なったこのアニメ版の最終回。
原作も間もなく最終回を迎えることが発表されていたタイミングで、地方ではアニメの方が先に最終回を迎えるとなり、運動会を休むという強硬手段に出ました。
そもそも運動会が雨天延期になって、翌週にズレたのがいけないのです。
最終回1つ前なら録画でも構いません。我慢できます。
しかし最終回だけは譲れません。
(このこだわり方が既にオタク)
尚、思春期の中学生男子が少女漫画(アニメ)の最終回を理由に学校を休むなど恥ずかしくて親に言えるはずがありません。
具合が悪い…ということで仮病をしました。
そして我が家にアンテナ線がつながっているテレビというのは当時、3台しかありません。居間では父が終日ゴロゴロしています。両親の寝室では母が授業の準備をしています。同居していた祖母の部屋には四六時中祖母がいます。
そこで私はお年玉貯金を崩して、この最終回のためだけにこれを買ったのです。
2.3型ポータブル液晶テレビ(確かカシオ製だったはず…画像はイメージ)
これなら布団の中に隠れていても観られる!!
2.3型って履歴書に貼る証明写真くらいの大きさ!!(笑)
この機種は乾電池で動くので小学生の頃にミニ四駆で使っていたニッカド電池(寿命ギリギリ)をいっぱい持っていた私はメモリー効果を回避するために数日前から放電をさせ、予備の電池も含めて備えていました(完璧か!)
すぐ消耗が激しくてすぐに電池がなくなるんですよ。小学生の頃から使っていたニッカド電池の寿命が近かったのもあるかもしれないけど。
そうして親の目を盗んで、小さな画面を見ながら涙し、その余韻に一か月ほど浸っていたのです。
※今でも私は『ママレードボーイ』(全8巻)を読むと7巻から鬱っぽくなる。
ズル休みのリスクと鬱、正当化の重要性
ズル休みというのは嘘をついて、学校だったり仕事だったりを休んでしまうことですから決して褒められたことではないでしょう。
しかし、そもそも誰かに褒められるからズル休みをしないのでしょうか?
自分のしたいことをするために休むのではないでしょうか?
それは一体、誰のためでしょうか?
誰のための人生でしょうか?
だとするならば、ズル休みをするのに
本当に誰か他人からの評価は必要でしょうか?
私はズル休みには休んだ本人にもリスクが跳ね返ってくると考えます。
1つは自分自身に対する信頼度が低下するというリスクです。
何かをしようという時に、ギアが噛み合わないような、頑張らないといけない時にパワーが出ないような状態に将来何処かで陥るリスクを背負うことになります。
そして「自分は頑張れない人間だ」と自己否定をしてしまう負のスパイラルに陥る、ツケと言われる奴です。
乱れた食生活をしていると、今は良くても年を取ってから糖尿病になったり、メタボになったりするのと似ているように思えます。
心の中は眼に見えませんが、こうした自分に嘘をついたりすることはストレスとなり、やがて自分自身への肯定感を削っていきます。
またもう1つのリスクは周囲からの信頼度の低下です。
突然休まれると学校や職場で、その事による迷惑が発生しないでしょうか。
予め周囲に伝えておき、そしてフォローができる状態を作っていないとするならばそれは単なるわがままを通り越して自分勝手です。
私の場合には中学時代、基本ぼっちでしたのでそのあたりの心配はありません。(笑)
むしろ色々な役割を押し付けられてウンザリしていたので、役割を放棄するのにうってつけでした。(発想が陰キャ)
しかし通常はこれをやることで別な機会にしわ寄せを受けるリスクを招きかねないということは理解しておく必要があるでしょう。
ちなみに、私の経験から1つ目の自分に対する信頼度、これが低下しすぎると鬱になります。(自己肯定感が低すぎる場合。)
自己肯定感が高すぎ、現状とのギャップを理解して、そこまでの道筋(プロセス)が感覚的なものを含めて見通せない場合にも人は鬱になります。
つまり自分に失望をするということで、エネルギーが枯渇してしまうタイプの鬱もあるということです。
これは結論・結果重視の人にとってプロセス(課程)がかったるいために苦痛を感じやすいためだと思います。
しかしこのプロセスを軽んじる傾向が昨今、世の中の多くの人に増えてきているようで、強く危惧しています。
プロセスを経なければ結論・結果には至らないのは子供でも理解しているはずですが…。
これも詰め込み教育の弊害でしょうか?(; ・`д・´)
投資とリスクは人生に欠かせない(中学生の私へ)
これはYouTubeの有名なキャッチコピーですが、
好きなことを目一杯楽しむことに異論はありません。
しかし好きなことをして、それだけで生きて(食べて)いけるかは別物です。
ですが、同時にこうも言えると思うのです。
人生は短い…かもしれない。
人生100年時代なんて言われているけれど、
いつ終わるかなんて誰にもわからない。
やりたいと思っていたこと、観たいと思っていた作品を観る事、読みたいと思っていた本を読み終える前に不慮な事故で、突然終わることもあります。
そのきっかけは病気かもしれません。
災害かもしれません。
金銭的な理由かもしれません。
本人が望んでいようとも、望んでいないとしてもその日は無情にも突然やって来ます。
恋愛脳の私にとって、中学時代の自分に呼び掛けることがあるとするならこういうことを伝えたいのではないでしょうか。
たとえば大切な人がいて、交際をするとか、手をつなぐとか、抱きしめるとか、キスをするとか、その先とか…(中学生だった当時の想像力の限界)
そういう結果は置いておくとして。
気持ちを伝えるのに、ためらう必要なんかないんじゃないか。
全部が終わって、どうして伝えられなかったのか後悔するよりも、
伝えて、もしかしたらフラれたり、距離を置かれたり、今の関係が壊れてしまったとしても。
もし言えないとしたら、それは知られてはいけない気持ちなんだろうか?
好きって態度で示しているのに?
気づいてと、言わないでも伝われって思っているのに?
もし今の関係が壊れてしまうのが嫌なら、その気持ちって今の関係の方が大切って事なんだろうか。
これって私は投資と同じだと思うんです。
今の延長線にある未来(運命)と違う未来を手に入れるためには、
今、手にしているものを手放さなければいけない。
両手がふさがっているままでは、新しいものは手に入らない。
望んだ未来を手に入れるというのは、それ以外の未来や可能性を手放すということと裏表の関係です。
またこうも言えるのではないでしょうか。
人生は、小学生の頃などにやった「荷物持ちじゃんけん」みたいなもの。
時には交代したり、それぞれが背負ったり。
そういうのが二人にとって日常になることを「結婚」と呼ぶのかもしれません。
他の人の荷物を背負う気がない人は、自分が荷物を背負うのが難しくなった時に他の人に助けてもらうことはできません。それは自分勝手だからです。
また私の運動会をズル休みしてまで観たアニメの最終回で描かれたストーリーや作画や様々なものの評価は兎も角として、
自分はその日に向けて出来るだけのことをしたというプロセス(投資)、その結果が最終回の感動・余韻のスパイスになるというのは後の私に大きな影響を与えてくれました。
ズル休み、それは決して褒められることではないでしょう。
しかしただ休んだのではなく、自分の大切にしたいものを大切にするという最も価値があるものを手にすることが出来ました。
人によって大切にしているもの、大切にしたい事は異なるでしょう。
みんなが同じである必要性など何処に存在するのでしょう。
代替可能な存在であれば、それは置き換えられるということです。
そこに価値はあるのでしょうか。
あなたはそこに価値を見出せるでしょうか。
ズル休みは、没個性の中学校時代の私にとって、私が私であるという個性の発露という大きな出来事だったと思います。
ズルをするというのは、背負うリスク以上に得られるものがあると考えるからそうするのです。
それを得るという事に、タダでは転ばない。
ズルをするからにはそれをたっぷり堪能するという覚悟が必要でしょう。
これが私の「ズル休みの哲学」です(笑)
それにしてもこの思い切った行動力、決断力…人の欲望、衝動ってのは本当にドン引きするくらいのエネルギーを持っていますね(´艸`*)
こういう衝動が、日本でも社会や世界を変えたりする方向になるようなイノベーションに活かせないものでしょうか。
こうした人生のほんの些細なことが、後からこうした記事を一つ書けるくらいのものになるのですから、「点と線」という考え方は本当に奥が深いものです。