千の風になって
皆さん、こんにちは。柳本です。
今日は先日からずーっともやもやしていた事に対して気持ちの整理をつけるという意味で筆を進めたいと思います。
4月中旬に私の祖母が他界をしました。老衰でした。80代後半まで天寿を全うしてくれたと思います。
しかし非常に残念なことに海外に住む私は、お通夜や告別式には参加することができませんでした。ただ、姉の配慮もあって、納棺式はLINE越しに参加をすることができました。田畑を愛し、自然に囲まれて生きてきた祖母のために、たくさんの綺麗な花で棺が覆われる様子を目にすることはできました。
コロナさえなければきちんとお別れをできたのにな、という悔しさはあります。もちろん日本に帰国した際にしっかりとお別れを伝えたいと思います。それでも旅立った祖母に向けて自分の想いを綴って起きたいなと思います。あまり湿っぽくならないように善処しますので、どうかお付き合い下さい。
注がれた愛の大きさは測れない
以前のnoteにも記載しましたが、私が幼少の頃、我が家は4世代家族で暮らしておりました。いわゆる「おばあちゃん」が祖母と曾祖母の2人いたので、「おおばーば」と「こばーば」で呼び分けていました。
温厚なおおばーばに比べてこばーばは活気があり、更に血気溢れる祖父ことじーじと良く口げんかをしていた事を今でも覚えております。子供ながらにあんなに怒っていても仲良く夫婦でいられるもんなんだなぁと思っていました。
こばーばは前述の通り活気があるだけでなく、少し「しつけ」に厳しい人だったので、細々とした指導をされたのを良く覚えています。こばーばがかつては小学校の先生だったのもあるのでしょうが、背筋が曲がっているとか、字が汚いとか、作文が下手だとか、学校から帰ったら制服を着替えなさいとかいろいろ指摘されましたね。
純一郎少年は特に落ち着きのない子供だったので(それは今も変わりませんが。。。)、地元の書道教室に通わせようとこばーばが父と母に提案をしたようです。私はじっとしているのが苦手だったので当初死ぬほど嫌がりましたが、小学校から帰ってくると今日は書道教室にいく日やろ?とこばーばに詰められて、遊びたい気持ちを抑えて泣く泣く通っていました。ただあろう事かその嫌々始めた書道をなんと高校生の1年まで続けました。小学校6年から書道の良さを改めて気づく事ができたので、これは今でもこばーばに感謝しています。
そしてこばーばは私の話をとても良く聞いてくれました。私は学校での出来事を話すのが好きだったので、夕食の時など話をふんふんと聞いてくれました。我が家は父も母も共働きだったため、幼稚園の送り向かいもこばーばが母に変わってやってくれていました。小学生になってからも学校が終わったら、こばーばがおやつをくれたり、お握りを作ってくれたりと何かと世話を焼いてくれました。
我が家には、家で食べるための野菜と果物を育てる小さな庭があります。学校から帰宅して家にこばーばがいない時はよくその畑を見に行きました。すると畝の中で一生懸命にかがんで作業をするこばーばを見つけました。こばーばは畑でいろんな事を教えてくれました。土の大切さ、季節毎で変わる虫や草花について。農作物を植える時期や水やり、除草について。自然との向き合い方や接し方を教わりました。何より果物や野菜をこばーばと一緒に収穫するのはとても好きになりました。一輪車いっぱいに積んだ収穫物を家まで押して帰る瞬間はとても誇らしかったのです。
小学6年の時に曾祖母であるおおばーばが肺炎で他界しました。おおばーばがとても好きだった私はショックを受けました。身近な人の死というものを初めて体験したからです。いつもはあんなに快活なこばーばも、血気盛んなじーじもお葬式では涙をこぼしているのを見て、人が亡くなるって周りの人が悲しいことなんだな、と改めて感じたのを今でも覚えています。
中学生になってから私はようやく自分の部屋を与えられたのですが、なんと祖父母の生活する建屋の2階で暮らせとなりました。何で私だけ(ただでさえ口うるさいのに)という想いもないではなかったですが、しぶしぶ受諾して新しい生活がスタートしました。
こばーばもじーじも他のご老人のご他聞にもれず、朝方だったため、夜は大きな音を出すと怒られ、忍び足のスキルが高まりました。中学生なので夜中まで勉強をしているとこばーばがたまに扉を開けて勉強しているのかを確認してくることもありました。(もちろん事前に声かけはしてくれましたが)あと、私は寝言を言う癖があるのですが、こばーばはよくそれを聞いていて「純ちゃん昨日寝言で叫んでいたけど、何か嫌なことがあったのかい?」と優しく聞いてくれました。何かにつけて不器用な孫を心配してくれました。
中学生になってからは部活も塾通いもあったので、以前ほどこばーばと話す時間は減りましたが、食事の時や特に予定がない時には時事ネタなどをよく話していました。私がいまでも人の話を基本的に素直に聞けるのはこうしたこばーばの聞いてくれる姿勢や話し合う姿勢を教わったからだと思います。
年を取るということは子供に戻るということ
受験に合格して晴れて高校生になった頃から少しずつこばーばに変化が出てきました。それまでは共働きの父母にかわって平日は夕食を作ってくれていたのですが、鍋に火をかけたまま、止めるのを忘れて鍋を焦がすことが何度かありました。これは危ないということで基本料理をこばーばがやることは少なくなりました。当たり前のように毎晩夕食を作っていてくれたけれど、食べ盛りの孫2人、味と塩分に厳しい祖父のリクエストをこなしながら6人分の食事を作るのは大変だったろうなと今振り返ると思います。
そして少しずつとこばーばが出来ることが減ってきました。こばーばはカラオケが好きで近所の友達と良くカラオケに行っていたのですが、歌も少しずつ忘れていって、ついぞカラオケに行くことはなくなりました。また、これまでやっていた農作業も足腰が痛くなり出来なくなりました。出来なくなっても畑に来ることは好きでじーじが作業をしているのを眺めていたり、私や父が作業をするというとよく見学に来ていました。この畑はこばーばの心の支えだったんだろうなと今は思っています。
大学生の卒業間近にこばーばは腰の手術が必要になりました。歩きにくい症状が悪化しており、70代にして大手術でした。私はその時友達と人生で初めてフルマラソンに出ようと話しており、ろくに練習もしないまま出場して翌日筋肉痛でまさに足が棒になるなかこばーばのお見舞いに行きました。「2人とも足が今動かんね」と冗談を言いながら話していましたが、麻酔が強すぎたのか、こばーばは「部屋の中で誰かが私をにらんでいる」となかなか怖いことをいっていました。手術は無事成功して経過も良かったので歩く事に関しては問題がいったん収まりました。こばーばがこの時私が筋肉痛で動きにくい中で見舞いに来た話をそれ以後もよく覚えて話してくれました。
しかし、私が社会人になり始めた頃から認知症の症状がでてきました。だんだんとものが覚えられなくなり、会話もちょっとへんだなぁと思うようになりました。頑固者で寂しがりやのじーじは、こばーばの異変に気付きつつも妻が認知症であるということを受けいれるのをとても拒んでいました。喧嘩をしてもやっぱり愛しているんだなと思いつつ、それでは父と母がもたないので、様々な手続きを進めました。
そんな中で叔父が交通事故にあい、見舞いに行くことになりました。私はもう家を出て職場の近くに住んでいましたので父母と病院の近くで待ち合わせをしました。病院に着くとベッドで横たわる叔父の前で、じーじとばーばが喧嘩をしているではありませんか。どうやらばーばが「暑い暑い」と言って病室で服を脱ぎだして肌着になり、なんでこんなところで服を脱ぐんだとじーじが怒って喧嘩になったようです。叔父は首を骨折する事故だったため、2人が喧嘩しても動けず、シュールな状況を眺めていたそうです。その話をきいていよいよこばーばもそういう判断が出来なくなってきているんだなぁと認知症が進んでいることを感じてしまいました。
働き始めて数年後に私と姉は同じ年にそれぞれ結婚をしたのですが、当初は私が先にプロポーズをしていて、結婚式も先に挙げる予定でした。しかし、こばーばの認知症の変化を察知していた姉は結婚式のスケジュールを繰り上げて、なんとかこばーばに出席してもらおうと頑張っていました。結果姉の式が先になり、数ヶ月後に私の式も行いました。姉の式ではおぼろげながらこばーばもスピーチもしてくれてとても良かったです。私の式にもなんとか出席をしてもらえました。集合写真で何とか前を向いてくれたので安心したのを覚えています。その時はもう会話がほとんど成り立たなくなっていました。
その後ほどなくして、ついにこばーばの介護施設への入所が決まりました。その頃には風呂やトイレも自分では出来ず、食事も補助なしでは食べられなくなっていました。施設に入るまでの最後の数日間は父が毎日一緒に寝てこばーばに問題が起きないかを確認してくれていましたが、帰省した私も1日だけ父に代わってこばーばと一緒の部屋で眠りました。思い返せばあれば最後に枕を並べた思い出だったんですね。寝苦しそうにしているこばーばを横目に、出来ることが少なくなっても生きるってなんなんだろうと思ってしまいました。
しかし、その私の問いにじーじは答えを持っていたようです。じーじは毎日こばーばの様子を見に施設にいきました。母も仕事を辞めてばーばの介護のために頑張っていました。施設に入ったから終わりではなく、家族として出来ることをやっていました。そんな両親やじーじの姿勢に家族のあり方を教えられた気がします。ばーばに割り当てれた部屋に行くと、ベッドにひっそりと横たわっていました。寝ているときも起きているときもありました。まず化粧水を顔に塗り、家から持ってきたジュースやヨーグルトなどを食べさせます。そして歌が好きなばーばのために歌を歌ってあげたり、写真を見せたりしました。その姿を見て、こばーばが生きてくれている限り、じーじは繋がりを持ち生きる希望を持てるのだろうなと感じました。
私の妻も何度か一緒に施設に来てくれました。ほんの数度ですが、私の娘つまりこばーばにとっての初ひ孫にも会ってもらいました。これは私の自己満足かもしれませんが、娘に会ってくれている時、心なしかこばーばの目に光が増したように感じました。そしてこばーばは少しずつ、深く深く眠るようになっていきました。
この状態のこばーばと会う時、自分で出来ることは少なく、まるで赤ちゃんである娘を世話しているような感覚にとらわれます。大きく違うのはこばーばにはこれから新しくできるようになることはないこと、ひっそりと人生の幕に向かって歩んでいるということでした。
大好きな人達に囲まれて
「こばーば、そろそろお迎えがきそうやわ」
2021年のある日、父とLINEをしているとそんな言葉が電話越しに聞こえてきました。
とうとうその時期が来てしまったかと思いつつコロナ過で移動の制限があり、帰国時にも隔離が必要な私たち家族は黙ってその状況を受け入れるしかなかったのです。
こばーばが危篤になってから父母や姉夫婦や従兄弟たち、そして叔父夫婦がほぼ毎日看取りのために足を運んでくれました。私もLINE越しになるべき顔を出しました。少しでもこばーばを近くに感じたかったからかもしれません。
コロナのせいで面会出来る人数に制限があり、多くの人に見てもらえた訳ではないと思いますが、こばーばを愛する家族に囲まれながらひっそりと息を引き取りました。父からの時差のあるLINEでその事実を知りました。
こばーばに心からの冥福を祈りたいと思います。
こばーばは私にとってもかけがえのない大切な存在です。多くのことを学び、そしてたくさんの愛情を注いでもらいました。私ができるのはこの愛情を次の世代に繋いでいくことだけです。私の娘に、そしてこれから生まれてくる息子に、まだ見ぬ子孫達に想いを愛を紡いでいかねばなりません。
告別式ではじーじが選んだこばーばのとても素敵な写真が飾られていました。家の仏壇にその写真は置いてあるそうです。日本に帰国し実家に戻れたら、まずは「ただいま」そして「これまで本当にありがとう。大好きだよ」と伝えたいと思います。しっかりとお別れをして前を向いて歩んでいくために。
「純ちゃんは本当に優しい子だねぇ」
こばーばの腰の手術をお見舞いに行ったときに、自分も大変なのにそんな言葉を伝えてくれました。こばーばが言ってくれた言葉を1つ1つ大切にして本当に優しい人であれるよう今日を一生懸命生きていきます。
私たちに出来ることを一歩ずつ。
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