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読書と日記: 女生徒


近代文学を読む。

現代まで名作として語られているものは、なるほど、納得がいくほどに面白い。ちょっと古い言い回しなんかも、いま読んでみるとあえて格好いいような気がする。しっとりと、うつくしい文章だ。

近代文学を読むことに、勉強のような、畏まったものを感じてしまうひとは、勿体無いなあと思う。

そういったことを感じてしまう理由はきっとたくさんあって、例えば国語の授業で「これが解答ですよ」とされているものを覚えたりだとか、あるいはこの文章から学べることはなんでしょうと自分に残るべきものを必死に探したりだとか、そういったひとつひとつの積み重なりから産まれるんだろう。
自分の感想に正しさを求められる煩わしさ、読んだ文章から何かを持ち帰らなくてはならないという強迫観念。積まれ続ける人生の課題図書。

「何歳までにこれを読むべきである」「一生に一度は読むべきである本」「死ぬまでに読むべき本」みたいな強い売り文句が表看板に掲げられて、それを見て消費者は「読むべき本を読んだという経験」を買う。
そうして課題図書を消化して、ひとはなんとなく安心する。

大説という言葉を元に、取るに足らない書物だという意味で小説という名前が産まれた。小説を読むと馬鹿になると言われた時代があった。純文学と比較して大衆小説と揶揄された作品があった。

百年後にライトノベルが残っていたら、それらは教科書に載るような大層なものになっているんだろうか。
つまり要するに何が言いたいかというと、こと人生という単位から見て、物語に絶対的なよいも悪いもないのだということ。ただひたすらに自分にとって良いものを良いと思えばいいし、読みたいものを読めばいいし、そこに読むべきとか読んでも意味がないとかそういうの、ぜんぜんないと思う。個人的な意見。

とか思いながら青空文庫で太宰治の女生徒を読んだ。学ぶこととか教養とか抜きにして、純粋に物語として楽しみたかったから、好きな音楽を聴きながら自分のペースで読むことにした。


この作品は太宰治のファンである女の子が彼に日記を渡し、それを太宰が書き起こしたもの、らしい。なるほど、納得がいく。女学生のこころに直接触れたような青い文章。

あまりにも若くて苦しくて甘くて瑞々しい、年端も行かない女の子の内面をそのまま摂取した感覚。凄まじい。

……
〝それほど私は、本に書かれてある事に頼っている。一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみるのだ。また、他の本を読むと、たちまち、クルッとかわって、すましている。人のものを盗んで来て自分のものにちゃんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。本当に、このずるさ、いんちきには厭になる〟

青空文庫/女生徒


この文章が、私はあまりに好きだ。
本に取り込まれること、夢中になって同化すること、これがすごく身近なことに思える。私だってそうだ、この文章に入り込み、恰も自分の経験のように感じ、ない記憶を作り出す。(こんな言葉もどこかの本で読んだことがある)。

それにしても、おなじ時を生きていなくても、おなじことを考えるものなのだなあと不思議に思う。違う時を生きていたとしても、少女は少女なのだなあ。いま、社会に出て大人として過ごしている人間にもこどものときがあっただなんて、齢十のときには考えなかったものだ。

おなじ時に生きていなくてもおなじ気持ちを共有できること、共感できること、すごく喜ばしいことだ。奇跡みたい。擬似的なタイムスリップをしている気分になる。あのね、私もね、おなじこと考えたことあるよ。眠りに落ちる時の気持ち、ゆるゆると変わらない毎日、それに辟易としたり安心したり、そういう不安定なこころ。私にもあるよ。あなたと直接語らえたら、どんなに素敵だろう。

口にほうりこんだソーダの味の飴が、とうになくなっていたことに、顔を上げてやっと気が付いた。



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