あいまい日記 8 ─「嘲笑」から一歩引く
Twitterを筆頭に、インターネット上での「議論」で嘲笑的な態度を見ないケースはほとんどない。そもそもの議題は切実なものであることが多いはずなのに、議論の実体は、(一見して)いかに「正当に」「瑕疵なく」論敵を皮肉り嘲笑するか、いかにオーディエンスをその態度に同調させるか、そんな「技巧大会」になっている面があまりに強すぎる。ニュース記事やテレビでも嘲笑はよく見られる。やらかした人に対して。思想や感性や立場で対立する相手や集団に対して。ある人、あるいはある人々について、彼や彼らがどれほど道徳や倫理に欠け、もはや人権を認める必要もない恥ずべき虫ケラであるかということを、不気味な情熱でもってオーディエンスに同調を迫る。たとえ普段は面と向かって相手を嘲笑したりしないであろう人々でも、インターネットやメディアのフィルタを通すと嘲笑的な態度を剥き出しにしてしまうようだ。
いや、そういう状況を大上段から非難するわけではない。私は他人よりも道徳的な人生を実践しているわけでもなんでもない。誰かが誰かを嘲笑的に皮肉るような「議論」を、そこで誰かが言葉で叩きのめされるのを、気づけば暗い楽しみの感情をともなって眺めている。自分にとって好ましくない誰かが、やらかして非難されているのを見ると、「やはりコイツは馬鹿なんだな」と気持ち良くなってしまうことをコントロールできない。人間なんてそんなものだと言えばそれまでだが、しかしなんというか「嘲笑」という感情は、「節度を持って楽しめばいい」と軽く言っていい種類の毒ではないと思うのだ。
「嘲笑」は人を深く傷つける。本当に深く傷つける。にもかかわらず、嘲笑をする側には自責の念というのはほとんど起こらない。オーディエンスとして「嘲笑」を楽しむ人々にも自己嫌悪はほとんど起こらない。人の心をクリティカルに傷つけるというのに、日々あちこちでカジュアルに「嘲笑」が起こっている。普段から粗暴な人間がそうなのではなく、むしろ普段は行儀が良いであろう人々であっても同じなのだ。「嘲笑」は、する側にとっては何か強いメリットがあるのかもしれない。あるいは薬物のように人を依存させる何かが。
「嘲笑は良くないことだ。みんな嘲笑を控えるべきだ。」というような訴えかけをしても仕方がない。他人のある発言について、それが嘲笑的かどうか常に白黒で判定できるものとは思わないし、そもそも赤の他人を説教する趣味はない。あくまで私自身がどういう態度を選んでいくかだ。
大したことができるわけではない。一つにはインターネット上の「議論」をなるべく視界に入れないこと。そこで何か具体的な活動をしていこうというのでもなければ、誰かの負の感情に触れやすい場に近づくのはリスクでしかない。ニュースやテレビを完全に絶つ必要はないだろう。そこに登場する人々の負の感情には乗らないように意識すればいい。ニュースやテレビに限らないが、ある人の発言について良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、そういう判定をする必要はない。その人はそう思っている。とりあえずはただそれだけでいい。それはある意味では冷ややかな態度かもしれないが、このカオスな世界で心穏やかに生活していくには、私は冷ややかさというものも一つの現実的な手段として大切にしていこうと思う。