217.こうして私は愚痴をこぼさなくなった
私は最近、バジさんに対する愚痴をこぼすことが少なくなったことに気づいた。同棲当初は、家族や友達に会社の同僚、会う人会う人にいつも話していたのに。
愚痴の内容は大体、家事の細かいことやちょっとした言動に対してのイライラ、話し合いが進まないことについての悩みだったりした。
そしてその話をしていると、誰からも必ず言われる言葉があった。
「でも、やってはくれるんでしょう?」である。
例えば、バジさんが鶏ハムに凝っていた時期がある。私は鶏ハムをおいしいと思ったことはなく、どちらかといえば味があまりないから好きじゃない。
けれど、友人から誕生日にもらった低温調理器で何時間もかけて、それこそ毎週のように作るのだ。
それを友人に話した時、「えー?でも作ってはくれてるわけじゃん?」と一蹴された。
だからなんだ。
そうですとも。作ってくれますとも。お宅の旦那さんと違って作ってくれますよ。
どうせその後に続く言葉なんか決まっている。「うちの旦那なんかさぁ」でしょう。
でも私は、確実にそこにしんどさを感じているのです。あなたが、旦那さんに何もしてもらえないつらさを抱えているのと同じように。
その辛さや悲しさ、しんどさに優劣なんてないはず。
その一言は、「でも作ってくれるだけいいじゃない。その分あなた私よりも楽でしょう?」と私には聞こえる。
「あなたの旦那さんはいくら大声で怒鳴り散らしたとしても、翌日の会社には平然とした顔でいけるでしょう?」と言い返したくなる。
マウントの取り合いになるだけだから絶対に言わないけれど。
愚痴をこぼすときは共感が欲しいとき。自分の気持ちは正しいものなのだという念押しが、自分を肯定できる材料になる。
それがもしかしたら不健全かもしれないということは、今は一旦おいておくが、こぼした愚痴に共感が得られなかったとき、私の気持ちを否定されているように感じるのだ。
つまり私にとって愚痴をこぼすという行為は、自分から自分の気持ちを否定しに行っているのに等しい。
これに感覚的に気づいたとき、自分で自分を守るために、簡単に愚痴をこぼすことを辞めた。そしてその代わりに、自分で自分の感情を認める努力をするようになった。
自分の気持ちは、まず自分が大事にしてあげたい。