革命の話 序
私が所属している自己啓発サークルにて、ベトナムとカンボジアで旅をしながら自身や他人を見つめ直し、どのように生きるのか考え直すというイベントが開催された。計10日間の旅で、一度「自分」を構成していたものが崩れ、再構築することができた。それによって、自分と他人に対する認識が変化したり、今まで見えていなかった大切なものに焦点が合うようになったと思う。
これから書く記事たちではその振り返りとして、経験や新しく得た知見などをまとめて小出しにしていく。しかし残念ながら書き手には上手く要約する能力がまるで無い。そのため、時系列が前後したり、長ったらしい文章になってしまうことを読者諸賢にはご容赦願いたい。最善は尽くそう。短編小説を読む心づもりぐらいが丁度いいかもしれない。
自己紹介
書き手のことを知らずにこの記事を読んでいる人も多いかもしれない。まず興味を持ってくれたことに心から感謝申し上げる。そういった方々、勿論私のことを知っている人達にも向けて、前情報として書き手がどんな人間なのか軽い自己紹介をしておこう。詳しくは今後新しく記事を書こうと思う。
私は現在大学3年生。性別は不詳とさせて頂こう。まず第一に自己肯定感が低い。自分という存在の価値が低く、それを補うために今まで様々な役職に手を出してはオーバーワークで病んでを繰り返している、要領の悪い人間である。過去のいじめ経験がそれに起因していると見て間違いないだろう。
中高はあまり納得のいかない人生を送ってきたが、大学で様々な素晴らしい人達と出会い、自分の価値を認識できるようにもなった。共感が得意で感受性に富み、痛みを糧にして成長できるのが私の強みだ。
しかし身体や神経が疲れると、被害妄想と視野狭窄に取り憑かれてしまうため、ネガティブな方面に走りがちである。そんなこんなで、自分に対しての好きと嫌いを繰り返しながら足掻き生きている。
対等な人間関係とは
上記に短編小説と書いたこともあり、読みやすいように物語形式で書いてみよう。試行錯誤している故、形式が今後変わってもご理解頂きたい。
ーーーーーーーーーーーーーー
「嫌われることが怖くて、どこまでリミッターを外していいのかわからない」
そう悩みを零す後輩がいた。決して威張らず謙虚で、大きな体躯に見合わず子犬のような性格の彼は、ベットの上で不安を顔に浮かべ、いつもより小さく見える。
向かってその言葉を受け取るのは私を含めた3人。私はともかく、他2人は相手の幸せを第一に考えて行動できる人間だ。目の前で苦しむ友の助けになろうと、皆が思い思いの声をかける。
「好き勝手に暴れるといい」
「後輩くんの魅力に気づいた人は自然と残る」
「どれだけ変なこと言っても俺らは気にしない」
話すほどに、心なしか、どんどん空気が明るくなる。全て本音だ。だってみんな彼が大好きだから。
「逆にここまで来たら嫌いになれない」
「間違ったことをすれば殴ってでもとめてやる」
「だから、安心して、自分らしくいればいい」
「包み隠さずに不安を打ち明けられる姿が一番かっこいい」
そう、彼の魅力はそこにあった。みんなからの言葉を受け、水を得た魚のように輝き出す。その顔は、嫉妬してしまうそうな笑顔だった。裏表の無い素直な色を出すその表情は、清い水のように澄んでいて、心が洗われるようだった。
同時に、自分が今までいろんなことを隠して生きていたことを改めて実感する。顔色を伺い本心を隠し、嫌われることを、思っていた以上に恐れていたのだと。
すぐ後に、私が敬愛して止まない先輩と話すことになった。2年前からずっと背中を追いかけている、憧れの先輩だ。人との関わり方について語っていたが、「これになってない?」と、両手で視野が狭まるジェスチャーで指摘される。その手は先輩自身に向かって示されており、人から学ぼうとする姿勢が他の参加者に向いてないのではないかということだった。
正直なところ、他の参加者に対しても興味は強く持っていたつもりだったが、ここであることに気づく。逆だ、先輩に対する興味が強すぎるのだ。思えばこの人のことを神聖視しすぎている。威光が眩しく、欠点など無いかのように見てしまっていた。
つまり、「先輩」という記号が、目の前の人に向き合うことへの障害となっていたのである。先輩もさっきの後輩と同じく、ボロボロで答えを探し、悩み惑う人間なのだ。だからこそ自分の行動に対して同じ目線で正直な意見でぶつけてくれる存在が欲しいし、自らもそうあろうとしている。
点が線になる。「先輩」とか「後輩」とか「異性」とか。思えば今まで沢山のフィルターが目の前にあった。自分を基準として、相手を自分の上や下に置き、態度を変化させていたようだ。思えば後輩くんに対しても、年下ということもあり、どこか下に見ていた部分があったかもしれない。なんと盲目的であったことだろう。
私を信頼して心のうちを曝け出してくれるひとには、上下も男女も関係なく、どんな部分も認め、過ちを咎められるようになろう。そして私も、安心して自らを曝け出し、整えてもらえることを信じよう。
それが、目線を合わせて、誠実に、正直な心で向き合うということなのだろうから。
ーーーーーーーーーーーーーー
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?