
私たちは、時代の飢餓感なんてとうに忘れている
どうも、みゆう・うぇいんです。
私は、作詞家・阿久悠が大好きである。
どれぐらい好きかと言うと、妻と付き合っていた時代に、デートと称して明治大学にある阿久悠記念館へ連れていき、おそらく好感度を信じられないくらい下げた程度には、好きである。
本日は、そんな阿久先生回である。
令和であるにも関わらず、前の記事からと言い、元号を二つ戻して申し訳ない限りである。
さて、阿久先生の魅力と言えば、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」などで語られる歌詞の素晴らしさなどは、皆が語り尽くしてくれている。
そこではない、令和の皆様へ、私なりの阿久先生入門を捧げてみたい。
私は、阿久先生現役世代からなかなかに遠い。
それでもたくさんの曲と、先人達が語り尽くしてくれた魅力を摂取して、今の私がいる。
同じく、本記事を読んで、阿久先生作詞の曲を一曲でも聞いていただければ、幸いである。
今回も7,700文字を越える文量になってしまったが、歌謡曲の時代と一心同体であった先生を、これ以下の分量で語ることはできなかったので、お許しください……。
作詞門前払い
皆様は、この本(以下、本書)をご存知だろうか?
私が初めて読んだのは、確か大学生四年生の頃。
詳細は省くが、音楽の世界へ憧れを抱いていた私は、作詞家ならなれるのでは……と邪な考えを抱いていた。残念なことに、読んで数ページで作詞家にだってなれるわけがないと気付いた。
大変お優しいことに、本書4ページで、阿久先生は作詞家になれるためのテスト(○○な人はマイナス)を用意してくれている。
減点式であり、その数なんと二十五項目。
驚くべきことに、阿久先生はプロの作詞家になるためには、全てクリアしなければならないと主張する。
別のページでは、「(実働十八時間という、朝から晩まで働く過密スケジュールに対して)僕と同じ程度の作詞家になるのでも、このようなスケジュールである」とまで言い切っている。
体がゴリゴリに弱い上に、そんな私にクリエイティブできる容量と才能なんてあるのかしら……と途端に弱気になり、本書は勉強本から作詞における学術本と化した。
それと、気になる方がいれば、是非購入してテストを受けてみてほしい。
ちなみに私は、十項目もマイナスがあったため、入門すらできずに門前払いとなった。
しかし、だ。
私はテストの中で、どうしても一つだけ納得できない項目がある。
あなたに必要な体力があるかどうかのテスト
~中略~
25 セックスに淡白な人はマイナス
失礼すぎて申し訳ないが、阿久先生はどう考えても性に奔放ではなさそうだ。
ご存知ない方は、是非とも画像を見てほしい。
その上でもう一度似たようなことを述べるが、阿久先生はどう考えても濃密なセックスをしなさそうである。
阿久先生は、ご自身でテストに一項目でもマイナスがあれば、作詞家にはなれないと条件付けている。
そうなってしまうと、この『作詞家入門』で門を開ける人間が、いなくなってしまうのである。
いや、待て。
突如、私の耳に、ヤングマンのパワフルな歌声がこだました――。
ブーツを脱いで朝食を
スーパー背徳ソング。
ある意味で、今のゴールデンタイムでは流せなさそうな曲だが、阿久先生の作詞にかかれば、獅子のような若さ滾るヤングマンの情熱曲に早変わりする。
一番Aメロ
帰らなきゃいけないと それがあなたの口ぐせ
熱くなるこのぼくを まるで焦らすよう
その気もなしに髪をなぜて
その気もなしにルージュなおす
冒頭の二行で、どう考えても背徳の男女関係であることをにおわせする。
そして、最後の二行も若さ故の自分勝手さが面白い。
「その気がないなら、ルージュなんてなおさないだろ?」と言いたいのだろうが、その気がなくても女性はなおすことは、聡明な皆様ならご理解されているかと思う。
一番Aメロその二
このままでいたならば とても危険なことだと
今度こそさよならと 握手求めてる
つめたい指は胸の熱さ
掠れた声は迷う心教える
この曲において、阿久先生は主人公の自分勝手さを熱く描き出す。
よーく見てほしい。
最後の二行、オシャレそうな表現をしてみせた、主人公のドヤ顔がぼんやりと浮かんでくるかもしれない。
しかし、あくまでも主人公視点で都合の良い勝手な解釈にしか過ぎないのである。
あなたが、「このままでいたならばとても危険」と警告しているのは、ダブルミーニングだ。
不貞関係がバレてしまうのは危険
あなたに惹かれたままの状態は危険
だからこそ、握手は本当に別れを求めている。
その上で、最後の二行を改めて見てほしい。
さよならの握手をした指が冷たいな……なら、胸は熱いに違いない!!
……んなわけあるかい。
気を取り直そう。
サビ
愛するためにだまし合うなどよそう
裸の胸と胸を合わせて
後は流れ行く時のままに任せ
波間にゆれている舟のように
私の引っかかりは誤りであり、この場を借りて謝罪をしたい。
阿久先生は、とても濃密なセックスをするに違いない。
結局、二人はなんやかんやで体を重ねている。
圧巻なのは、波間にゆれている舟の様を、セックス描写に採用する阿久先生の特異なる采配だ。
想像してみよう。
波間にゆれている舟は、どこかコントロール不可能そうなイメージが湧かないだろうか。
揺れたままというか、どこに漂流するかわからないような、そんなイメージ。
まさに、主人公の身勝手さとピッタリ合致するフレーズだ。
何より、前の歌詞の「流れ行く時のままに身を任せ」にも見事に対応する、これ以上ないワードチョイスである。
さらに想像してみよう。
該当歌詞が、もっと直接的な描写だったらどうだろうか。
曲としては素晴らしいメロディだが、何というか……こう……頭のてっぺんから足の爪先まで、若い男臭さが凄すぎて、突っ走りすぎというか、そんな気がするのである。
サビの最後に比喩表現を置くことによって、まさに波間に揺れている舟のごとく、この曲は奇跡的なバランスを保っているのだ。
二番以降では比喩表現が増えていくが、それでも重要なのは先述したことなのである。
歌謡曲の聞き方
さて、ヒキを作るために、阿久先生はとても濃密な何だのと勝手に書いてしまったが、あながち嘘八百でもない。
さて、歌謡曲とは全部架空ですかといえば、全部架空です。でも、それは全部本心ですかといったら、全部本心だと言えるんですね。
少なくとも五〇〇〇曲は書いていて、いってみれば五〇〇〇パターンの恋愛を書いている。
阿久悠がこれを歌ったら、全部架空そう。
西城秀樹がこれを歌ったら、全部本心そう。
でも歌詞を書いているのは、阿久悠。
この天才的なバランス感覚こそが、歌謡曲の魅力の一つだ。
昨今では、アーティスト自身が作詞作曲をするのが当たり前だ。
そうなると、歌っている言葉とアーティストの姿に、ブレは少ない。作り物を見ている感覚は、相当に薄いだろう。
歌謡曲は違う。
一曲を作り上げるために、何人もの異なる人間が動員されている(無論、自身で曲を作る場合でもそうだが、比較として書いている)。
さながら歌謡曲の歌手は、人前に出てプレゼンテーションをする営業マンだ。
流暢に説明するその内容は、自分が全て手掛けていないことだってあるだろう。しかし、その営業マンは嘘だけの気持ちでプレゼンしているのだろうか?
もしかしたら、そうかもしれない。お金だけ稼げればいいから、心を無にして念仏がごとく喋っているのかもしれない。
それなら、資料を実際に作成した人間が説明する方が、心に響くかもしれない。
一方で、自分はそんなに資料を手掛けていないけれども、本気で良いと惚れ込んで、心の底からプレゼンしている人だっているかもしれない。
そうなると、資料を作成した人よりも、他者をビジネスの渦に巻き込めるかもしれない。
どこから架空で、どこまでが本心か。
本曲において、西城秀樹はどこまで本心で歌い上げていたのだろうか?
(欲を言えば、皆様にはブルースカイブルーと併せて聞いてほしい。同ジャンルにおける阿久先生の懐の広さと、どちらも情熱的に歌い上げる西城秀樹の素晴らしさがより分かるから)
そんな視点で妄想しながら聞くのも、歌謡曲の楽しみの一つだし、何千曲も歌詞を書き上げてみせた阿久先生との向き合い方かもしれない。
さて、長々と書いてしまったが、もう一曲だけ長々とお付き合いいただきたい。
UFO
阿久先生作詞曲の、王道中の王道。
語るまでもない、女性ユニットにおけるエポックメイキングと言ってもいい、名曲だろう。
イントロでの例の振り付けは、世代問わず有名だ。
そういった魅力は当然として、私は別の魅力に注目をしたい。
本書で阿久先生は、下記のように語っている。ファンの方や歌謡曲を聞いている方であれば、有名な箇所かもしれない。
少し長いが、大好きなので遠慮なく引用する。
歌謡曲とは完全にリアクションの芸術といえるかもしれません。
~中略~
いまなにが欠けているんだろうか、いまなにが欲しいんだろうというその飢餓の部分にボールが命中したとき、歌が時代を捉えたといっていいでしょう。
「言われてみてはじめてわかりました」とか、「わたしも実はそうだったのよ」という、死角に入っていた心のうめき、寒さ、これがつまり時代の飢餓感です。
~中略~
いま僕はこんなふうに言っているんですが、歌とはつまり、「時代のなかで変装している心を探す作業」であるとね。
UFOがリリースされたのは、1977年12月。1977年と1978年を跨いでいる、と言ってもいい。
1978年に何があったかというと、
サザンオールスターズが、『勝手にシンドバッド』でデビューした
UFOが日本レコード大賞を受賞した
ピンクレディーの絶頂期と、歌謡曲の衰退期が同時に発生するという、奇妙な一年だ。
言うまでもないが、勝手にシンドバッドは五十万枚を越える売上を誇るヒットソングである。
歌謡曲ではないが、ここまで売れたということは、時代の飢餓感に見事ボールが命中したのである。
しかし、UFOも売れに売れている。ということは、時代の飢餓感にボールが命中している。
果たして、二曲の違いは何なのだろうか。
まずは、勝手にシンドバッドの一番と二番のAメロ。
(勝手にシンドバッドの)一番と二番のAメロ
(一番)
砂まじりの茅ヶ崎 人も波も消えて
夏の日の思い出は ちょいと瞳の中に消えたほどに
それにしても涙が 止まらないどうしよう
うぶな女みたいに ちょっと今夜は熱く胸焦がす
(二番)
いつになれば湘南 恋人に逢えるの
おたがいに身を寄せて いっちまうような瞳からませて
江ノ島が見えてきた 俺の家も近い
行きずりの女なんて 夢を見るように忘れてしまう
湘南エリアおよび茅ヶ崎市を、現在の特別な地位まで押し上げることになった、といっても過言ではない歴史的名フレーズだ。
続けざまに、本書最後の鴨下信一氏による優れた解説を添える。
このころになると、非常に多くの歌がシンガー・ソングライターの手になるようになり、阿久のようなプロ中のプロには不満が増してくる。
プロを排除した歌は急速に、仲間うち化し、一つの歌がカバーする集団は小さくなる。
勝手にシンドバッドは、日本全体をカバーしていない。
桑田氏の出身地である、湘南という仲間うちを強烈に歌い上げているのだ。
少し言い換えてみよう。
作詞家の誰かがこしらえたロケ地(地域)ではなく、メンバーの地元という、いわばそのまま受け取れるナチュラルさが、そこにはある。
強調しておくが、シンガーソングライターおよびサザンオールスターズを批判したい訳では、決してない。
私は、サザンオールスターズが大好きだ。
ここで言いたいのは、それらが時代の飢餓感を見事に捉えヒットしたことだ。時代は作られたロケ地ではなく、そこで育った人間の、等身大の歌を欲していたのかもしれない。
さらに言えば、この曲ではリアクションを必須としていない。
湘南自体に憧れを持つのも良し、湘南でありふれたひと夏の恋に憧れるも良し――。
等身大のサザンオールスターズを受け止め、等身大の曲を愛せればそれで良いのだ。
一方、UFOはどうなのか。
まずは一番のAメロ。
一番Aメロ
手を合せて 見つめるだけで
愛しあえる 話も出来る
くちづけするより甘く
ささやき きくより強く
私の心をゆさぶるあなた
ものいわずに 思っただけで
すぐあなたに わかってしまう
飲みたくなったら お酒
眠たくなったら ベッド
次から次へと さし出すあなた
どうだろうか?
等身大でナチュラルに受け取ることはできない。
あなたは「愛しあえる話も出来る」と言っているが、「手を合わせて見つめるだけ」しかしていない。
しかも、「ものいわずに思っただけで」「次から次へとさし出すあなた」なのだ。
実在するのかもしれないが、そんなに都合の良い「あなた」なんているのだろうか。
どこまでが架空で本心なのかどうか、考えながら聞きざるを得ない。
サビ前半
信じられないことばかりあるの
もしかしたらもしかしたら そうなのかしら
確かにあのタイトルとAメロを聞かされたら、誰しも考える。「もしかしたら宇宙人かもしれない」と。
意中の相手の想定できないスケールに振り回される様は、まさに歌謡曲っぽさ満載だ。
これまでなら、喜ぶだけだったり、傷付いたり、無条件でそんなあなたについていくと言ってみたり。もしくは、別れたなら二人でドアを閉めたり。
それで、時代の飢餓感は満たされたのである。
そんな展開では、飢餓感にボールがぶつからないと考えた阿久先生は、とんでもない変化球を時代へ放ってみせる。
サビ後半
それでもいいわ 近頃少し
地球の男に あきたところよ
相手のスケールが想定できないと思っていたら、こちらのスケールの方が信じられないくらいデカいという、聞いたことのない恋愛ソングとして着地する。
勝手にシンドバッドと比較してみよう。
向こうは等身大だが、この曲はデカイどころか、地球を超えてしまっている。
こんなスケールのデカイ恋愛ソングは、そうそうない。
地球の男に飽きたってことは、これまでの恋愛観では「私」の心を揺さぶることはできないのだ。
可能であれば、同年代の曲と聞き比べてみてほしい。「宇宙人だろうが、素敵な人だったらいいの」なんてスケールの恋愛ソングを、パッと思い浮かべられるだろうか。
そしてもう一つ。
キチンと歌詞を把握しながら聞くと、どうだろうか?
嫌でもリアクションせざるを得ないのである。
私みたいに「スケールすげー」と驚く人
「これは本当の宇宙人に違いない」と考察し始める人
「いやいや私の恋人はまさにこんな人」と語り出す人
他にもまだまだリアクションはありそうだが、聞いただけでは終わらせてくれない魅力が、歌謡曲にはある。
無論、歌謡曲ではない曲にも、リアクションの魅力はある。当然、歌い上げる全てが事実だなんて、思ってもいない。
それでも私は、創り物である前提がハッキリしており、本心と架空をより意識せざるを得ないからこそ、歌謡曲はリアクションの芸術なのだと考える。
そんなわけで、時代は歌謡曲ではない曲に、限りなくスモールな仲間うち感を求めたのかもしれない。
反対に、歌謡曲ひとりでは背負えないくらいの、スケールを求めてしまったのかもしれない。
(時代の)終わりに
いかがであっただろうか。
私なりの、阿久先生入門ができた(と、思い込んでいる)。
さて、もう少しだけ書かせてほしい。
先述した通り、UFOという曲が地球すら背負ったことによって、以降の歌謡曲は衰退していく。
一曲のみで、もはや時代を背負うことができなくなっていくのだ。
本書後半にある、「僕の歌謡曲論」(内容の執筆自体は1997年)という章で、阿久先生は下記のように拗ねている。
私はこの拗ねっぷりが大好きで、同様のことを述べている動画を、ついつい見てしまう。
少々長いが、拗ねた人はこれくらい長々と述べると思うので、引用する。
いまいろんなことが、かなりの確率で実現する世の中になってきて、お金を出せばなんでも買えると思えるようになっているわけで、さっき言ったように時代の飢餓感がみえにくい。
しかし、飢餓は確かにあるわけです。変装しちゃってるんです。じゃ、いちばんなくなっているのはなんだろうか。
ひとつは、よけいな時間なんてのがなくなってきた。
よけいな時間というのがあればあるほど世の中ってのはおもしろいと思うし、時代もおもしろいし、個人の生活もおもしろい。いろいろ頼まれもしないのに、その人の人生をずっと考えたり……、それはなくなってきた。
歌謡曲が衰退して以降、阿久先生は以降の音楽の価値観にジョイントすることを拒絶した。
河島英五の『時代おくれ』は、そんな姿勢を表明する名曲だ。
だから、歌謡曲および阿久悠は懐かしんで聞く名曲達なのだ――という着地点にするつもりなど、毛頭ない。
上記のように阿久先生は拗ねているが、実は本書において、自身が時代おくれの男になる理由を、自身で見事に述べている。
歌える国民になった
流行歌というものを、数多くきいていると、こんなことを考える。
ああ、三尺高いステージがあって、歌手はそこで歌い、座敷の客席で、客がウットリと見上げながらきいているのだな、ということがありありとわかるのだ。
~中略~
日本人とは、元来、歌えない国民だったのである。
流行歌というのは、この三尺高いステージと、座敷の関係でつくられていた気がする。
~中略~
とにかく、音楽と隣り合わせで暮らしている人がいっぱいいるのだ。どなたか歌いませんか?と声をかければ、ハァーイと手が上がる国民になってきたのだ。
この文章が書かれたのは、1972年。
そこから五十年以上が経ち、どう変化しただろうか。
挙げればキリはないが、当時よりもプロとアマチュアの関係性は、さらに曖昧なグラデーションとなってしまったし、曲を聞くハードルもほぼほぼ無くなった。
要するに、曲はより当たり前の日常へと、溶け込んでしまったのだ。
そんな世の中で、曲が時代の飢餓感にボールを命中させ、阿久先生が言うところの変装された心を探し、見つけることなんて、不可能に近いのかもしれない。
私は、終末論を唱えているわけではない。
人間と曲の関係性が変われば、互いの持つ意味も変わるという、至極まっとうな構造の話をしているだけだ。
それでは、阿久先生および歌謡曲とは何なのか。
ロスト・テクノロジーである。
阿久先生の名曲たちを聞き、現代では再現不可能となってしまった名曲たちであることに想いを馳せる。
そんな楽しみ方だって、あっていいかもしれない。