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あなたに宝石を届けられたら
notoの世界を彷徨っていて、まさにその時に自分が必要としているアンサーnoteのような記事がひょいと目の前に現れたりすることはないだろうか。
私にはある。
そんな記事に出会うと自分の血液が踊るような感覚になる。
興奮で沸き立っているのでもく、水飛沫をあげて波打ち際を激しく満ち干きするでもない。波を待つサーファーのように次に来る大波を高揚しながら、その声に耳を研ぎ澄ましているような感覚を味わう。
沢山のnoteユーザーがいる中で出会えた人たちというのは偶然の賜物であって、さらに沢山のnoteの中で読むことが出来たnoteというのは奇跡だと思う。そして、大げさかもしれないけれど、本当に心を揺さぶる文章に出会うことを運命というのだろう。
土曜の朝だった。嶋津亮太さんの記事を目にした。嶋津さんとふみぐら社さんからの対談についてのものだった。
嶋津さんは、こう語る。
「素敵だなぁ」と思う文章はたくさんある。それがほんのわずかな人の目にしか触れられていないものであっても。僕も「読まれない」とわかっている文章を書くことが好きだし、ふみぐら社さんからも同じ匂いがする。
私も二人には共通する部分があると感じている。共に、丁寧に言葉を選び、文章を綴りながら、実際にはその行間、余韻といったものの中にあるものを大切にしている素晴らしい書き手である。
また、嶋津さんは、文章とはコミュニケーション(会話)だと常に言われている。そして読み手を信じろと。さらに今回のプロジェクトが面白い。
ふみぐら社さんとお話する。それを文章にしてギフトしよう。僕たちの間で交わされた言葉(あるいは沈黙)は贈り物という概念に近いから。
言葉の贈り物を、読みたい人に届けるのだと言う。
ここで、無造作に括弧に入れられた『沈黙』という言葉がどうも気になってくる。こういうのってズルい。きっと、こうすると気になるというのを予測して括弧書きになっていて、それを分かっているのに気にせずにはいられない。
一人での沈黙と違って、複数での沈黙は、各自が同じ時間を共有しようという気持ちが無ければ何時間一緒にいても何も生まれない。言葉が交わされない無の空間。
一体、二人は『沈黙』の中で何を交わしたのだろう。
まだベットに転がったままスマホをチェックしていた私は慌ててしまった。居ても立ってもいられなくて、コーヒーが冷めるのも忘れてPCを立ちあげる。二人の対談記事をじっくりと読むためだ。
すると、noteのページが開くよりも早く、嶋津さんからメッセージが入ってきた。記事をプレゼントするからという内容だった。7時間も時差があるというのにあまりにもタイムリーで、驚くと同時に笑ってしまった。
◇
ちょうど、この数日前、#noteリレー という企画の中で、記事を一つ書かせていただいた。そして、偶然にもバトンを渡していただいた前走者がふみぐら社だった。
実は、この春先からずっと書けないでいた。noteの世界での自分の色が見えなくなってきたからだ。どのメディアでもそうであるように、noteで好まれる色がある。誰もが感動する、面白い、メリットになる文章が読まれていく。
こんなの「読まれない」だろうなと思いながら書く。「読まれない」とわかっている文章を書く必要はあるのだろうか。
誰か一人でもいい。そして、ほんの一筋でも自分の届けるものの中から光を掬い取ってもらえたら。それしか自分にはできないのだから。そう思うと同時に、ならば、なぜ大勢の人に向けて書いているのだろう。一人で書いていればいいじゃないかという思いが鎌首をもたげる。
そんな時にふみぐら社さんから私に届いた執筆のお題は、書きたければ誰でも書ける企画のお題ではなく、私だけに宛てられたものだった。さらに、自分が読みたいからだと言われる。
これはある意味で挑戦状だった。誰か一人に届きさえすればいいと言うのなら、届くものを書いてみろともう一人の自分が言う。書くのか書かないのか。
書いた。
この機会がなければおそらく書くこともなかった過去も含めて。
文章の表現力や構成力の不足を呪ったところで何もならない。私が見るもの、私が感じるもの、私の声が届くことを信じて書いた。
翌朝、ふみぐら社さんから最高のコメントをいただいた。「ずっと考えてたことが目の前に文章のギフトとして現れた」と。嬉しくてすぐに返信が出来なかった。何度もコメントを読み返し、その度に涙が出た。
別の方法でもっと巧妙に表現できたはずだ。けれども、私が私なりの方法で届けたかった声が、受け取った本人が一番欲しかった場所に届く。これはまさに贈り物以外の何物でもない。
そして、同時に気づいた。
言葉の贈り物を本当に受け取ってもらえた瞬間、読み手に宛てた贈り物は書き手にとっての贈り物となる。その喜びがあるから書き続けられるのだと。
◇
ふみぐら社さんが書かれた対談記事を読ませていただいた。
二人にとって、空間は決して「空っぽ」ではない。この中に存在する相手の心を丁寧に救い上げ、思考や感情を分け合うことで対話が生まれる。
言葉の世界で生きる二人の対話の中では、書くことに対してだけではなく生きることへのヒントやアドバイスがいくつも散りばめられている。
それはまるで宝箱のようで、言葉の端々、隙間、空間で小さな宝石がキラキラと輝いていた。
きっと、見つける宝石の色も大きさも見つけた人によって違う。
それを二人はよく知っている。
見つけた宝石をさらに輝かせるのか曇らせるのかは宝石を見つけた本人次第だということも。そして、その宝石が一層眩く光り輝いた時、彼ら自身もその喜びを共有できるのだということを。
贈り手と受け手の中で、目に見えない贈り物が交わされていく。
宝石を見つけたい。そう感じた人なら、きっと宝石を見つけられると思う。
是非、読んでみてください。