今日もまた黄色い卵をコンと割る【スパニッシュ・オムレツ】(レシピ小説)
3500字程のレシピ小説になります。お時間のある時にどうぞ!
「えっと、五十嵐……こころ……み?」
「『きよみ』です。心に美しいと書いて『き・よ・み』」
受付にいた男性は、眼鏡の隙間からチラリとだけこちらを見て、「男性6500円、女性5000円、立食バイキングで制限時間2時間」と言うと、会費と引き換えに『きよみ』と書いた名前カードを私に手渡した。
仕事の帰りに類子に無理やり引っ張り出された合コンパーティー。女子軍はいつの間に準備をしたのかクルリと巻いた毛先、甘ったるいキャンディのような唇。見るだけで花の香りが漂ってくるかのように着飾り狩猟に挑む気迫は、尋常ではない。彼女たちは、会場に入ると同時に獲物を狙う目は丸く大きく見開き、標的を見つけると猛烈突進する黒豹と化す。
男子軍とて同じ。名前カードを利用して、お目当ての女子だけ「○○チャン」と即座にチャン付けになる。早い者勝ちの肉食動物の世界ではセンサーがピピッと作動しない標的は一瞬にして存在を無視されて透明な影となる。そこはパーティーという楽しげな名のつく戦場。
私はというと、白いブラウス、グレーのタイトスカート、疲れないだけが取り柄の5センチヒール。新入社員向けスーツカタログから飛び出したような様相で、ご丁寧にブラウスの胸元には昼間付けたインスタントコーヒーのシミまである。
もっとも、すでに透明な影となった私のことなど誰も気にかけたりしないし、所詮、人数調整目的の穴埋めであって、狩猟になんか興味もない。男性が苦手というわけではないけれど、社内一番の社交派で憎めない同期入社の類子の頼みを「行かない」とはっきり断れなかった軟弱な自分を恨みながら、会場の端っこに立っていた。
パーティー終了まであと10分ほど。一刻も早く自由の身となり、ここから歩いて5分の金龍ラーメンを食べに行くことだけを夢見ながら時計と睨めっこをしていた時だった。
(あれ、確か受付にいた人……)
ほとんどの料理は無くなりかけていたのに、目の前のテーブルに乗っかった茹で卵のオードブルだけは、まるで場違いな私みたいに色褪せて残っていた。彼はその中の一つを丁寧に皿に取り分けながらボソリと言った。
「僕ねぇ、好きやねん。ずっと昔から黄身が……」
私に言ったのかどうかすら曖昧で唐突な内容に、「へっ」と間の抜けた声が出てしまった。でも、恥かしいのか、明らかさまに両耳を赤くしながら言うものだから「はぁ、そうですか」と素っ気なく答えるのがちょっと可哀想になった。
白状する。私は大の卵好き。お弁当の具は卵焼きがあれば充分。でも、そんなことを見ず知らずの人間に言う必要はない。さっきは不覚にも自分の名前の説明までしてしまったのだが。
「卵って、優しい家庭の味がしますよね」
当たり障りなく答える。すると、今度は彼のほうが一瞬「へっ」という顔をしたかと思うと、みるみるうちに顔のパーツが緩んでいく。下がった目じりと上がった口角があと少しで繋がりそうだ。
一体、何がそんなに嬉しいんだろう。とりあえず、私の大好物が卵だっていうのはまだ見破られてはいない。そんな、小さな秘密を守り通した達成感に満たされていると、さらに、彼がニコニコしながら鼻先を擦り始め、肩を上下させて微笑むものだから、それを見ているだけで楽しくなってきた。
身長は170センチくらいだろうか。小柄で少し長めの柔らかそうな栗色の髪には緩くウェーブがかかっている。黒縁メガネをかけているのだけれど、度数が強いのだろう。メガネの奥から覗く小さな目が懐かしそうに私を捉えた。
◇
彼が筒井勇次という名で同い年だったこと以外、パーティーで何を話したのか全く覚えていない。連絡先をごく当たり前のように交換し、彼は信じられないくらいの速さで私の暮らしに不可欠な存在になっていった。
お互い外食が好きではないものだから、彼は週末になると私の小さな部屋へやってくる。決して話し上手ではないけれど、彼が居るだけで薄暗いマンションの部屋が、曇り空に陽の光が差し込んだような温かさと安らぎで満たされる。何より、料理が得意で調理師を目指している彼は、来る度にいろんな卵料理を作ってくれた。
揚げたてポテトの上に極薄くスライスした生ハムを飾り、ポテトが冷めないうちに残った油で卵を手早く揚げる。既に熱くなった油の中の卵はあっという間に白い膜を張り、白身の輪郭がパリパリと弾けたところを引き上げて生ハムの上へそっと乗っける。半生の卵をグチャグチャと雑に潰して食べるのも、彼とだと泥んこ遊びをしているようで楽しい。
キノコ借りに行った日には、ガーリックの香りたっぷりのオリーブオイルでキノコをさっと炒め合わせてふんわりと卵とじ。キノコにちゃんと火が通っているのに、出汁を完全に飛ばす直前にさっと卵をまとめる鮮やかな手さばきを披露してくれた。
正直言って、そこまでやられると自立した女のプライドというか、一応は嫁入り前の娘で、いつかは料理も上手くなって夫となる人の胃袋を掴んでやりたいという野望をこっそりと持つ者としてはチクリと胸を刺すものがある。
でも、そんな小さな自尊心や当てのない願望なんて、彼が料理をする姿を見ているとどうでもよくなってくるくらいに調理中の彼はカッコイイ。
「ねぇ、今日は、トルティージャ(スペイン風オムレツ)作ったげる」
返事は必要はない。私を満足させてくれる卵料理を作れるのはもう彼しかいない。
ジャガイモと玉ねぎをスライス。フライパンに多めの油を熱し、先にジャガイモを加える。そして、ジャガイモの表面が白くなったところで玉ねぎを加える。
この間に卵4つをごく普通の深皿に割り入れ、フォークでシャカシャカと溶いていく。節のしっかりした細く長い指先が器用に塩をつまみ、かなり高い位置から皿の中の溶き卵に雪を降らせる仕草は手品師のようだ。
そこで、さっとフライパンに振り返る。ジャガイモと玉ねぎがふんわりと柔らかく、茶色く色づく寸前の絶妙の出来具合で彼を待ち受けている。寸時に余分な油を切られたジャガイモと玉ねぎは、湯気を放ちながら溶き卵の海に開放されていく。
彼の手は止まらない。今度は、皿の淵から溢れそうな溶き卵で包み込むように、具を優しく丁寧に混ぜていく。まだ熱いままの具が卵と絡み合い、所々が霞雲のように固まっている。
一連の動作を一瞬たりとも逃さず見つめる私。彼はわざと私の目線には気がつかないフリをする。気が付かないはずかない。彼の次の行動が予測できるくらいに凝視し、鼓動が聞こえるくらいに耳を凝らす。何だか、今日は私が黒豹になってしまった気分だ。
全ての調理を終え、皿に盛った料理をコトリとテーブルに静かに置く瞬間にようやく見せる笑顔。私を喜ばせたいだけの真摯な気持ちがオーラとなって料理をさらに美味しそうに演出する。ゆらゆらと湯気を放つ黄色く丸い満月のようなトルティージャ焼き上がり、いつものように言う。
「僕なぁ、ほんまに好きやねん」
馬鹿げているのはよくわかっている。なのに、あんなに手を掛けられて一番美味しい姿に生まれ変わることのできる卵が羨ましくなってしまう。
今日のトルティージャは何故か残酷な味がした。そうさせているのは私で、本当は今日のトルティージャだってとっても美味しいということを私自身が誰よりも知っているのが悔しい。
思わず口先を小さく結ぶと、私の鼻の頭を彼の細い指先がきゅっとつまむ。どうしよう。何だかわからないけれど、寂しくなってきた。卵になりたいなんて言えない。
「なぁ、まだ思い出さん?」
見ると、彼が視線を向けたローゼットの上にある色褪せた写真の中で、両親と一緒に映ったオカッパ頭の少女が同じように口先を結んでいる。
「幼稚園の時に卵焼きが大好きなオカッパ頭の女の子がおってん。お弁当の卵焼きを嬉しそうに食べる顔が好きで、いつかいっぱい作ってあげようって思って。
筒井って苗字……オフクロの苗字。離婚したんや、うちの両親。」
あっ…………。
そうだ。思い出した。幼稚園の入園式に桜の下で出会い、私を「キミちゃん」と呼んでいつも側から離れなかったメガネの男の子がいたことを。小学校2年生を迎える桜の頃に突然、引越していった幼馴染のゆうちゃん。
「ええ加減に気づけ、アホ。
好きやねん。ずっと昔からキミが……」
大きめに切ったトルティージャを急いで頬張った。涙の粒でしょっぱくなってしまう前に。
今日の一品:スパニッシュ・オムレツ(トルティージャ)
材料
卵 / ジャガイモ / 玉ねぎ、
サラダオイルもしくはオリーブオイル / 塩
作り方
フライパンに多目の油を用意し、具となる食材に火を通す。卵をときほぐし塩を加えておく。調理した具(ジャガイモ、玉ねぎ)の油を切り、卵に合わせ塩味を整える。同じフライパンをもう一度加熱し、熱くなったところへ卵と具を合わせたものを一気に加える。フライパンの中身を動かしながら八分どおり固まったらフライパンの上に皿を被せ、フライパンごと一気にひっくり返す。皿からトルティージャを素早くフライパンの上に滑り込ませて戻し中まで火を通す。
追記
中の具は、ほうれん草、ズッキーニ、アーティチョークなど何でも良いです。参考に、ほうれん草のトルティージャを作った際の写真を貼っておきます。この場合、ほうれん草は炒めるか、軽く茹でて水を切ったものでも大丈夫です。シンプルにジャガイモだけのトルティージャの場合、卵5-6個とジャガイモ大1個が目安。ジャガイモが多すぎるとまとめにくくなります。
トルティージャの歴史が気になる方はこちらの記事へ
トルティージャはコツさえ掴めば簡単です。
皆様のつくルンバ、お待ちしております。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?