社会運動のいつか来た道│「思想の強い女性カウンセラーが辛い」に寄せて
Twitterでこんな記事が流れていてですね。しばらくリアクションを眺めていたんですがどうも辛抱ならなくてですね。Twitterに戻ってしまいました。何が辛抱ならなかったかと言うとですね、このトピックに言及している精神科医や心理職、ソーシャルワーカーのほとんど誰も、この記事の投稿者が傷ついた、という事実を受け止めて労いやいたわりの言葉を述べなかったからです。すべてを観察したわけではないので例外の存在は否定しませんが比率的に例外でしょう。
つらいね、とかそういう直観的な言葉を呟くのは特に支援者属性を表明しているわけでもなさそうな人ばかりで、当の関係各位のリアクションは俺は納得しないという表明として弄される「議論が必要だ」というものだったり、この話の構造や背景を巧みに分析して見せたりするものでした。この件を女性に結びつけて捉えることを云々する呟きもそこそこ見かけました。その当否は問題ではありません。
心理支援というのは辛いと言っている人に講釈を垂れる営みですか。辛いことの構造を紐解いて説く仕事ですか。まあそういうことも含まれるでしょう。でもそれって、辛いと言っているクライエントに対してする前に、まず受け止めようと、受容しようと、そういう風に教わってきたような気がしますが、そういうことではないんでしょうか。SNSの向こう側の人間の辛いという訴えは持論を展開したり第三者にアピールする手段としてカジュアルに消費して差し支えないものなんでしょうか。
わたしは「自分が言いたいことを言う前に何で一言「辛いね」って言えないんだ!」とすごく失望しています。一個人の切実な悩みに言葉一つかけてやらなくて何が社会正義かよと思います。カウンセリングのお客さんは社会正義の交渉材料じゃないんねんぞ、と。訴えている内容が汎化に堪えるかどうか、論理的に正当かどうかで、わたし達はクライエントの訴えに受容を意図した言葉を返したり返さなかったりするのですか。当人の主観的な体験としては事実だとして受け止めるという行い、ソーシャルワーカーも含めて対人援助の共通基盤だと理解していたんですけれど、違うんでしょうか。それとも、自分と契約関係にない人だからどう扱ってもよいという考えなのでしょうか。わたしにはどれを採用したとしても理解できそうにありません。社会正義を語る前に言うことがあるんじゃありませんかね。
そういう存在の辛さや苦しさをすっ飛ばして偉そうに天下国家の高説を垂れる仕草、それは日本の社会運動のいつか来た道です。革命がすべてを解決すると信じて、今日雨風をしのぐ家がない、明日の飯を買う金がない、今日の仕事が辛かったというプロレタリアートたちの日々の暮らしを眼差してこなかった歴史です。彼らもまた同じ轍を踏んでいることに、いい加減に気づいていただけないものでしょうか。
個人を踏み台にして社会を語るなら、日銭を稼ぐ手段として対人援助を生業にすべきじゃありません。活動家か政治家になるべきです。言うだけなら簡単なことです。
でも、それってそんなに難しいことですか?知らない誰かが辛いと言っているとき、その人にいたわりの言葉を紡ぐ、たったそれだけことがそんなに難しいことなんでしょうか?