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『バリント入門』読後の雑感など
バリント入門を(一応)最後まで読んだ。ツイッターで書影を上げただけなのに存外大きな反応を頂いたことも大きなプレッシャーモチベーションになった。入門書の良し悪しはそこから進んで原点などに導かれるかどうかによると思うから、このバリント入門が入門書として良書であったかどうかは、少なくとも主観的には、バリントのほかの著作に当たらねばわからないことだ。以前R.D.レインの入門書を読んだときはそれだけで息も絶え絶えという感じで、再チャレンジした『引き裂かれた自己』を投げ出すだけになったしまった。今回はその反省に鑑みて、本書を読んでいる再最中に『新装版 治療論から見た退行 基底欠損の精神分析』を買っておいたのだ!本書から得た印象として、バリントの考えはおおむね線形に発展してきているようで、その集大成(未完という声もある)たる同書をものにできるかどうか、ただいま挑戦中である。
したがって、バリント入門の読書感想文のようなものは治療論から見た退行を読んだ後でないと書けないように思う。他方、どうせ自分のことだから読んでいる間に何もかも忘れてしまいそうなので、忘れない前に、読書感想文にもならないような雑感を残しておこうというのが本稿の趣旨だ。
バリント入門を手に取った動機など
御多分に漏れず、中井久夫の紹介によってバリントを知った。その時は知っただけ。ただ、そのあと色々と勉強していくうちに、バリントの言う基底欠損は"愛着障害"を指しているのではないかと考えるようになった(愛着の語は論者による振れ幅が大きいので、細かくは言及しない)。古典における「被虐者」はどのように描かれているかに興味を持っていた時期に入門を買ったが、実は積読になっていた。再び本書を手に取ったのは、つまるところ土居健郎を経由して私の中で重要になってきた”退行”を知るためだったように思う。
感想など
正直言って対象関係論的な精神内界に深入りする手合いの話には全くついていけていないので、正直その辺はよくわかっていない。
結論としては、やはり基底欠損は愛着の不存在を指しているな、というのが私の理解。もうここだけで割と読んでよかったという感じがする。環境因子で色々留保をつけるのはほかの論者と変わらず、それゆえに「乳幼児期のニードが満たされなかった理由」は索漠としたままだ。バリントがそうなのは時代的にもしょうがないけれど、後代の著者がそこから一歩も踏み進められていないのは、これはもう倫理の壁よな、という感じである。むしろ監訳者の筒井さんの方が、明らかに、乳児期のニードが充足しない状態、すなわち基底欠損の決定的なファクターがどこに求められるかをわかっている感じがする。
バリントは一貫して権威的なもの、あるいは分析業界の超自我ともいうべきものとの問題を指摘し続けたように思えた。患者ー開業医ー(SVの)リーダー分析家の関係がフラクタルなのは特に面白かった。まあ現実がどうかというと、バリントの遺志は受け継がれていないというか、論理への妄執は目を覆うばかりではないかと思う。悲しいね。
8章と9章はロバート・ゴスリングによる一般開業医との仕事についての話で、10章はバリントの研究兼訓練を受けた一般開業医からの報告。意外にもこのあたりが一番面白かった。たぶん非分析家との仕事の話だからかな。この3章では、分析系の心理屋さんが研究を大事にする意味が少しわかったというか、つまり研究は心的態度の話でもあるんだな、と思った。誰かが正解を与えてくれるかもしれないという希望を手放して、孤独を以て患者の前に立ち続ける態度こそは、まさしく研究という心的態度で、バリントにとって学術研究はあくまで擬制なんかな、と(管見ではそうではないが深読みした意図として)。10章は本書でほとんど唯一患者とのやり取りの記録。生々しく瑞々しい、医師と患者の苦悩が伝わってくる、よい報告だった。
また、筒井さんが訳した本にはいつも解題がついているが、こちらもよかった。特に愛についての論考は読ませるものがあった。これこそ基底欠損の解題ではあるまいか。
まとめ
とりあえずこんな感じ。色々と書き込みを入れながら読んでいたが、本稿を核に当たってはほぼ読み返していないのであくまで雑感。ちゃんとしたレビューは別のところに書くかもしれない(書かないかもしれない)。バリント入門は入門書ではあるが、バリントという臨床家を通して多くの学びを得ることのできる、一つの書籍として独立した価値を与えられているように思う。