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言説の帝国

※違国日記のネタバレを含みます。

 Twitterを徘徊していたら『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』なる本が紹介されていて、表紙の絵が可愛らしかったので買って読みました。中身もよかったですよ。

 さて、本書の感想についてはレビューに書いてきたのでそちらを参照頂くとして、ここでは本書からインスピレーションを受けた本書とは全然関係ない話を書いていきます。


インフォーマントへの意図せざる影響

 本書を読んでいて気になったのは、フィールドワーカーが研究成果を世に拓くことでフィールドワーク対象者(インフォーマントと言うらしいです)に与える影響について、でした。でも、そのことはほぼ書かれてなかったように思います。

 本書でも紹介されていたような南洋諸島やアフリカ大陸で伝統的な生活を営む人たちは、西洋諸国で発表、流布される研究成果にアクセスする機会は極めて限られていたでしょう。我が家にも閉館する図書館からもらってきた『悲しき熱帯』(未読)がありますけど、あの本に登場するインフォーマントがレヴィ=ストロースを読むことは多分なかったでしょう。フィールドワーカーとインフォーマントのあいだにそういう地理的空間的、文化的な断絶があった時代は、フィールドワーカー個人が与える影響こそあれ、そこから構築された学問的言説が与える影響についてはあまり問題にならなかったんじゃないかと思います。いや先行研究はあると思いますが。

 でも、現代って、弱者男性とか当事者とか、あるいは地方の集落とか、地理的言語的に接していたり重なっていたりする人たちを相手に人類学的な手法で研究する手法がよく見られるでしょう。わたしはそれがとてもとてもモヤモヤするのですよね。だって文化人類学的な言説の影響をモロに受ける訳でしょう。精神保健福祉関連では、ある地域の住民がまるごとそっくり「人の話を聞かない」集団ということにされてしまった例もありましたしね。そういう言語化の影響について、いくつか具体例を挙げます。

例1:当事者研究

 わたしは当事者研究自体を批判したい訳では決してないですけど、あの手法を用いた当事者の方々の語るレトリックやその基礎となるボキャブラリーが極めて均質的、同質的であると思っていました。ああ、この人は当事者研究してるんやろうな、というのが割とすぐわかるような当事者研究っぽいレトリックというのがあるように感じるんですよ。そういうものなのかもしれませんけれど。

例2:ケアとセラピー

 一時期ケアとセラピーという二分法が一部で流行しましたけれど、あの後しばらく、対人援助の多様なはずの試みがこの二分法にしたがって、主に自分たちの営為は崇高なケアであると喧伝される時期がありました。

例3:弱者男性

 もっとひどいのはいわゆる弱者男性関連で、これにいたっては非参与的なWeb上の文字で弱者男性を一方的に定義し、論述する事で金儲けをしている人たちがそこそこいました。まあ今もいますね。彼らに定義されたうち、少なくない人たちがその言説を支持し、自発的にその枠組みによって体験をナラティブしているかのように言い出しているのは救いがないな、と思います。

書かれることは奪われること

 金儲けが悪いとは思いません。フィールドワークが害悪だとも思いません。というかこれは文化人類学に限った話ではないのでしょう。
 論者が自身の影響力を行使することで、本来的には多様でしばしば言語的な表現を与えられてこなかった意味世界、体験世界が、非常に整然としたレトリックに置き換えられてしまわないか、そこにインフォーマントの生活に留まらない意味世界の総体に対するリスペクトはあったのか。わたし、気になります!

『違国日記 2』p.55
ヤマシタトモコ, 祥伝社, 2018

 これは違国日記というマンガの、卒業間近というタイミングで両親を事故で亡くしたことが意に反して学校と学校を経由して学友たちに伝わってしまい、というワンシーンなのですが、このニュアンスが伝わりますかね。誰かの言葉によって自分のあり方が書き換えられてしまった体験だと、わたしは受け取りました。
 朝(引用シーンの女の子)はこのように非常に明確に自分の体験を言葉にできたわけですけれど、わたし達は日頃からこうなってはいません。わたし達は日常的に、虐待サバイバー、愛着障害者、ASD/ADHD、グレーゾーン、当事者、あるいはケアする人、エッセンシャルワーカーなどの言葉によって「わたし」は切り取られていて、世界を定義し言語化するという帝国の支配に服しているのかもしれません。

 あるいはこんな感じでしょうか。どれだけ傲慢ならこんなこと言えるのかな?わたしは不思議です。なんでこう、「わたしはそこに劇場の要素を見出します」という控えめな解釈や、あるいはもっと素直にそのまま受け取るのではなしに、たった一日(しかも非参与的に)眺めただけで、「結局~である」みたいなそこまで強い言葉で本人に直接言い切れちゃうんでしょう?彼らはもう、ありふれた心理療法という自作の概念を通してしか人様の治療を認識できないのではないかな?どうだろう。少なくとも第三者から見てそこに敬意は感じませんでした。
  引用したつぶやきはわかりやすい例ですが、"ありふれた"の人たちに限らず、このように必ずしも精緻に言語化されていない営みをたった一言で言えてしまう、そしてそれが仮に支配的な言説であればもう、トラウマ治療における営みは「劇場」ということになってしまい、劇場に収まらなかった(うまく説明できない)営みは劇場の外側で透明になって、やがて本当に失われてしまうでしょう。あくまで例ですから、トラウマ治療においてそういう認識が支配的になると思っているわけではないですけど。

言語化することの功罪

 名前をあてがうことは福音であると同時に喪失でもあります。苦しさ故に既存の概念範疇に自分を当てはめることは、ある面で了解可能性をもたらして、共感という形の安心感をもたらしはします。それは治療や支援に不可欠な構成成分ではあります。 
 でも、いったん当てはめてしまったら、自分の存在様式がすべてそのタームによって説明されるようになる危険を常に孕みます。自分が色々な経験や要素からなる複雑な構築物ではなく、特定の概念にツライチの存在という認識に書き換えられてしまう危うさがある。だから支援職が他人について言及するときに、常に断言や全称命題を排して、こちらが提示したフレームが絶対的な基準として相手を支配しないように心を砕くのではありませんか。提示した仮説の反証をクライエントから受けようと努めるのではありませんか。なぜそれとおなじことが大きな局面だとできないのでしょうね?そこに恐れ(畏れ)はないのでしょうか?

例4:発達障害当事者の発信

 SNSを見ていると、自分のuniqueな側面、例えば特徴的な行動パターンや概念理解を、ことごとく自分ではなく〈任意の発達障害用語〉を主語にして発信している方を見ると、複雑な気持ちです。極端な方では定型/非定型という二分法によって自分に与するかどうかで他人を選り分けている(本人はそのことに無自覚なように思われることも珍しくありません)場合もあって、まあそういう世界認識がある意味で発達障害らしさであることも少なくはないんですが、支配的な概念を得たことでかえって、自分という存在を主語にして生を体験できない、あるいは体験した事柄を何よりもまず自分に属するものとして捉えることが出来なくなってしまったのかなあ、とわたしには思えてしまう時があります。言い方は悪いですが見ていて痛々しく感じてしまいますね。「これがわたし!」って言えたっていいのになぁって、切なくなります。もっとも、こちらに関しては積極的に方向づけをしている専門家・権威がいる話なので、他人事のように日和見していい話でもないのですが…

 言説というものは非常に鮮やかで明晰であればあるほど、それらがしばしば学問的科学的に優れていればいるほど、包括的であったり包摂的であったりするほど、絶対的だった意味世界を強力に相対化するような作用を持つわけで、そういうsophisticatedな言説って一面でとても暴力的だなぁと、感じます。正確には、無邪気にnaiveに人間の営為や意味世界を秩序立てて一意に定義しようとする企てが、ですかね。その人らしさをその人自身の意味の体系で構築していくのとは逆に、人間を記述するための述語を統一して世界を征服するかのように作用している面が確実にある。それはまるで帝国のようです。

例5:無料低額宿泊所

 悪徳な無料低額宿泊所(無低)がある、という記述ではなく、無低は悪徳であると最初に定義してしまうことによって、現実にある無低の多様な営みは透明化されていますね。まあ、無低とそこにいるスタッフ、利用者と利害関係者の日々の営みを見てない(観察できてない)んだから記述できるわけがないんですけど。このように、定義することの恐ろしさというやつは、言葉だけ知っていれば対象に言及できるところにもあります。仮になんも見なくても「悪徳無低はうんぬん」とか言えちゃうわけです。元々の言説の説得力は別にして。

分散した存在たち

 結局、自分だけの絶対的な意味世界、体験の総体を任意の言語によって便宜的に表現しているだけで、そういう雑多なものの集合としての個人のうち、同じ記号に合致する切片(これは社会/集団という擬制そのものなわけですが...)でだけ、人は了解していると認識するのではないかと、今はなんとなく思っています。きっと世界はわたしが理解しているよりずっと多様で相対的で、にもかかわらず各々の世界認識は基本的に絶対的なもので、そして概念化や言語化によって余すところなく記述し尽くすことが不可能な程度には分散しているのでしょう。それを思うとき、自分がnoteの場を借りて書いていることについても、言葉をあてがうことで誰かの大切な世界に奪っていやしないか、ちょっと怖くなりました。

おわりに│勝手に希望を見出して

 さいわい、本稿で例示した言説が世界帝国になることは日本語圏の特殊性から言っても考えにくいでしょう。それにわたしは、言説の帝国に反目する人たちを実際に目撃しているのです。
 かつてSNS上でアライさんを名乗るアカウントが現れ始めて少し経った頃、一部の評論家が彼らをしたり顔で論じはじめました。するとアライさんのうちの少なくない人たちが、検索避けという形で評論家や野次馬の観測から逃れだした(ようにわたしには見えた)のです。あのとき、わたしは一連のアライさん達の動きに密かに勇気づけられていたのです。そこにわたしは―本当に身勝手な受け止めなのですが―世界を自分たちの意のままに言語化し、定義し、記述する帝国に対する反対表明を見出したのでした。

おしまい

 

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