孤独と自由、共生と不自由
1人で生きることは、孤独と引き換えに自由を得ること。
誰かと生きることは、不自由と引き換えに安心感や連帯感を得ること。
親元から離れて、一人暮らしを始めれば、その自由さに感動する。その日に何をするか、何を食べるか、何時に出かけて何時に帰るか、どこでご飯を食べるか、家に帰るか帰らないか、何を買って、何をするか、何を捨てて、何をしないか、なんでも自分で決められる。
今日はこのまま友達とご飯食べて泊まって行きたいなぁ、でも親に言うのがだるい…
明日ご飯外で食べるからご飯いらないって言うの憂鬱…
こんな遅く帰ったら絶対また親不機嫌になってるわ…
とか思う心配ゼロ。
その時の気分に任せて生活することの気持ちよさはなんとも言えない。
しかし、一通り自由を楽しんだ後は、この素敵な自分の好きなものやことだけを集めた心地よい生活を、自分一人で楽しむことに少し物足りなさを感じる。誰かと共有したいと感じだす。
自由と孤独は常に隣り合わせ。
孤独に耐えかねて、やがて結婚したり同棲したりルームシェアしたり、誰かと暮らすことを選択すると、人と好きなことを共有できることの素晴らしさに感動する。人の温かさを感じる。
しかし、人といることに少し慣れてくると、自分とは相容れない生活スタイルや考え方や嗜好に戸惑い始める。私はこうしたいのに、あの人はああしたいから、できない。私はこれが食べたいけど、あの人は好きじゃないからやめておこう。あそこに行ってみたいけど、あの人は行きたくないと言うからやめておこう。
私は辛いものが好きだけど子供は食べられないからやめておこう…
明日は外に出かけたいけど、夫はゲームしたそうだからやめておこう…
夫も子供も食べたら食べっぱなし、電気つけたらつけっぱなし、トイレの蓋開けたら開けっ放し…
誰かと生きることは、時に我慢と妥協を強いられる。いつも自分の好きなこと、やりたいことだけをしているわけにはなかなかいかない。
人と暮らすことの温かさと安心感は常に不自由と隣り合わせ。
どちらも、両極端で、バランスを取ることはなかなか難しい。
それもそのはず、自由と不自由、1人で暮らすことと誰かと暮らすことは、それぞれ表裏一体なのだから。
それでも、長い人生全体でバランスを取ることはできると思う。
私たちは皆、特殊な環境を除いて、生まれた時は親がいて、親と暮らしている。
あるいは親戚や施設、誰かしらとの生活である。
子供は1人では生きられないから。
しばらくして、自分の力で生きていく力がつくと、私たちは皆、自立していく。
人間を含め、すべての動物は、時がくればいつかは巣立たなければならない。
動物は大抵、親が巣立ちを強要する。
でも、人間はそうではない。親によって、早く自立しろと言う親もいれば、いつまでも巣に置いておく親もいる。
でも、それをいいことに、いつまでも古巣に住み着いていることは、自然の摂理に反すると思う。
親子だって、長年異常なほど同居していればうんざりする。だから、時に事件にもなる。
私たちは力をつけたら、一度1人になるべきだろう。
守られた籠の中から、野生という名の社会に飛び出し、自分の巣を探し、食べ物を見つけ、生きることの、自由さ、大変さ、恐怖、不安、孤独などを知らなければならない。
そこから、どう生きていきたいのか、自分なりの答えが見えてくるに違いない。
そして自分の経験の中から、これからは誰かと生きたいとか、ずっと1人で生きていこう、とか考えるのだ。
そこに正解はない。あるとしたら、自分の経験や考えに基づいて判断されたその答えが正解なのだ。
私は、30になったところで、結婚して夫と暮らす選択をした。
いやもっと前から意向は決まっていたけれど、実現できるようになったのが30だった。
理由は単純に、この先の長い人生、1人だけで生きていくのはつまらないと思ったから。
もちろん、だからと言って誰とでもいいというわけではなく、この人となら生きていきたい、と思える人を見つけられたことは幸せだと思う。
若い頃は1人でも平気だった。
やりたいことを1人でやって、行きたい場所に1人で行って。
可能性に溢れた未来のある自分自身の存在を楽しむように。
でも、だんだん歳を重ねてくると、1人でやることの楽しさが薄れていく。
だんだんと無数の人に埋もれた誰か、になっていく、そんな感じ。
たくさんの人が誰かと過ごしている中で、1人の私。
誰にも、見つけてもらえなかった私。そんなふうに感じるからだろうか。
結婚して夫と暮らす今、ご飯を作って食べてくれる人がいることの温かさ、一緒の家に帰ることの安心感、くだらないことで笑い合えることの楽しさ、問題があった時に一緒に考えて乗り越えられる頼もしさなんかを感じながら、時に、今日はご飯は作らず適当に残り物を食べて、ゆっくりお風呂に浸かってさっさと寝たいなぁなんて思うけど、毎晩子犬のように夜ご飯を楽しみにしている夫を思うと作るかぁ〜と思って頑張ったり、牡蠣小屋で生牡蠣と蒸し牡蠣食べまくりたいけど無理だなーと思ったり(夫は牡蠣や甲殻類系のシーフードが食べれない)、毎晩夫のいびきで最低一度は目が覚めたり、不自由を感じている。
だけど、孤独のつまらなさと、夫と暮らす不自由さを天秤にかけたら、断然後者の方を取る。
それでも、不自由でも、愛する人と生活をすることは、温かい。
いつか、年老いて夫が先に旅立ち1人になるか、私が先に旅立ち夫を1人にして空を一人彷徨うか、どちらかなんだもの。
どっちにしたって、最後は一人だから。
今、この長く短い人生の中盤には、あなたといたい。
そう思うのです。
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