被虐待&ADHDの私がタイに出会って人生変わった話。〜少年期編〜
ある年の年末、私は北関東北部の田舎町で産声をあげた。
父方、母方の両方にとって可愛い初孫の誕生はお祭り騒ぎだったと聞いている。
父方の家系は代々室町時代から続く暴力支配で成り上がっており、ほとんどの親族が何かしらの格闘技を嗜んでいる。
母方の家系は農家で至って普通。
家事が得意でおっとりとした母に対し、父は酒乱で暴力的な人だ。
二人は某新興宗教団体を通じて知り合ったらしい。
幼い頃の記憶といえば、母に対し暴力を振るう父、数珠を持ち念仏を唱えながら私や弟2人を父の暴力から庇う母、ぐらいしか思い浮かばない。
母と私達姉弟は常に父の暴力に怯え暮らしていた。
家庭内の問題に関しては世間体を気にする両親から口止めされていたが、小学四年生の時の心優しい担任が
「ああ、家に帰りたくないな。」という私のたった一言を聞き捨て無かったおかげで我が家は児童相談所と繋がることが出来た。
そして翌年、進級し小学校五年生の夏休み明けから、私は奇行にでるようになった。自分の中のモンスターが目覚めたのだ。
学校で廊下を水浸しにする、卒業式の練習でいきなりラジオ体操をかける等々のしょうもないイタズラから、
感情のコントロールが効かなくて暴れてしまったり、
時には命に関わるような危険行為をするなどで学校から問題児のハンコを押され、常に見張りの先生が付くようになり、ついには普通教室から隔離される事となってしまった。
学校は窮屈だと感じていた。校則の全てが鬱陶しかった。なので私はいついかなる時も裸足で生活していた。
そんなある日、学校から地元でそこそこ名の知れた精神科を紹介される。
そこで、私はADHDと診断された。その時初めて私は自分の「人と違った」行動が障害によるものなんだ、とホットしたのを覚えている。
ADHDとは注意欠陥・多動性障害と呼ばれる発達障害で、症状はその名の通り、時間に間に合わない、物を忘れる等の「不注意」、後先考えず行動して痛い目に遭ったり感情のコントロールが効かなかったりする「衝動性」、そして子供に多いソワソワして授業中椅子に座ってじっとしていられない「多動」があり、主に投薬治療や認知行動療法、あるいはカウンセリングを主に少しずつ対処法を見つけていく。
私には中枢神経刺激薬という成分的には覚せい剤と同じ薬の投薬治療が始まったが、全く症状は軽くならず、
薬の副作用に悩む日々だった。
学校側としては他の児童生徒に危害が及ぶ可能性があるので、「薬を飲まないと登校してはならない」と言われていた。
中学生の時に入院もするが、別の薬を紹介されただけで何一つ良くならず、私は自分の将来に対して強く不安を感じていた。父も母もお手上げで、時には母に暴力を振るうこともあり一時保護所にぶち込まれた事もあったし、私は自分の存在は周りの人にとって迷惑だ、と自傷行為にも走るようになった。毎日どうして自分は「普通にできないのか」と泣いていた。いつしか家庭内の問題の原因は父から私に変わり、家に居づらくなった。
そんな生活が続き、私は中学三年生、受験生になる。
地頭は良く、行きたい高校や大学進学の夢はあったが、
小学校五年生の時から授業に出ておらず、自習も全くしていなかったので最初から通信制高校に行くと決めていた。しかし、当時の見張り番の先生が「あなたには学生生活を楽しんで貰いたい。今から一緒に頑張ろう。」と言ってくれたおかげで、受験日1ヶ月前から毎日学校に遅刻せず登校し、先生と二人で猛勉強をした。これが人生初の努力だったと思う。応援してくれる先生や友達、そして自分自信の為に必死で勉強した。
そして受験当日、私は約5年ぶりに5時間もの間、ひとつの教室でじっと椅子に座り試験に挑んだ。これだけでも立派な成長だ。
しかし1ヶ月後、案の定内申点が足らず落ちてしまい、
結果、通信制高校に進学する事になった。
その時「お疲れさま」だとか言って父が1万円をくれた。
(ヘッダー写真: IG @nemottotacahico )
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