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噓日記 4/9 散歩をして得た気付き

散歩をしてみた。
普段は車で移動し、長くても数100メートル程度しか徒歩で移動しないのだが、今日はそんな私も散歩に出るような春の陽気だったのだ。
出発の前、準備をする。
パーカーにデニムパンツ、キャップにメガネ。
いつもよりカジュアルかつ、ややスポーティーな装いで自分自身にも春らしさを付与してみた。
また、今日はなんとなく、思いつきだがコンタクトはつけなかった。
いつもはコンタクトを着用して人並みの視力を持つことが出来ているのだが、外で裸眼をもう10年以上体感していないので今日はそれをしてみむとてするなり。
足元はうっすら汚れたエアフォースワン。
私はこの装備で、そぞろ歩きをする。
家から出て数分で気が付く、世界が鮮やかなのだ。
いつも忙しく生きているせいか、目を向けてこなかったものたちはこんなにも綺麗だったのかと、正しく驚かされた。
道に咲く花、土、遠くに見える山などは勿論のこと、公園を囲むフェンス、道に敷かれたアスファルトも同じように美しいのだ。
昨日までの私では、目もくれないようなものだったそれらがキラキラと輝いて映るのだ。
それからは視線をキョロキョロと、まるで生まれて初めてそれらを見るように動かしながら途方もなく歩いた。
いや、生まれて初めて見るようにではないかもしれない。
恐らく生まれて初めて見たのだ。
それらの輝きを気付く間もなく日々を消化していた。
ふと足を止めてみれば気付けたはずだったのに。
そうして、フラフラと歩き回った末、小さな公園に入ってみた。
子どもの姿はない。
少子化の波か。
グラウンドの真ん中に立つ。
そして、眼鏡を外した。
あぁ、青い。
空が途方もなく青いのだ。
雲一つなく穏やかな快晴。
涙が出るほどに晴天なのだ。
綺麗だなぁ、自然と口からそんな言葉が飛び出す。
視力が悪くとも見えるこの青は他でもない私のためのブルーであるような、そんな錯覚さえ起こすほど、純粋でどうしようもないほどの青だった。
裸眼で空を見た。
今日の散歩を纏めてしまうならこうだろう。
しかし、そんな纏められた中にも多くの輝きがあったことを私は知っている。
今までの私を反省した。
文字として見たものを知った気になって生きてきたのだ。
イメージの更新がなされないままに頭の中で知識として固定し、纏めてしまっていた。
だからこうして自分の目で見て、改めて知り直した時、その輝きに気付けたのだ。
もっと早く知っていれば、もっと早く気付けていれば、そう思ってやまない。
世界はこんなにも輝いていたのに。
余談だがレイチェル・カーソン女史の著作に沈黙の春という作品がある。
それとは何にも関係がないが今日もバチクソに花粉が飛んでいた。
春は静かに体を蝕んでくる。
鼻をかみながら日記を書いて、そのことに気付いた。

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