いい本ができた
昨日、店先で鯛と目が合った。
鯛はいつもそうするように、また言った。
——ねぇ、連れて帰って。
昨日が期限のアメリカ産ステーキ肉が前日から冷蔵庫で出番を待っている。
まったく別の料理をするつもりだったのだ。
しかし、僕はただ鯛の言うとおりにした。
言うとおりにしなければいけないと思ったのだ。
居並ぶ中でひときわ大きく丸々と太った立派な鯛を選んだ。
そばに用意されているビニール袋ではとても収まらない巨大な鯛だ。
店の人が、三枚おろしはえぇの? 今30人ほどの順番待ちやけど!と大きな声で訊ねてくれた。
僕はいらないとかぶりを振り、選んだ鯛を氷で包んで連れて帰った。
僕は店で魚と目が合い、語りかけられたら必ず耳を傾ける。
たとえ冷蔵庫にステーキ肉が待っていても。
出刃包丁を研ぎなおす。
さばいてみると、そのまま理科の教科書にできるほどハラワタも新鮮だ。
身の新鮮さは況んやをや。
プリプリの身は霜降りの刺身に、アラは潮汁に。
うまい以外の言葉しか出てこないのは、決して語彙が貧弱だからではない。
鯛の全力を僕の全力で受けとめた。
鯛が僕の血となり肉となる。
ステーキ肉には事情を説明し、冷凍庫でしばらく休んでもらっている。
*
注文していた本が届いた。
へんいち文庫11巻・にぐまっちさん著『転機の旅』。
編集を担当した身として、中身の「形」は当然気になる。
あるべきものがあるべき場所にあるか、ずれていないか。
画面上の組版はそのまま紙に再現されているか。
ひととおりのチェックを終えたら…
もう本マニア、紙マニアのような挙動不審者に変わる。
このサイズ感、マットな表紙の質感。
ずっと触っていたくなる。
ずっと愛でたくなる。
ページを繰れば、にぐまっちさんの思いがあふれ出す。
しっかり歩いた道筋、その先に地平線まで続くであろう旅。
いい本ができた。
にぐまっちさんとの二人三脚もいったんこれで終わる。
長い長い作業、おつかれさまでした。
*
そのにぐまっちさんを昨日不快にさせるようなことをしてしまった。
なぜそうなってしまったか、顕在化する問題ではなく、真の問題がどこにあったかを伝え、心から詫びた。
すべて僕の至らなさのせいだ。
寛大なにぐまっちさんは僕を赦してくれた。
ここに書くべきことではないかもしれない。
でも僕は、昨日起こしたできごとをしっかり心に刻まないといけないと思ったのだ。
うまかった鯛の歯ごたえは、ほろ苦い記憶となって残る。
(2024/12/20記)