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たとえ学食一食分に相当するとしても
「ま、別にえっかな」
それがすっかり口癖になってしまったと感じた大学生の頃。
寺、城といった歴史的な建造物、空間が小さな頃から大好きだった。
やっと自分の行きたいところに自由に行ける大学生になり、しかもそんなスポットがごろごろある京都での大学生活だ。
わくわくしないはずがない。
「どこ行こかな」
相棒のチャリを操って目当ての寺を目指す。
「ふぁぁ、この寺こんなにでかかったんや」
チャリを止め、ザッザッと砂利を踏みしめ山門に近づく。
門の向こうには幽玄で清浄な別世界が広がっているようだ。
《拝観料 500円》
山門の脇に建つプレハブの中のおばちゃんと目が合う。
にこりともしないその目は、文化財の維持には金かかんねん、四の五の言わず早よ払てさっさと帰りや、と語っているようだった。
「ま、別にえっかな」
「寺がここにあると分かったんやし」
「中に入っても畳と床と障子と仏像があるだけやろ」
およそ寺好きとは思えない罵詈雑言を心の中で吐き、今来た道を帰る。
悪意に満ちた(と勝手に感じた)プレハブのおばちゃんに対抗したのだ。
しかしその後も、嬉々として行く先々でプレハブのおばちゃんは仁王立ち(実際には座っていたが)。
もちろんおばちゃんがどんな顔をしていようとも、問題は大学生にとって拝観料が大きな痛手だったということなのだけれど。
唯一、神社にはおばちゃんはおらず、折しも編集バイトで古事記、日本書紀にのめり込んでいたこともあって、僕の足はがぜん神社に向くようになる。
しかし思うのだ。
本当は山門の向こうを見たかったのだと。
あるのは畳と床と障子と仏像だけかもしれないが、それらが織りなして作られた空間には日常の暮らしにはない空気が流れていたはずだ。
たとえ学食一食分に相当するとしても、身銭を切ってその場に立たないと感じることのできない空気。
「ま、別にえっかな」が口癖になっていると気づいたのは卒業間近。
せっかく京都にいたのに、と思っても後の祭りだ。
今はもちろん入る価値があると思えばいくらだろうと払って入る。
数年前、神戸市内唯一の国宝である太山寺に行ったとき、僕はその価値を感じて300円の拝観料を払って入った。
が、家族は全員山門前で待つという。
うんうん、中を見たいと今思える人だけが入るのでいい。
ただ一人、僕はその価値を噛みしめ、ゆっくりと境内を歩いた。
「ごめんごめん、待った?」
「遅っ!」
価値観の違いは簡単には埋まらない。
(2024/6/4記)
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