長い間、おつかれさまでした
「お父様の息がないことを巡回のスタッフが気づきまして…」
施設から父の最期を伝える電話が入ったのは深夜0時頃だった。
2日前、僕が様子を見に行った際にはすでに意識の混濁が始まっていた。
贔屓目に見ても、もう長くはないことは明らかだった。
医師と今後の療養方針を確認する。
元気な頃の父が延命治療を望まないと言っていたのは知っている。
とはいえ数日前から父はほとんど食べられなくなっていたから、医師は点滴を勧めるだろうと身構えた。
しかし医師から聞かされたのは、数日前に父が言ったという「何もせんでえぇから」だった。
病院へ行こうか、点滴しようか、酸素つけようかの問いかけに対し、笑顔でそう答えたというのだ。
その本人の意志を尊重してよいかの確認の場だった。
僕は命の重さと父の尊厳の狭間でしばらく揺れ動いた。
母も3年前、頑として治療を拒否し、ホスピス入院の10日後に旅立った。
そんな引き際のよさを父も理想としていたのだろう。
「治療を施さず、このまま見守ります」僕は医師にそう告げた。
その晩、父が39℃の高熱を発したと施設から電話が入った。
お顔を見たい方はなるべく早めにお越しいただいたほうがいいです、と。
翌朝千葉から駆けつけた兄と歓談した父。
兄の求めに応じて笑顔を作り、ともに写真に収まったという。
それが最後の気力だったのだろう。
その晩、父は88年の生涯を閉じた。
朝になるのを待って父の許へ駆けつける。
亡骸が傷まぬようガンガンに冷房の効いた部屋で、父は静かに眠っていた。
長い間、本当におつかれさま。
そして今までありがとう。
葬儀屋に電話をする。
「このたびはご愁傷様で…」から始まる型どおりの挨拶のあと、「お父様がお休みになられた日時は…」という言葉があった。
とってつけたような「お休み」が耳に残る。
「亡くなった」でえぇやんと思いながら聞く。
いったん千葉に帰った兄のとんぼ返りを待つ間、僕はその南極のような極寒の部屋でPCを出し、たまっていた仕事を少し片づける。
寒い。
寒い。
「お父さん、ちょっと上着借りるね」
僕は父にそっと囁き、クローゼットからブルゾンを取りだした。
バタン!
クローゼットが勢いよく閉まる。
「あ、ごめん」
ぐっすり眠っている父を起こしてしまったのではないかとヒヤヒヤしながら、僕は父にそう謝った。
父のブルゾンを羽織ったら幾分寒さは和らいだ。
またPCに向かう。
カタカタ。
カタカタ。
静寂の部屋にキーを打つ音がやけに響き渡る。
世界ってこんなに静かだっけ。
ごめん、キーの音がうるさ…
この部屋に入ってからもう何度目だろう。
眠っている父を起こさぬように、息を殺し、静かに静かにしている自分。
生前、そんな気遣いができていただろうか。
不思議なものだ。
葬儀屋の「お休みになられた」はそういうことなのかもしれない。
巡回のスタッフに「今日は何時にお目覚めでしたか?」と訊かれるかと期待したが、残念ながらそれはなかった。
父はあと4日がんばれば89歳だった。
でもそんなことはお構いなく、父は逝きたいときに逝った。
まったく苦しみのない静かな大往生だったという。
それは、10歳で戦火を逃げまどい、高度成長を企業戦士として闘いぬいた父の、激動の生涯にして最高の幕引きだったのではないだろうか。
長い間、おつかれさまでした。
そして本当にありがとうございました。
やっぱりその言葉しか出てこない。
(2024/4/26記)