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それって軽蔑すべき狭量な考え方だろうか

先日、神戸に来られた文子さんと飲んでいるとき、不意に訊かれた。
「フォロイーとフォロワーの話の続き、忘れてませんか?」

1週間ほど前、たしかにフォロイーとフォロワーの記事をあげた。

僕は、その記事を次の文で結んだ。

本当は今日は別の記事を書くつもりだった。
その中で「自分がフォローしている人」について何度も書くことになるから、まず「フォロイー」について簡単に触れようと思ったら、それだけで1000字になってしまったから、その記事はまた後日

うん、忘れてない。
少しばかりタイミングを計っていたのだ。

では、そろそろ話そうか。

💡 以下に出てくる「フォロイー」の意味は上の記事を見ていただければと思うが、ひとことでいえば「フォロイー=自分がフォローする人」だ

noteはバラエティに富むクリエイターが集う場であり、それぞれがさまざまな活動を行っている。
僕はそのことを大歓迎しているし、僕自身「エッセイ講座」や「ぐるめぐる神戸」をやっている。

でも、だからといって何でも受け入れましょう、でないこともまた明白。
個人の「選択」というものは確保されて然るべきだ。
しかし最近それが脅かされていると感じるのは僕だけだろうか。

フォロイーの投稿だけがタイムラインに並ぶのはSNSの根幹。
そうでなければ、興味のない、あるいは相容れない人の投稿であっても、日々目に触れることになる。
そんなnoteをみんな望むだろうか。
SNSは新聞ではないのだ。

多くの場合、フォロイーが生み出す創作は共感できる。
その人の感性をフォローしているのだから当然だろう。
だから自分のタイムラインは心地よい。
もちろん、それ違う、なんやそれ、というものも中にはある。
そんなときは読まずに済ますか、読み進めるうち違和感を覚えたらスキを押さずに退散する。
それでいい。
そしてまた次の投稿に期待するのだ。

ところが最近、私設私営の企画がやたら増えた。
瞬く間にそれらの企画が広がりを持ったところを見ると、きっとそれに乗っかって書くのは楽しいのだろう。
それ自体はいいことだ。
僕のフォロイーにもその企画に参加する人が次々と出てきた。
しかし企画に乗じて生み出された創作は、読めば読むほどその人本来の創作とはかけ離れて見える。
僕のタイムラインはあっという間にカニとシロクマに占拠され、それまで嗅いだことのない異臭がほうぼうから漂うようになった。

状況はあまりにひどい。
カニとシロクマはちらっと見かけただけで吐き気を催すようになった。
心の平穏を取り戻すためにできることといえば――それらに高頻度で参加するフォロイーのフォローを外すしかない。
悩みに悩んだ結果、そうした。

タイムラインは今ではすっかり落ち着きを取り戻した。
でも、その代償は大きい。
フォロイーの、そのフォローを外すしかないってどういうこと。
タイムラインからカニとシロクマを駆逐できた喜びと、大切なフォロイーを失った悲しみが複雑に交錯する。

「読みたくないハッシュタグを指定できる機能」を僕は切望している。
フォロイーへのフォローはそのままに、見たくない記事だけ忌避する機能。
それって軽蔑すべき狭量な考え方だろうか。

もちろんそんな機能ができれば、僕の「#エッセイ講座」とか「#ぐるめぐる神戸」などを指定してシャットアウトする人も大いに出てくるだろう。
いや、僕はそうしたい人にはそうしてほしいのだ。
僕の通常記事だけを読みたいという人に、エッセイ講座の記事をも押しつける現状を僕は決して歓迎していない。

過大なストレスを抱えながら開くnoteに、僕は未来を見ることができない。
「多様性」を振りかざして物事の本質を見ないこのご時世を憂う。

(2023/11/23記)

チップなどいただけるとは思っていませんが、万一したくてたまらなくなった場合は遠慮なさらずぜひどうぞ!