女の手仕事はセラピー(蕗を剥く)
朝9時半。
私はいそいそと家を出る。
「今日はどんな野菜が買えるかしら?」
ワクワクしながら、住まいから徒歩5分の農園が営む販売所に向かう。
私が住む街は大都市の近郊にあるが、農家さんが多く、畑から取れたばかりの新鮮な野菜を直に買う事が出来るので、暮らしの中での楽しみの一つになっている。
今朝も、葉物野菜達は露を残したまま、緑鮮やかに光り、
どれもこれも買いたくなって迷う中、陳列棚の片隅に旬の野菜を見つけた。
「わぁ!蕗!」
買いたいけれど筋を剥くのが面倒で躊躇したが、路地ものは、今だけなのだからと思い直し、結局買ってしまうのが毎年の常だ。
帰宅すると、蕗の灰汁が強くならないうちに、即座に調理を始める。
まな板の上で蕗を塩ずりし、熱湯で茹でるのだ。
茹で上がり、冷水に放つ瞬間が一番嬉しい。
「なんて綺麗な翡翠色だろう」
蕗を茹でる度に、飽きる事の無い小さな感動が湧き上がる。
後は、冷水に付けて小一時間、灰汁を抜く。
ここまでは厄介でないのだが、この後に、一番面倒で時間のかかる筋剥きが待っているのだ。
やれやれと思いながらも、
椅子に腰掛け、テーブルの上に、蕗を水に浸したお鍋を置いて筋を剥き始める。
最初は、
「あゝ面倒くさい。なんで又、こんなもの買ってしまったのだろう」
後悔しながらも、集中して筋を取っていると、心は次第に鎮まり、静けさの中で邂逅の旅にでる。
その旅は、25年程前に読んだ小説のワンシーンである。
その本のタイトルも作者も
忘れ、ストーリーでさえうろ覚えなのだが、あるシーンだけが記憶に残り続けているのだ。
舞台は第二次世界大戦の最中。ナチス占領下のフランスである。
主人公の若き女性がレジスタンスに関わり、闘う物語だった。
その女性の実家は農村地帯で農園を営んでいるが、ナチスに食材を押収され食材も乏しくなっている中、主人公のママンが豆を剥く場面が出て来る。
ママンは、大きなテーブルの前に座り、積み上げられた豆を剥いている。
黙々と手を動かしながら、
「こうして豆を剥くのも、
女の幸せよ」
戦火を潜り抜け久々に帰省した娘に、淡々と語るシーンである。
小説を読んだ当時、私は30代。未だ新米主婦の頃であった。
「豆を剥くのが女の幸せ」
この言葉が何故か心に引っかかり、言葉で表現出来ないものの、どこかで共感している私がいた。
それからは、そら豆を剥いたり、椅子に腰掛け、手間のかかる野菜の下処理をする度に、ママンの言葉が思い出された。
家族の家事を担い30年が過ぎ、私もママンと同世代になった。
長い歳月を経て思うのは、
フランスの物語と言えども、小説の設定は1940年を過ぎた頃である。
映画などでその頃の暮らしぶりを観ても、まだ家電も殆ど無かっただろうし、農家の主婦の日常は極めて多忙だった事と察する。
毎日、雑用に追われる日常の繰り返し。そんな中でゆったりと椅子に座り、豆を剥く時間は、自分を取り戻す貴重なひとときだったに違いない。
女の手仕事は自覚のないセラピーだ。
集中すると雑念が消えゆき、
思いがけない幸せな時間が
訪れる。
小説の中のママンは、この時間を「女の幸せ」と表現したのかもしれない。
作家の意図は、別にあるのかも知れないが。
すっきりと20分のセラピーを終えた私。
私は来年も又、躊躇いながら
蕗を買い、筋を剥くのだろう。
ママンと再会し、
「女の幸せ」を語り合いながら。
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