クリスティーナの昼食
年が明けて、私のスタンドパートナーはルーマニア人のクリスティーナになった。
クリスティーナはフレッシュなミルクのように色が白くて、天使のようにクルクルした明るい金髪は思わず手を伸ばして触ってみたくなるほどだ。 同じ金髪蒼目でもウテのように美しく妖艶ではないが, 彼女は明るくて親切で、皆に好かれた。しかも本当に賢かった。5か国語を自在に操り、様々なことに興味があるので何について話をしても彼女独自の興味深い答えが返ってくる。賢者のような彼女との会話はしばしば議論にまで発展するのが楽しくて、私達はリハーサル中でも指揮者の目を盗んでこそこそとお喋りに興じた。
そんなクリスティーナの外見は、明らかにミラノに暮らす他の人達とは異なっていた。そんなにお金をかけなくとも流行に敏感なミラネーゼの中にあって、彼女はいつもジプシーのような足首まで届く着古した長いスカートに、色の褪せた T シャツを着ていた。スカートからちょっぴりのぞく、雪のように白い足首の先には男物のように無骨でどこまでも歩いて行けそうな重たい革靴がドスを利かせていて、そのアンバランスさが彼女の個性を際立たせていた。 一方でなんの香りなのか, 高貴で清潔感のある香りが彼女からは漂い、どんなに高級な香水の中にも感じ取ることができない(因みにフランス語では香りを[感じる]と書く)、そのどこか石鹸にも似たやさしい香りについて尋ねると彼女は ”さて何でしょう?”と嬉しそうに蒼い瞳を輝かせた。
クリスティーナにはオーケストラ•プレイヤーなら誰でも羨む特技があった。それは[初見]の能力である。18、19世紀の交響曲はもとより現代曲に至るまで譜面をぱっと見ただけで、物凄い正確さで弾くことができるのである。
こんな人が私のスタンドパートナーで本当に私はラッキーだと思わざるを得なかった。
私がすごいねと言うと、彼女は喜びを隠しきれないといった風に無邪気に微笑むのだが、そんな時の表情はラファエロの絵画に出てくる天使によく似ていた。 そんなクリスティーナはジェラートに目がなかった。私たちはよく一緒にジェラートを食べたけれど、彼女は昼ご飯の代わりとしてもジェラートを食べた。昼に仲間達と簡単なパスタを食べにバールへ出かけたりしても、クリスティーナは決してパスタを注文したりはせず、いつも2ユーロちょっとのジェラートを注文した。お腹空かないのと聞くと、彼女は「わたしジェラート大好きだから、できれば毎日食べたいの。でもそうするとほら、、又太っちゃうでしょ? だから毎日食べる代わりに昼ごはんは無しよ!」と言ってウインクして見せた。そんな風に、にわかには理解し難い事を言う彼女を不思議に思っていたが、ずっと後になって彼女がルーマニアにいる家族に仕送りをしているということを知り、今まで想像しているだけだったことが腑に落ちたように感じた。
その頃一つのフランス映画がイタリアでも話題になった。それは[Amelie(アメリ)] だ。クリスティーナは私と同じようにとても映画が好きで、私たちはよく映画の話をした。アメリを観た、ある同僚がクリスティーナに、あのアメリ•プーランはあなたに似ていると思うわ、と言ったことがある(私が観た時はイタリア語だった事もあり、当時はいまひとつピンとこなかったのだが)。 想像力溢れるアメリという主人公が何気ない日常を奇跡に変えて行く話をノスタルジックな映像の中に描いていく作品なのだが、世の中を全く別の視点から捉えるアメリと、クリスティーナの持つ荒削りなダイアモンドの原石のような魅力というのは、なかなかステレオタイプな世の中では理解されない種類のものである点について重なるところがある。 ミラノや東京に住む女の子たちが日々当たり前のように興味を持つお化粧とかファッションには無関心だったクリスティーナには「クリスティーナ」という絶対的魅力があった。それは彼女の持つ優しさ、知性、好奇心、心の強さみたいなものが合わさって出来上がる魅力で、私はもっと彼女のことを知りたかったと今でも思う。私がパリに来て10年ほど経ってから、クリスティーナもオーケストラを辞めてルーマニアへ帰ったという話を聞いた時、私が最初に思い浮かべたことは「なぜか」ということよりも、「彼女が幸せでいるかどうか」ということだった。彼女は、彼女にふさわしい幸せをちゃんと手に入れることができたのだろうか? そのとき、私の記憶の中で何にも臆することがない聡明な蒼い瞳に続いて、あの繊細な優しい香りがひとつの答えのように蘇った。