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ボローニャでのクリスマス

イタリアでミレ二ウムに向けての興奮が静かに高まる中、クリスマスが訪れようとしていた。私が初めて日本に帰省しない年の暮れをどう過ごそうかと考えていたところ、カティアがナターレ(クリスマス)を一人で過ごすなんてあり得ない選択だと言ってボローニャの実家へ招待してくれた。私は嬉しさとは別に、ヨーロッパのクリスマスがどれほど家族にとって大切なイベントなのかを熟知していたし、それはあくまでも身内の集いだと思っていたのでひどく躊躇したのだったが、どうしてもとカティアが言うのでボローニャに行くことを決めた。 私がイタリアに来てミラノ以外に初めて訪れる場所となるボローニャは、美しいポルティコ(アーチ型のアーケード)の商店街が連なる赤い色の都市で、中世からの広場を歩きながら、「古い都市」という言葉がこれほどまでに情緒と躍動感をもって胸に迫るのを体験したことはなかった。

シルヴィアの実家は、カティアの実家の直ぐそばにあった。二人の両親は非常に気さくでおおらかな人達で、クリスマスの数日を過ごしたカティアの家だけではなく、シルヴィアの家までが見知らぬ東洋人の私を一年で一番大切な日であるクリスマスの昼食に招いてくれた。
幸運なことに、美食の街ボローニャで本物のイタリア家庭料理をご馳走になった私は心から感激した。
料理はいたってシンプルなものが多く、真似できそうなものも多いのだが、それぞれの家の母親によって長年繰り返し作られてきた料理というのは、たとえ一皿のパスタであっても、骨の髄まで染み入るようなやさしい味がするものである。例えばシルヴィアの家で出された、透明なスープ(ブロードという)に浮かぶ自家製の肉詰めラヴィオリは、今でも忘れられないほどの美味しさだった。

カティアの家では90歳近いお祖母様との忘れ難い交流があった。年齢など感じさせない軽やかな足取りと、皆に愛されるチャーミングな人柄を持つ彼女は、慣れない国で冬を迎えることになった私が少し風邪気味でいることを知って「薬よりも体に優しくて風邪に効くから」と言って、アルコール濃度の高いリモンチェッロというイタリアの有名なリキュールを出してきた。 それを半信半疑で煽った次の日、本当に風邪が治ってしまった。
夕食後はカティアの家族と暖炉を囲み、胡桃を割って食べながら社会や人種などさまざまな事について語り合った。

クリスマスの昼食の後、シルヴィアを含めた私達3人は午後の閑散としたボローニャの住宅街を市街地までぶらぶらと歩いた。
市街地にある小さな教会に入ると焚きしめられた香の匂いと、ついさっき終わったばかりのミサにやって来た人々の気配がまだ濃厚に漂っていた。ひんやりとした石の内部を一巡りした後表に出ると、なぜか私のバッグの口が開いていることに気がついた。そしてもちろん財布が忽然と消えていた。
私がほとんど真っ青になってそのことをシルヴィアに伝えると、彼女は一瞬考えた後に [あー分かった!] という面持ちで今降りたばかりの教会の石段を再び駆け上がった。
教会の入口の床には物乞いの老女が一人座っていたのだが、シルヴィアはつかつかと老女の前まで行くときっぱりとした口調で、[財布を返しなさい。私わかっているのよ。]と言って、掌をまっすぐ老女に向かって差し出した。 びっくりして棒立ちになっている私の前で、老女は抵抗することもなく、虚ろなまなざしでオレンジ色の見覚えのある財布をシルビアに向かって差し出したのだ。

驚いて言葉も出なかった私の頭の中には、瞬時に倫理に関する様々な疑問が渦巻いた。

証拠という証拠もないのに、なぜシルヴィアはあそこまで犯人が老女だと確信できたのだろうか? 万が一自分が間違っているかもしれないとは思わなかったのだろうか? 一方で、老女は物乞いをしている限りは哀れで弱い存在かもしれない。けれどもひとたび人の物を盗んだとなれば、それは犯罪である。私はシルヴィアのおかげで危機一髪、難を逃れたのだ。そんなふうに理屈で整理しようとしたのだが、なぜか割り切れない、今まで経験したことのない苦い感情があとに残った。 
それは世界でも珍しいほど安全な環境が整った、東京という都市に育った私と、一方でこうしたことが疑問を差し挟む余地もなく、日常風景として経験の中に刷り込まれて育ったシルヴィアたちと物の捉え方が根本から違うのだということなのかもしれない。
私は取り戻した財布をバッグの中で握りしめながらそんなことを思って歩いた。


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