「左川ちか」のテキストをめぐる雑感➁岩波文庫における森開社版全詩集の扱い

第2回:岩波文庫における森開社版全詩集の扱い


 
 森開社版全詩集の構成は、昭森社版詩集を底本としつつ(ただし詳細なテキストクリティークを施した上で再検討されている)、新たに確認した補遺を追加、さらに散文を加えた構成となっている。1983年に出版、2010年にさらに新版が出た。岩波文庫版は、昭森社版詩集に掲載されなかった作品「補遺」については森開社版全詩集新版を底本(p232)としている。その配列も森開社版のままである。
 
 拙稿「左川ちか研究史論」や全集解説でも述べたように森開社版全詩集の画期的功績は強調してし過ぎることはない。左川ちかの再評価に果たした役割は極めて大きい。拙編著『左川ちか モダニズム詩の明星』(河出書房新社)では小野氏の文章を再録、新たなインタビューを掲載し、改めてその意義を位置づけている。
立命館学術成果リポジトリ (nii.ac.jp)  ←※「左川ちか研究史論」
 
 岩波文庫版は有り体にいえば、前回述べたように伊藤整が編集した昭森社版詩集の「復刻」である一方で、同時に森開社版全詩集に乗っかかって商業出版化したものとみえる。この点に関して、Amazonのレビューである指摘がなされている。モイーズ氏とは面識はないが詩人であるようだ。
 
・Amazon モイーズ「文庫で、佐川ちかが読めること」(2023年11月11日)
文庫で、佐川ちかが読めること (amazon.co.jp)
 
引用>この岩波文庫版、『左川ちか詩集』は、物故詩人ながら、年譜が無い欠陥本である。143頁に在る「左川ちか小伝」は、ちか没後の1936年、昭森社から刊行された第一詩集『左川ちか詩集』に掲載された小伝で、兄の川崎昇の編集だが、この文庫にはその記載も無い。
詩人左川ちかについては、森開社の社主小野夕馥氏が、過去の詩誌を丹念に捜し歩いて、1983年11月27日に、神田・神保町の田村書店発売で、限定550部の『左川ちか全詩集 森開社版』を刊行したことが、詩人左川ちかの詩才が世に知られるきっかけになったが、この文庫では、一切、小野夕馥氏の仕事に、触れられていないのは何故か?
その後、2010年に、『左川ちか全詩集 新版』 が森開社から再度刊行され、より広く知られるようになった。この文庫の編者には、その努力が分からないのか、森開社の社主小野夕馥の名前は、一か所しか出ていない。解説も紀要程度の文章で、佐川ちかに対する一かけらの愛情も感じられず、幾ら、著作権が切れているとは言え、こんな年譜も無い、先駆者を無視した編集で、良く岩波書店が文庫として、刊行した、と驚くばかりだ。
これでは佐川ちかも浮かばれまい。読まれる方は『左川ちか全詩集 新版』(森開社版)に、是非、一度、触れてみていただきたい。

 
 「年譜」については、昭森社版詩集の「復刻」との意図であればこそ昭森社版「左川ちか小伝」のみにとどめたとも推測できる。また単に実証的な「年譜」を独自に編むのが難しかったのかもしれない。モイーズ氏のように「欠陥本」と判断するかは置いといて、読者を想定すれば現時点の研究成果を踏まえた「年譜」があるに越したことはないだろう。
その他にSNS上では、文庫の解説の具体的な中身に対する痛烈な批判を寄せている別の読者も複数いたが、そのあたりはテキスト上の話とは異なる議論になるのでここでは触れないことにする。
 
 

 
 一般論として論文ではない文庫の「解説」に先行研究や先行出版をどこまで書くかどうかは編者の判断が尊重されるべきだろう。だがこの「解説」では、富岡多恵子を始めとする過去の論者たちによる評論・研究を詳述している以上、指摘されているように拾遺詩篇の底本に森開社版を用いたとあるだけでは(p232)、森開社版に乗っかかりながらその仕事と意義を無視しているのではないかと指摘されても仕方ないとは思う。あまりに冷淡と思う読者もいるということだ。
 
 詩集の編纂は著者の著作権のみならず編者の編集権が発生することを思えば(書肆侃侃房の全集奥付には編集権が編者に存在することをⒸマークで明記している)、「底本」として少なくない部分を負っているならなおさら過去の編者とテキストに対するリスペクトは必要で、他の部分と比べバランスを欠いていると批判されているのだ。その理由や背景はわからないが、もし私が昭森社版を本編の底本とし、補遺の底本を森開社版にするのであれば、編者名のクレジット及び解説の記述にはもう少し配慮したい。
 
 
 森開社のブログでは多くを語っていない。
 
◆・エキサイトブログ 螺旋の器 「左川ちか特別展『左川ちか 黒衣の明星』が札幌で話題に」(2023年12月16日)
左川ちか特別展『左川ちか 黒衣の明星』が札幌で話題に : 螺旋の器 (exblog.jp)
 
引用>しかし もうこれ以上は「左川ちか」と関わり合って暮らすことはないだろう
  数人の友人が溜息を吐きながら 半ば怒りを以て昨今の出版事情を歎く 
  私は応える 回想の年代に足を入れたからね と
  忸怩たる思いは沈黙でひた隠し
 


 「友人」が「半ば怒りを以て昨今の出版事情を歎く」がどういう文脈かの勝手な推測は差し控えたい。
ともあれ他人事ではない自分自身の問題としてもいろいろ考えさせられる。

第3回に続く。

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