【大正の少女雑誌から】#3 わたしのお姉さん
少女雑誌に投稿された文芸作品をながめていると、「姉」が登場するものが多いのに気づきます。次いで妹、母という感じで、小さい弟や父がたまに。兄は、今のところ見かけていません。
つまり、少女たちの世界において、姉とはそれだけ大きな存在なのでしょう。歳の近いお姉さんなら、少女時代を最も近くで共有する存在として。歳の離れたお姉さんなら、少女時代に寄り添ってくれる存在として。
共に遊び、持ち物を貸し借りし、秘密を打ち明け合い──そして、進級や恋、結婚といった、成長の通過儀礼を先に歩んでいく。
きょうだいは兄ひとりだった私は、そんなお姉さんのいる子に漠然と憧れていたのですが、美しい投稿作品を読んでいたら、その頃の気持ちが再びよみがえってきました。
姉妹の、静かな美しい時間。この女の子にとって、お姉さんは非の打ち所のない完璧な少女なのでしょう。きれいで、聡明で、優しくて──そんなお姉さんに素直に憧れているので、自分が大人になる想像も、こうして自然にできるのかもしれません。
ちなみに、「耳かくし」とは大正時代の女の子に流行った髪型で、ちょっと検索すると画像がたくさん出てきます。艶やかなウェーブが、まるで映画女優のよう。「(耳を隠して)親のお小言は無視よ」的な意味の、女学生言葉にもなっていたそうです(高畠華宵大正ロマン館)。
でも、この子は俗っぽいのが嫌なのか、流行りの耳かくしは敬遠しています。とはいえ、当時の未婚女性の一般的な髪型である島田髷も、なんだかピンとこない。私、いったいどんな大人になるのかしら?──
あどけない想像をめぐらす少女も、いつかたおやかな大人の女性になっていく。望むと望まざるとにかかわらず、その日はかならず訪れるのです。
「桃われ」は、当時のハイティーンの女の子の髪型のひとつ。その、結ったところにつける飾りを、少女時代とのお別れの意味で置いていく──「君」というのはお姉さんで、その結婚準備を見守る妹が詠んだ歌かなと想像しました。というのは、私のバイブルである『バナナブレッドのプディング』(大島弓子)の冒頭に、主人公の衣良ちゃんが大好きなお姉さんの結婚を受け入れる様子が描かれていて、そのイメージが勝手に重なってしまったからです。
優しいお姉さんは、自分の化粧品や髪かざりなどを「みんな衣良にあげる」と譲って嫁いでいきます。きっとこの歌の「桃われの飾」も、妹が大切に受け継いだのではないでしょうか。
さて、こうして理想的なお姉さん像がさまざまに描かれている一方、姉自身の側から寄せられた作品のなかでは、こちらが目に留まりました。
「二人の性格がむだのない言葉の上に、率直にあらはれてゐます」とは選者の評。私は、つい先日観た『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』(レビューを書きました)の影響で、さっと薔薇色の手袋を取って喜ぶ妹がエイミー、真っ黒な手袋から目を離せなくなる姉がジョーに思えてしまいました。かわいくて要領のいい妹、不器用だけれど優しい姉──
性格が違えばこそ、実はそれぞれに悩みがあり、互いをひそかにうらやむこともあるのでしょう。そうした難しさもまた、姉妹という関係の奥深い美しさであるように思うのです。
もっとも、こんなあっけらかんとしたお姉さんもいるのですが。
「お姉さんのおいたが、すぎやしませんか」と選者の先生に言われていますが、思わず笑ってしまいました。私も兄には同じようなことをさんざんやられてきましたから。
当時、少女雑誌を読んでいたのは裕福な家のご令嬢ばかりだったでしょうが、こんな『あさりちゃん』や『ちびまる子ちゃん』のようなドタバタ姉妹だってもちろんいたのでしょう。むしろ本当はそちらのほうが多くて、少女雑誌の抒情画をながめながら「うちのお姉さんはどうしてこんなふうじゃないのかしら」なんて、ため息をついていたのかもしれません。
さて、今回は姉妹について取り上げましたが、少女の世界には血のつながらないお姉さまと妹──いわゆる「エス」という関係で結ばれた少女たちもいたのは、広く知られているとおりです。こちらについてはまた改めて、いろいろ集めてみたいと思います。
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