見出し画像

抄訳・源氏物語〜桐壺 その六〜

月日がたっても帝は今だに桐壺の更衣が忘れられず、試しに美しいと評判の姫を後宮に呼ぶこともあったが、亡くなった桐壺の更衣の美しさや優しさがより際立ち、悲しい思いをするだけだった。
そんな時に典待から『先帝の第四の内親王様が桐壺の更衣、そっくりの美しい宮さまです』と聞き、その宮の母親に入内をお願いしたが
「桐壺の更衣がいじめられて亡くなったと聞いている後宮に可愛い娘を入内させるなんて恐ろしくて出来ない」と思われて、帝への返事をずるずると引き伸ばしている間に、その母親が亡くなってしまった。
宮が一人残されたことを聞いた帝は、
「一人では心細いだろうから、私の娘たちの内親王と同じような気持ちでお世話をするので、宮中に来て欲しい」と言いながら熱心に入内を勧めた。
宮が毎日、亡くなった母親のことを思って泣いて暮らしていたので、兄の兵部卿親王やお付きの女房たちが心配して、帝の申し出をお受けするようにと勧丸ので、宮は仕方なく入内した。
宮は藤壺にお部屋を用意されたので藤壺の宮と呼ばれるようになりました。

藤壺の宮は典侍の話通り容姿も雰囲気も桐壺の更衣によく似ていたが、身分は先帝の第四の姫、内親王なので誰も彼女をけなす事は出来なかった。
あんなに深く愛していた人を失ってしまった帝の心を、すぐに癒す事は出来ないが、藤壺の宮が来てからはまた明るい後宮が戻ってきたようだった。

源氏(若君)を可愛がっていた帝はどこに行く時も一緒に連れて歩き、とくに藤壺には頻繁に通っていた。
他のお部屋の妃たちは、帝と同じように年を取ってしまっていたが、藤壺の宮は源氏の5歳年上の14歳。年齢がさほど変わらないので、源氏が来ると恥ずかしがって顔を隠してしまう。でも仲良くしているうちに自然と顔を見せることも多くなっていた。
源氏は典侍から藤壺の宮が桐壺の更衣と似ている事は聞いていたので、母のように恋しがり、また姉弟のように仲良く過ごしていた。
藤壺の宮が来るまでは、弘徽殿の女御の嫉妬も少しはおさまっていたが、宮中の者たちが源氏を『光の君』と呼び藤壺の宮のことを『輝く日の宮』と呼ぶのを知り
「憎き桐壺の更衣がいなくなり、平和な日々だったのによけいな者が…」
と恨めしく思っていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先帝と書いてあるから、桐壺帝のお父さんかな?なんて思っていたら、どうも違うらしい。もし先帝がお父さんだったら「先帝の第四の姫」の時点で「妹」ってことになる。確かに近親婚が多かった奈良時代や平安初期だったけど、
いとこや叔母や叔父などの4親等での結婚で、3親等以内は一応禁止。でも異母兄弟姉妹の結婚はあったみたい。難しい。
で、この先帝と言われるのは桐壺帝の異母兄弟の兄もしくは従兄、もしくは叔父で、先々帝が桐壺帝のお父さんか兄らしい。と言うことは、藤壺の宮は、薄〜い血族関係の姫になります。源氏物語の中でもはっきりと書いていないので、想像の話になりますが、内親王で位が高く、べっぴんさんなのは間違いなし!

藤壺の宮は14歳で入内。源氏が9歳。帝26歳。う〜ん。
この時代の年齢設定が毎回微妙。今の時代と比べると拒否反応が出てしまいますね。両親とも亡くなってしまっていて、兄はすでに結婚していて(妻の家に婿入り)しているから、妹と一緒に住むこともできず、どうしようかと思っていたら、帝から声がかかったら、やっぱり嫁に行かされるよね。
裳着の儀を10歳以降に行うので14歳はもう結婚できるお年頃。

裳着(もぎ)・・・平安時代から安土桃山時代にかけて、女子が成人したことを一族および他氏に対して示すことを目的として行われた通過儀礼。

藤壺の宮が入内してきてからの日々は、源氏にとって人生で一番楽しかった頃ではないかな?でもこの楽しかった思い出に、違う感情が芽生えてしまうのだけど。

サポートしていただければ、励みになります。よろしくお願いします。