映画「CLOSE」感想
はじめに
*映画観て考えたことをツラツラと綴っています。上手くまとめる才能もなく内容の割に無駄に長い文章ですので、読む方は何卒寛大な心で読んでやってくださいませ。
*ネタバレ部分も話の流れ的に触れていますので、ネタバレされたくない方はご注意ください。
Lukas Dhont ルーカス・ドン監督の2022年カンヌ・グランプリ受賞作「CLOSE」を観ました。
予告を観て、カンヌのグランプリ受賞、アカデミー外国語映画賞ノミネートという前評判、さらに「エブエブ」や「The Whale」と同じA24の製作ということで期待が凄く高まっていましたが、そんな期待を裏切ることのない良作でした。(ただ上のあらすじがほぼ全てといっても過言じゃない。もう一越え何かあっても良かったかな~とも思わなくはない)
美しい画面
まず画面がキレイ✨!!
コレ重要です(私にとっては)。日本映画ってハッとする絵のような美しさを感じる映画ってそんなに無い気がするんだけど(とにかく暗いのが多いし、あってもちょっとわざとらしいのが多いんですよね)、海外の映画、特にヨーロッパ系の映画は絵画的美しさを切り取ることも忘れてない。
色彩の使い方が魅力的でした。舞台であるベルギー、オランダ辺りのフランダース地方はヨーロッパの中でも北の方。私もアムステルダムやブリュッセルには行ったことがありますが、暗いとまでは言わないけども古い石造りの街並みは光あふれるという感じではなく、質実剛健なグレー基調。
しかしこの映画では屋外でのキラキラした光の溢れる画面が本当に美しかったです。花畑の描写があちこちで挿入されることで画面にアクセントを加えて飽きさせない。こういう色彩、光のイメージは画像記憶として脳裏に焼き付く。そういう目から入る”言葉で語られない情報”もうまく駆使してストーリーを展開しているという部分は高く評価したいと思います。なんと言っても映画は”映像”作品ですからね。
監督インタビューから映画の背景を考えてみる
このYoutubeを観ると、監督のインタビューで製作裏話的なものが語られていて興味深かったです。
そもそもの発端は監督が
アメリカの心理学者Niobe Way著
「Deep Secrets: Boys’ Friendships and the Crisis of Connection」
というアメリカの社会学の本を読んで、その内容に興味を持ったことから始まったそう。
その本では、5年間、全米150人の色んな人種の少年達をインタビューし、
13歳から18歳まで彼らの成長を追って、少年達に男友達についての捉え方を訊いていく。
13歳、まだ思春期に入る前後頃の少年達は、親友に対して、
まるでラブストーリーの相手のように話すことに監督は感銘を受けたそう。
オープンに躊躇なく男友達に対して”LOVE”という言葉も使う。
世界中でもっとも大切な人物であり、全てのものをシェアしていると。
それが15歳、17歳、18歳と歳を重ねて、また同じ質問を投げかけると、彼らは以前とは同じような表現を使わなくなっていく。
年齢の移行の過程で”その言葉(=LOVE)”は彼らの関係に使うのには相応しくないと思うようになっていくから。それはフェミニンだったり、ゲイを連想することに繋がるから。
監督はその本を読んで、インタビューを受けたアメリカの少年達と、フランダース地方で育った自分との間に類似点、共通点があることに気が付く。
監督自身も、ある時点で、(男同士の)親密さを恐れ始めたポイントがあったと。
自分の脆弱性(”繊細さ”という方がいいのかな?)は弱さであって力ではないんだと思い込んでいたと。(←マッチョ思想の影響ですね)
自分の感覚が特殊なものだと思っていたら、アメリカの少年達も同じようなことを経験しており、これは地域や文化に限定したものではなく、もっと世界中の少年達に共通する事象なんだと、その本により知ることが出来た。
社会が少年達にmasculinity”男性性”を強要し、彼らの成長過程で、それまでに築いてきた深い人間同士の心のつながりを奪っているんだと。
ホモソーシャルが強いるホモフォビアの呪縛
まさに「ホモソーシャル」におけるホモフォビアの影響が少年達を浸食していく…ということが世界中で見られているということなんだと思います。
(ホモソーシャルに関しては私の過去記事「100分deフェミニズム 私的まとめと感想」を参照して頂いてもいいかもです。最近この記事へのアクセスが妙に増えてるんですけどなんででしょうか?🤔)
少年達にとって大人の社会とは男社会、つまりホモソーシャルを基盤とする社会であり、そこに参加し始める思春期に入ると、ホモソーシャルの会員資格である”ホモフォビア”を示さないといけない=つまりホモフォビアを踏み絵のように強いられるようになっていくという構図。男同士の愛なんて性的意味合いを付随していなくても口外するもんじゃないと。いやそもそも持つこと自体許されるべきでないとなる。
それで多くの少年達はそれまで一心同体だったバディ(男友達)とも距離を取り始める。それは純粋に異性に興味が移行し、お互いの関心にズレが生じてしまってということもあるだろうけど、そういう社会の圧によって距離を取り始めた人も多いのではないだろうか?
まだまだ自分のセクシュアリティが確立しておらず異性に興味が湧いていなくても、ホモソーシャルの獲物、男同士の絆を強化する媒介物である女性に興味をもって然るべき!と、早熟ですでにホモソーシャルの影響を受けた少年中心に圧を掛け合っていく。その時によくわからなかったり、違和感を感じていても言い出すことなんてできない。ホモソーシャルによる少年達をストレート男性(女性を愛するのが当たり前という固定観念)へ洗脳していくという型嵌め、矯正していく機構がある。
もちろんマジョリティはストレート(ヘテロセクシュアル異性愛)だろうから自然と異性に関心が向くのだとは思うけども、この思春期の時期のストレートが当たり前という圧を受けなかったらどうなるか?ここはもの凄く(私個人的には)興味深い。もうガチガチに矯正されて生きてきてしまった古い世代は変われなかったり理解できないだろうけど、この圧がなく、多様な性の形が存在する前提で、そういう個々を尊重することを教えられた世代は案外ガクンとストレートの割合が減るんじゃないだろうか?
現在ではLGBTQの割合は10人に1人~12人に1人ぐらいと言われてますが、もっと多くの人が真摯に自分のセクシュアリティを、それを意識しだす思春期から見つめていたら、ガチガチのストレートと自負できる人は案外少なくて30~40%ぐらいは何かしらのLGBTQ、ノンバイナリーやフルイド、アセクシュアル等に分類されていくのではないかと思ったりします。
ルーカス・ドン監督はゲイだそうで(プロデューサーしてる弟もゲイだそう)、映画の主人公たちと同じ年頃に自分から多くの関係を切ってしまったらしい。やはりゲイであることがバレたり、そういうラベルを貼られるのが怖かったり、近い友人に恋愛感情を持ち始めてしまう自分が怖かったりしたのではないでしょうか。他の少年達が当たり前に受け入れていく男性性。それが自分にはどうも備わっていないように感じる違和感。その違和感を表明できない社会。このズレが「自分は彼らのグループに属せない」と関係を絶つ選択へ向かわせるのでしょう。
そういう切ってしまった関係が悲しかったり後悔したり…いつまでも心の奥で燻っていたその痛みは実は多くの人も持っているのでは?と思い、それにスポットを当てる映画「CLOSE」の製作に繋がったということのようです。
私もセクシュアリテイ関連ではないけど、中一の頃に近所の友達や幼馴染との間に距離を感じ、私から切ってしまった関係がいくつかあります。
イジメとか派閥、グループ、ほんと今思うとしょうもない理由だったりする。しかしその小さな社会ではその圧力が物凄く怖いんですよね。
そういう意味で、この映画のレオとレミの外圧によって変わってしまう関係性、二人の絆が壊されていく様は、彼ら同様純粋な関係を維持できなかった一人の人間として物凄く共感出来る部分でした。
キャスティング
(この動画でも二人のキャスティングの経緯を話しています)
主役二人の少年達はキラキラと可愛くて凄く魅力的に撮られていました。
(やはりこの辺りはゲイ監督の手腕を感じずにはいられないw)
監督は多くの学校を回って最適な少年を探したそう。
(ちょっとビヨン・アンドレセンの「The most beautiful boy in the world」で見たルキノ・ヴィスコンティを思い出しちゃいますね~(;^_^A)
それも小学校の最後の学年~中学の最初の学年の思春期に入る前の物凄く短い期間に位置している少年を探していたそう。劇的に変化するその時期を映画として捉えることはもの凄いチャレンジでもあったと。
最終的には580人もの少年達をオーディションに呼んだそう。
そんな中、レオ役のEden Dambrineエデン・ダンブリン君とは、偶然の巡り逢いだったようです。監督が(Max Richterの)音楽を聴きながら電車に乗っていた時、ふと横を見ると、Young Angel(=エデン君 この表現は他のインタビューでも使っていた。よっぽど輝いて見えたんでしょうw)が友達と話していた。音楽を聴いているので何を話しているかは分からなかったが、彼の目は多くの表情で溢れ、目の奥に既にこの世界が存在しているかのようだったと。
そして彼に声を掛けなかったら絶対に後悔すると思い、是非キャスティングに来て欲しいと告げる。彼の母親が脚本を読み了承し、結果キャスティングに参加することになったということでした。
一方、レミ役のGustav De Waeleグスタフ・ドゥ・ワール君はキャスティング関係の友人からの推薦で、とても感情表現の上手い子がいると紹介されたんだそう。
これらの話を聞くと監督の中ではほぼ主役はエデン君に決まっていたっぽいですけども、まずはキャスティングで選ばれた20人ほどの少年達を集めてワークショップなどをしつつ彼らの関係性を見ていったんだとか。
幾つかのグループに分けられた中でエデン君とグスタフ君は同じグループになり、初めからウマが合う感じだったらしい。そしていろんなコラボレーションやセッションの最後に、少年達に「一番Favouriteな子は誰か?」を紙に書いて貰ったところ、エデン君はグスタフ君を、グスタフ君はエデン君を書いたそう。つまり二人は相思相愛。二人の間のケミストリーは本物だった(敢えて主役に抜擢されるように二人で示し合わせたのかも?と監督はちょっと疑ってたけどw)。結果監督たちスタッフはその関係性を見事に生かして映画を作った。なるほど納得のキャスティングの裏側ですね。
映画序盤の二人が相手のことが好きで仕方ないっていう感じの空気。彼らの目には演技以上の相手に対する(性的なものはまだ含まれていない)愛おしい気持ち、慈しみの気持ち、共犯者の連帯感、自分の分身、自分の一部だというような感覚が溢れていました。そしてその気持ちをより映画用に高めるよう指導し、物語に落とし込んだ監督の手腕も素晴らしいと思いましたね。
私はまだ観てませんが、今年のカンヌでクィア・パルムを獲った是枝監督「怪物」での少年二人の関係もこの作品の二人に近いように前情報で感じたので、彼らの演技ではどれほどそういう感情が映像に捉えられているのか?そこに非常に興味があります。是枝監督の子供へのディレクションはどれほどなのか?嫌らしく見比べてみたいwww
映画はほぼほぼレオ役・エデン君の表情、特に目の表情を追っている。
彼のオリーブ色の大きな目は、セリフ以上に多くを語っていて本当に惹き付けられました。
(演技経験のない素人を使う上で、全身ショットよりヘッド・ショットを多用するのは割とよくありますが(体での演技が出来ないので)、この映画に限ってはそこまで違和感はなかった。彼の顔のアップにはちゃんと意図がある造りになっていたから)
彼の目は、監督が言っていたように「その目の奥に世界がある」というように、目だけ見ると”大人の目”なんですよね。無邪気だけじゃなくてどこか悲しみや怒りをも湛えた目というか…。
笑った時の無邪気な子供の表情と、大きな目をジッと見開いて見つめる時の少し冷たさを感じる表情とのギャップ。この子供と大人の境界にいる思春期の少年を演じるのにうってつけの目、キャスティングだった気がします。
ヴィスコンティ的に言うと、少年じゃなくなった時の彼はどこまで魅力的かは案外微妙な系統の顔だとは思う。25歳過ぎたくらいで一気に貧相さが加速する場合が往々にして多いんですよね白人(Caucasian)って。エドワード・ファーロングとかブラッド・レンフロとか、このぐらいの少年俳優が大人になって残念な感じになっちゃった例を何度も見てきたからかな?(;^_^A
まだ無邪気さの残っている彼の大きな目、なんとか大人達、映画界に汚されずに、あの魅力的な色を保ったまま大人の素晴らしい俳優になって貰いたいもんですが…果たして!?まあ今後も俳優続けると決めてない可能性も十分ありますけどね。
レミ役のGustav De Waeleグスタフ・ドゥ・ワール君は、本当に絶妙な容姿、レオと対照的な子がキャスティングされたと思います。
まずはこういう時の王道のレオが金髪に対してレミのブルネット。少し冷たい冷属性のレオに対して、えくぼの出来る笑顔、とにかく可愛げのあるレミの温属性。この対照的な感じがすごくイイ。掴みはOKという感じw。
グスタフ君の笑顔の感じが、レオが彼を笑顔にさせたくて色々仕掛けたくなる、とにかくいつも笑顔にさせたい、もっともっと笑って欲しいってなるのが凄くわかる笑顔なんですよね。なんだろう?その笑顔を見るだけでこっちも幸せになる感じの笑顔。
この二人を主役にもって来た時点で、まあ映画の半分は成功していたと言っても過言じゃないキャスティングだったとさえ思ってしまいます。
日本の映画やドラマももっとしっかりキャスティングしましょうよ。事務所が売りたいとか、いま人気だからというだけで安易に選んで作ってる作品が本当に多い。同じ俳優ばかり出てきて”役を見てる”んじゃなくて”俳優を見させられてる”作品ばかり。
お金を集められないとか色々裏事情があるのはわかりますけども、結局無理のあるキャスティングは作品の質を落とすことになるのは制作側もわかってると思うんだけど…。妥協点を安易な利益の方に寄せるんじゃなくて作品の完成度の方になんとか寄せられないですかね。一時的なファンに消費される作品より後世に残る名作に時間と労力使って欲しいな。才能あるクリエイター達には。
なんとなく考察
映画を観ていて、なんとな~くこれはこういう意味なのかな?というものを書いてみたいと思います。
花畑
まずは冒頭に出てくる花畑。
レオの家が花卉栽培農家なのでカラフルな花々の間をレオとレミは真っすぐ前だけを見て走る…。
これは家族にも守られた環境、二人だけで世界が満たされ完結している”楽園”的なイメージなのかな?と思いました。
監督がレオ役のエデン君を見つけた時にエンジェルと呼んでいたように、二人は楽園に暮らす天使として描かれてる。奇しくも彼の名前がエデンというのも興味深い。そこからのインスパイアだったりする!?
ただこの花畑ではガンガン花だけを摘む作業が映されてました。切り花を出荷するなら丁寧に花の根元を切っていくんだろうけど、株や球根を太らせるために花、結実に栄養が回らないためにドンドン花の部分だけを摘んでいく。
この様子がちょと不穏な未来を示唆している感じにも思いました。楽園の花をガンガン摘んでいく=少年二人の花咲く未来、青春を無慈悲に摘んでしまう出来事が待ち受けている…そんな感じ。
そしてやはり花といえばフェミニンなイメージ。
しかし土にまみれ力仕事も多くある農業はマッチョなイメージもある。
花卉栽培というこの両性のイメージがある仕事をレオにさせるのも意図があるようにも感じます。そういう既存の職業に対しても性的ラベリングが存在していることを指摘しているのかも。
そしてラストでは同じ花畑をレオ一人が走る。
以前は二人で前だけを向いていたのに、今は傍らにいないレミのことを想い、振り返る。
季節は進み、また花が咲く季節。時間は無慈悲に流れ進んでいく。
少年は痛み、苦しみ、喪失感を経験し、時々振り返りながら、それでも前に進んで行かないといけない。ただ前を向いていれば良かった少年時代から後悔と共に生きていく大人へと否応なしに変化せざるを得ない。それをシーンの違いの対比で表現していたのではないでしょうか。
アイスホッケー
レオが男らしさを求めるために始めたと思われるアイスホッケー。
これは絶妙なスポーツを持ってきたなという印象。
氷上のスポーツでもフィギュア・スケートなんかは最もゲイゲイしいイメージ(スポーツにも性別ラベリングありますよね。シンクロ、新体操、ラクロスなんかも女性スポーツのイメージだったり)。一方アイスホッケーは氷上の格闘技と言われるくらいマッチョなスポーツ。
このアイスホッケーというのが、レオがレミに対して冷たい態度を取り始める時期と重なるんですよね。その氷のように冷たく硬化していく態度。二人の関係が冷えていく。上手いメタファー。
そしてレミを失った後、レオが一心にアイスホッケーに打ち込む姿も描かれる。氷上でもがく彼の姿は、掴みどころがなく冷え切った彼の心の現状とシンクロするかのようでした。
さらには全身を覆うプロテクターとヘルメット。
男社会で生きていくために厚い鎧を纏う。ヘルメットにも鉄格子のような部分がある。男社会ホモソーシャルの檻に囚われてしまった、自由な心を閉じ込めてしまった少年という意味も感じさせますよね。
オーボエを吹く少年
これはかなり深読みすぎる意見だとは思うんだけど、レミはゲイである自覚が芽生え始めていたんじゃないか?というのがこのオーボエを吹くというところで示唆されていたのでは?と思ったり。
私は最初、この二人はまだまだ自分のセクシュアリティ、セクシュアル・オリエンテーション(性的指向)は未分化の段階で、全く意識してないんだと思っていました。それが周りからの影響で無理矢理分化・発達させられ、歪に発達を促されたことによって起こった悲劇…そんな風に感じていました。
しかしよくよく考えると、レオの方は上記したように性に対して未分化だったとは思う。
でもじゃあレミは?
レミは女子たちから「カップルか?」と訊かれた時もレオのように懸命に否定することもなく黙っていた。
そしてレオのようにマッチョにならなければという強迫観念に囚われることも無かった。(アイスホッケーもレオがしてるから自分もやろうかな?というぐらいだったし)
これは彼は薄々自分の中にゲイ的な要素があること、レオを性的にも意識し始めてることに気が付いていたからではないだろうか?
レオがレミをモデルに絵を描く場面。レオはいつも通りに無邪気に大きな目でレミを見つめるんだけど、見つめられるレミにはこの時既に羞恥心と思われる物が垣間見えるんですよね。見つめ返せないで視線を逸らし気味にしている。これは彼が意識し始めたということを示唆するために挿入された場面だったのではないかと。
そう思って振り返ると、彼はオーボエを吹く少年なんですよね。
偏見だと言われるかもしれませんが、ゲイが芸術分野に関心、才能を発揮する傾向が往々にしてあるのはよく言われること。発表会でソロを任されるほど彼はオーボエが得意なキャラ設定。
そしてなぜオーボエなんだと考えた時に、超ゲスい連想をすると、笛=男性器と捉えられるわけです。口淫、オーラルセックスはBlow Job。Blow=吹く。この隠喩はゲイ監督ならではといった感じ。さすがに子役たちにその辺のことは語ってないと思うけど(;^_^A。
そしてこれは監督がどこまで意図したかはわかりませんが、レミは変声期を迎え始めている感じなのに対してレオはまだ声が高くて変声期前。ここに二人のズレがあったのを考えると、レミはレオより少し進んでいる。セクシュアリティに関しても少し早く意識し始めていた可能性を感じます。
そしてレミがゲイだと認識し始めていたとしたら、彼が自殺するという極端な選択も多少は理解できるようになる。
最初は、性が未分化の段階の子供が自殺するまで追い込まれるものだろうか?と少し違和感がありました。しかし彼がレオより先に思春期に突入していて、ゲイである自覚が芽生えていたら…LGBTQの自殺率の高さはよく言われることで、レミの選択もそこまで不思議ではなくなってくる。
とはいっても、あくまでも匂わせというか、隠されて文脈に埋め込まれている程度。レミがゲイだとは一切明言はしない。この映画にとってその部分は重要ではなく焦点は社会の圧による関係性の破壊と痛みだから。そこを明言してしまうと特殊化してしまう可能性がある。あ~ゲイの話ね、と。しかしこの痛みはもっと一般的なものであるはず。誰もが持ちえた痛みを考えて欲しい監督の意図からそこは敢えて明言しなかったんだと思う。
タイトルの「CLOSE」とは
この映画は前半と後半で二章仕立てというか、別の映画といった趣があります。監督自身もそう言ってました。
(海外掲示板読んでたら、その転換点で劇場を後にする人もいたとか。まあそれも分からんでもない)
前半は二人の少年のCloseness親密さに焦点を当ててる。
(CLOSEは形容詞として近い、親密等の意味)
その親密さから事件が起こるまでを描いている。
そして後半はレオがレミを失ったことで苦しむ様子、喪失感と向き合う様子、悲しみを癒せる相手を求める様子などが描かれる。
もちろんその苦悩に終わりはないのかも知れないけど、それでも最後、彼は前に進んでいくしかない。
ということで後半はCLOSE=閉じるの意味、名詞化するとClosure=終結、終焉ということだったのではないかとも思うのです。
楽園の終焉、少年時代の終焉を意味していたし、
悲しみに一段落付け、一旦終結させ前に進むというラストシーンだったようにも思える。
まあ監督のインタビューではCLOSE=終焉ということは述べられてなかったですが。
監督がインタビューでタイトルについても話していたことは…
「CLOSE」というタイトルは編集段階でタイトルが決まったそう。
映画作りとは作品を3回作ることをするんだと。脚本を書くのが一回目、撮影するのが二回目、編集作業で三回目。その編集作業中にポッと浮かんできたと。
最初に思いついていたタイトルは
「WE TWO BOYS TOGETHER CLINGING」
雑訳すると、「僕たち二人の少年はお互いにしがみついている」といった感じ。
これはアメリカの詩人のWalt Whitmanの詩のタイトルから。
又はその詩からインスパイアされて描かれたイギリスの画家David Hockneyの絵画のタイトルから付けられていたんだそう。
(ちなみに二人ともゲイ。ウィットマンはカミングアウトはしてなかった思うけどゲイだと言われているし、多くのゲイ作品に影響を与えています。映画「The Whale」でもウィットマンの詩が使われていました)
ホックニーのこの絵は二人の少年がトイレの前、グラフィティ(落書き)だらけの壁の前でClinging=しがみつくように抱き合ってキスしている様を描いているそうです。
それまでの彼はもっと写実的な絵を描いていたが、もっと自由に、もっとありのままにと、子供のような筆致でこの絵を描いた。彼にとっても重要な転換点になった作品のようです。描いた時期は1961年。まだ23歳で王立美術学校に在籍している時。英国ではホモセクシュアリティが罪になる時代(1967年に合法化する前)。この絵によってカミングアウトしたと言っていい作品なんだそう。
一方のウィットマンの詩も載せておきます。
この元のタイトルを知ると、映画のポスターでレオがレミにしがみついてるビジュアル(トップ画像)はさもありなんといった感じですね。ちゃんとこのタイトルの名残を残していたんだなと。
Grief Careグリーフ・ケアについて
映画の後半、レミの死後以降の話はレオのグリーフ・ケアについての話だと感じました。喪失とどう向き合えばいいかわからない少年の心の動きをまるでドキュメンタリーのように追う。
Griefとは…(死別・後悔・絶望などによる) 深い悲しみ
最近では死別後の悲しみにどう対処するのがいいか?という研究や対処法が確立してきましたが、まだまだ世間的な認知は低いのかなと思います。
私も幼少期に兄と死別しました。
でもその頃はグリーフ・ケアなんていう概念さえなく、親は自分達の悲しみに折り合いをつけることに手一杯。まあそれは仕方無いことだとは今では理解できます。理解はできるのですが、やはり子供の私の悲しみについて誰一人ケアしてくれる人もいなかった状態だったことは、その後の私の人としての形成過程において少なからず影響を与えたことは否定できないです。
映画の中でも、レミとの死別でレオが受けるインパクトの大きさを考えると、レオの親ももう少し彼から目を離さないようにして欲しいなとちょっとヒヤヒヤしながら観てました。衝動的に後追い…なんてことも起こりかねないので。
日本グリーフケア協会のHPを見ていたら、まさに映画の中のレオの反応と同様なことが書かれていました。
レオの身体的な反応、眠れなくて(不眠)兄のベッドにもぐりこんだり、おねしょ(自律神経の乱れ)をしてしまったことなんかは当て嵌まるように思います。
心(精神)的な反応は、クラスでのグリーフケアでセッション中に怒りが抑えられなくなったり、感情をどう処理していいかわからずに暴れ出し母親に抑えられたり、無表情で感情表現が激減していたり、孤独・寂しさで兄のベッドにもぐりこんでいたり、罪悪感、自責感でレミの母親に謝りたい気持ちと恐怖の気持ちで板挟みになっていたり、アイスホッケーの練習も無力感、集中力の低下で身が入らなかったり、上記のリストにある多くの症状に陥っていたように見えました。
行動の変化の欄でもレオの行動と重なる。
黙々と花畑での仕事に打ち込んで意識を悲しみから遠ざけていたし、
レミの家に訪れるのもしばらく経ってから。最初は怖くて距離を取っていたけど、やっと訪れた時には部屋が見たいといって愛おしそうにレミの所有物を眺め触っていた。腕のギブスをはめるときに涙が止まらなくなったり、まさに上記の内容と合致する。
腕のギブスの時の涙については、あの時点(多分事件から数週間から数か月経っている)までレオはちゃんと泣けていなかったんですよね。
自分自身の悲しみを処理できていなかった状態がず~っと続いていた。
そこに腕がポキッと折れたのと同時に、ずっと張り詰めていた心もポキッと折れてしまった。あの瞬間、腕の痛みが心の痛みとリンクして、アッ、俺、心も痛かったんだと漸く理解し涙が止まらなくなったのではないでしょうか。
あそこで自分の心の痛みを認識できたからこそ、その後のシーンで兄のベッドにもぐりこみ背中越しに「I miss him」と初めて他人に悲しみを表出できたことに繋がった。
グリーフ・ケアの回復への段階として先ほどの協会HPで書かれていたのを見てみると、
レオは兄に悲しみを打ち明けて回復への2段階目まで来た。
次は信頼できる場での心の解放。人の助け、力を借りて悲しみを軽減しようとした結果が、レミの母親との対峙、懺悔、告解。
レオは罪悪感、自責の念を少しでも軽減したくてレミの母親に自分の罪を告げる。物凄い勇気がいったと思う。しかしレミの母親にとってそれが如何に残酷なことかまでは考える余裕はなかった。
彼はレミの母親との悲しみの共有、連帯することで痛みを軽減させたいというのがあの衝動的な告白でもあったと思います。それは意図してというより本能的な無意識の心の動き。
しかしレミの母親から拒絶され、ショックと絶望で森に逃げる。
レミの母親が後を追ってきた時に木の棒を持って威嚇?していたのは、救いの扉を閉ざされ追い詰められた窮鼠の心情だったのでしょうか。
レミの母親がすぐに追いかけて抱きしめてくれたのは救いでした。
彼女もまだレオの告解に対して心の処理が追いついてないはず。咄嗟に「出ていって」と言ってしまった。しかし追い詰めてしまったレオを、追い詰められてしまったわが子と重ねて、助けなければとすぐに行動に移した。
ここで悲しみを共有でき、レオのグリーフ・ケアはさらに一歩進んだように思う。悲しみの共有というのは大事ですね。お通夜とかで個人の昔話を共有するのとかもグリーフ・ケアの一環だったりしますし。
ウチの家族も兄が死んだとき、個人だけで悲しみに囚われ続けるのではなく、もっとお互いの悲しみにも目を向け、共有し、癒し合える関係にあったら、その後のさらなる不幸は減らせたかも知れなかったのに…。
そういう悲しみの共有作業をもっと繰り返し行えられればレオの回復はより進んだんでしょうけど、レミの母親は耐えられなかった。頭で理解できても心はまだ拒否反応を示す。以前と同じようにレオを愛することも見ることも出来なくなってしまった。距離を置き、時が過ぎ去るのを待つ…仕方のない選択だと思います。いつか、大人になったレオと再会してお互いに労わりあえる関係になれたら…と願うばかり。
ちょっと映画「エゴイスト」の龍太の死後の浩輔と龍太の母を思い出しました。かつてはもう一人の息子だと思ったレオのことをいつかまた抱きしめてあげてほしい、または心も成長した大人になったレオがレミの母の心を癒す側になってあげて欲しいなと。
この映画後半でのちょっと不満点というか、個人的に残念だと思う点は、レオの周りの大人たちのホッタラカシ感でしょうか。そこにちょっとモヤっとしました。両親、教師、医療従事者のレミの母、誰かがグリーフ・ケアの知識を持ってレオにもう少し干渉してもいいのに、というかして欲しかった。
欧米ではもっとその辺りの認識も高そうなのにスルーして、悲しみに暮れる少年の悲劇性に焦点当ててお涙頂戴路線へ偏り過ぎた気もしないでもない。
最後に
この映画でもう一つ好印象だったのは、一定のペースで淡々と場面が進む点。1つの場面をことさら長く引っ張らず(いくらドラマチックなシーンでも)ちょっと物足りないぐらいのところで次のシーンに移行していく。大体3~5分ぐらいで次のシーンに変わっていくような印象でした。
この淡々と進むペースが、レオの時間の流れ、自分の考えや気持ちの整理が付かないままに、それでも時間は無慈悲に流れていく様子をイイ感じで表現していたように感じました。
特に13、14歳の思春期の頃って、確かに色んな想いや感情を処理できないままどんどん環境が変化したり時間が過ぎていく…そう、あの感じが、レオ視点の映像故にあのテンポがすごくマッチしていた。編集で物語のテンポを制御する…それも思春期の少年の時間の速度にシンクロさせる、監督の手腕が光った部分だと思います。
ということで、勝手な星評価をさせて頂きますと、
10点満点で ☆8.2 ぐらいでしょうか。
監督の言う”社会圧によって切らされた絆への痛み”がテーマであるなら、もっとそこに焦点を当てた作品にも出来たような気がする。後半の部分がそこの痛みとは違う”死別の痛み”に変わってるのでテーマがブレてるような気がしないでもないです。
そして後半の死別の痛みも、先述した周りの大人のホッタラカシ、ケアについての掘り下げの無さがちょっと気になったので-2点。+0.2は子役たちの演技の良さにオマケをあげたくなったからwww。
でも暗くなりがちなテーマを扱いつつも、視聴後感は案外清々しい。レオと一緒にグリーフ・ケアのプロセスを疑似体験させた貰ったからでしょうか。
ラストシーン手前で骨折のギプスも外し、身体的傷と同様に心の傷も癒えてきていることを暗示していたようにも思えて、レオは大丈夫だろうなというポジティブさを感じさせてくれた。そういう意味では後味もそれほど悪くなく、非常に上手く出来た映画だと思います。