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読書感想文「海岸列車」宮本輝・著

自分の文章力があまりにもなく、言いたいことを的確に表現することが出来ないのを痛感することが多いので、読書感想文など、少しでも何か書くことを試みてみようと思います。

ということで、最初は、最近読み終わった、宮本輝の「海岸列車」

文庫本の表紙が、なんかいいな、と思ったので手に取りました。
女性が海岸?で椅子の上に立ってる絵。
上巻が横向き、下巻が正面を向いて立っている。

文庫本の初版が2015年だったので、てっきり新しい小説かと思いきや、
連載されていたのは1988.8~1989.2。
昭和の終わりから平成が始まった頃ですね。
1989年に単行本化、1992年に文庫化と書かれていたので、2015年の文庫化は再文庫化?というのでしょうか。
確かに携帯電話は影も形も出て来ないのですが、話自体はそれほど古臭いとも感じず、私的には面白かったです。

*****

あらすじは、手塚かおり、手塚夏彦の兄妹、そして戸倉陸離という3人を軸に描かれます。

かおりは、最近伯父が亡くなり、彼から引き継いだ”モスクラブ”という有閑マダム向け文化サロンの経営者に就任したての、悩める25歳。

兄・夏彦は、かおり同様、モスクラブでの役職を約束されていたにも関わらず、年上女性のヒモというか、ジゴロのような生活をしており、高木澄子という年上の未亡人との関係が物語の半分以上を占めます。

そして、戸倉陸離は妻子持ちの国際弁護士。彼がかおりと仕事を通じて恋愛に近い関係になって行くのと同時に、彼の留学時代の友達との縁から、夏彦をも巻き込んで物語は意外な展開をしていく…というお話です。

*****

宮本輝氏によるあとがきで興味深いところを抜粋すると、

ー”人間の拠りどころ”について考えてみようと試みた小説である。
ーもうひとつの作者の”つもり”は、昨今の男女の、下半身のだらしなさに対して、少々腹を立ててみたいという点だった。
まるでひとつのファッションであるかのように不倫とやらに走って、いい気分にひたっている。
「不倫てのは、命懸けでやるもんだ」と、時代にはずれた老人みたいにぶつくさ言ってきた。
ー人間には”幾つかの大切な振る舞い”があると考えているにすぎない。
ー”人間の拠りどころ”と”振る舞い”をレールとして「海岸列車」を最後まで走り続けさせることとなった。

人間の拠り所”。この小説では、かおりと夏彦の”心の拠り所”であった鎧駅

ちょうど私自身も今年、城崎まで温泉巡りに行ったとこだったので、その先、鳥取方面、余部鉄橋のある方向に向かうと、そんな駅があるんだと、まずは興味を持って食いつきました(笑)。

鎧駅は、二人を捨てた母親が住んでいるだろう海辺の集落の駅。
二人とも何度か駅までは訪れるが、それ以上、母親を探すことも、海岸まで下りることも出来ないで帰ってきてしまう。

別に、過去に特別いい思い出があった訳でもない場所が、どうして拠り所になりえるのか?鈍い私には今一つピンと来ませんでした。
捨てられたとはいえ、やはり母親というものに頼りたい、拠り所にしたいから、鎧駅=母親として、二人の中で形作られていったということでしょうか?

しかし、実際の母親に会うことはしない。それは怖かったから。
自分たちを捨てたという事実がある。実際にあった時、勝手に作り上げている拠り所としての母親像が崩れるかもしれない。それによって拠り所を失うかもしれない。それが怖かったから、駅から先に行けずに帰ってきてしまっていたということでしょうか。

<ネタバレ>
実際、最後の最後で二人は母親に会いに行く。しかし顔を見ただけで、もう何か吹っ切れたように、殆ど話すことなく、すぐに電車に乗って帰ってくる。

あの時点で、二人はもう、拠り所が要らないと悟ったから、帰ってきたのだということだと思う。かおりはモスクラブでなんとかやって行く自信が出てきたところだったし、夏彦はアフリカで新たな人生に賭けるところだった。拠り所がいるような不安定な精神状態というより、前を向いて進もうと思っている、積極性に満ちている状態だった。

加えて、母親の人間性が、その人生が刻まれた顔からもわかるほど二人は成長し、これ以上知ることは野暮というか、たぶんこれ以上深入りしたら、母親の見ないでイイものまで見え始めてしまうのがイヤだった、ということもやはりあったのかもしれない。

*****

宮本氏のあとがきにあった

「下半身のだらしなさに対して、少々腹を立ててみたい」
「不倫てのは、命懸けでやるもんだ」

これが、この物語を逆に面白くしてくれた気がします。とりわけ私にとっては。

上巻の最後の章で、かおりと戸倉陸離が不倫関係に突入しそうな雰囲気がビシビシ感じる流れになって行った時、私は読むのをしばらく止めてしまいました。

なぜかというと、小説とかって、とにかく不倫とかをドラマチックな出来事として描きがちじゃないですか?理性では抑えきれない感情の高まり!みたいに。そして、それをあたかも正当化するというか、カッコイイことのようにしたりとか…。もうそういうのに辟易していたというか、またそんな流れなのかなぁ~、そこにおける葛藤はないのか?単に自己中なだけちゃうの?…なんていうのが前面に来ちゃって、読む気が起こらなかったのです。

しかし、チラっとあとがきを読んだら、作者は不倫に対して怒ってる(笑)。
オッ、これはそういう流れにならないんだ、じゃあ面白いかも?ということで読み進めたら、まあなんというか、不倫関係にならなかったらならなかったで、どこかぎこちなさというか、気まずい雰囲気が最後までつきまとって…う~ん、これはこれでいいのか?と、自分の中のモヤモヤが存在するのを感じて、変な気持ちになってます(笑)。

そんなキスまでしといて、そこで止めれるもんですかね?(笑)
そもそも頭のいい人は、アッ、この人と深く付き合ったらマズいことになりそうだな…と察知した時点で、ある程度距離取るように心掛ける気がするんですよ。妻のいる家から深夜の1時に電話で長話とかあり得んでしょう(笑)。

ただ伯父さんの言葉を借りて、作者が言いたかったこの部分、

妻子ある男を好きになったりしちゃいけないよ。そんな恋も自由だが、それだけはいけないよ。俺は恋愛に関しての道徳をかおりに教えてるんじゃないよ。損得の問題でもない、つまり、男と女とは、生命の汚れ方や傷つき方に違いがあるってことを教えたいんだ、心の傷はいつか修復出来るが、生命の傷は、おいそれと治らないどころか、その人の新たな不幸の原因を作る

これには、なんとなく納得する部分があります。
”生命の傷”。心の傷ではなく生命の傷。
癒して治るものではない傷。

イノセントな子供が傷一つない鏡面のようなものだとしたら、
その鏡面に傷が付いていって、段々クリアに見えなくなっていく感じ。
自分のことも、周りのことも。
そして傷が付いたことによって、まっさらな状態より自分自身が自分のことをぞんざいに扱い始めてしまう、そんな感じなのかな?と。

自分のことをぞんざいに扱い始めてしまうと、そのうち他人のこともぞんざいになって行く。そうなるとどうなるか?それは幸せから遠ざかるということではないかなと。

人としての凛とした輝きが失われてしまう…
どこかしら翳りを落とすことになる。
そしてその翳りは、時にはその人物の魅力になることもあるだろうけど、その魅力に引き寄せられてくるのは、やはり翳りをもった人間が圧倒的に多いだろうということ。

日本人はちょうどこの頃から、何か大事なものを見ないようになっていった気が、私個人的にはします。

私が小さい頃、結婚相手はどんな人がイイですか?という質問に
「誠実な人」という答えをよく聞いたものです。

しかし、この小説が書かれた80年代~90年代のバブルの頃から、3高(高収入、高身長、高学歴)がイイなどと言われ始めました。

最初は面白半分で、半分揶揄も込めて、そういう人間の内面を無視した条件を挙げているんだと思っていましたが、メディア受けがいいのか、何度も連呼され、それが恥ずかしい結婚条件ではない風潮になってしまった。

その辺りから人間性を重視したり、人間性を見極めることを重視しなくなっていったように感じます。
人間性を見なくなっていくと、どうなるか?
それは人間性を磨く努力をしなくなっていく、ということではないかと思うわけです。

*****
ボウ・ザワナのペーパーナイフにまつわる話。コレがこの物語のなかでは一番興味引かれて、周長徳のカセットテープの独白のパートは熱くなって読み進みました。

伏線回収というほど張り巡らした伏線という感じでもない気がしたけど、でもこのペーパーナイフの存在が、登場人物たちの行動の原動力のようになっていて、影の主役といっていい存在だった気がします。

鎧駅はかおり&夏彦の心の拠り所でしたが、
ペーパーナイフは戸倉陸離、周長徳にとっての心の拠り所だった。

そしてペーパーナイフにまつわるところで興味深かったところは、
ケント・オコンネルとジミー・オコンネルが、最初アフリカで殺されかけて、なんとか一命を取り留めるが、結局14年後、香港で殺されてしまうというエピソード。

もちろん創作なので、そんなことあるのかどうかわかりませんが、宮本氏はそういう「逃れられない運命」というものがある、と、自分が生きてきた中で感じることが何度かあったのでしょう。だからこそ小説の中に落とし込みたかったのではないかと。

何か悪いことを過去にしたから、それがまわり回って返ってきたという話ではない。”自分の行動次第で運命は変えられる”なんてことも言われますが、それでも逃れられないもの…これは運命ではなく宿命?なんかその”さだめ”というものの空恐ろしい感じ。人間が抗っても飲み込まれる大きな力。でもそういうものってあるんだろうなとも思います。

「運の悪い女になってはいけない」
伯父さんからかおりが言われた言葉。
この運も、上の運命と掛かってきているのだろうか?
自分の輝きを失って、運の悪い人間になってしまうと、簡単に運命に飲まれてしまう。輝きがあれば、もっと自分主導で運命を導ける…的な意味があったりするのだろうか?

25歳のかおり、28歳?の夏彦、この二人から人生哲学的な言葉が出てくるのはちょっと違和感がありました。哲学を導かせるほどの人生経験、まだそれほど積んでないだろうに…。と。なので、著者の宮本氏の人生哲学を、主役二人に語らせてる感がスゴイあるんですよね(苦笑)。

でも読者としては、うん、ナルホドな、と思うような、ちょっと手帳に書いておきたいような言葉が沢山ありました。

「人は不幸からだけ学ぶのではない、不幸と幸福の二つの谷間から何かを汲み上げるのだ」

この”何かを汲み上げる”という表現がいいな、と思いました。
「禍福は糾える縄の如し」はよく聞くけど、その編み目から何かを汲み上げろとは言ってない。”その先”を示してくれる言葉だと思いましたね。

ボウ・ザワナのペーパーナイフに刻まれた言葉
「私利私欲を憎め。私利私欲のための権力と、それを為さんとする者たちと闘え」
ビルマの元貴族の家に伝わる家訓。
しかし、これは宮本氏の強い想いなんだろうな、という気がした。

私利私欲のための権力と、それをなさんとする者たち…
今の政治家の顔がすぐ浮かんでしまう、悲しい現実。

その戦い方を示してくれるのか?と楽しみに読み進めていた部分もあったけど、結局それは示されることはなかった気がする。私が汲み取れなかっただけかもしれないが。
その戦い方の、せめてヒントだけでも、示してくれていたら、このペーパーナイフのくだりがもっと心の刺さるものになったのにな、と思わざるを得ない。そこが残念と言うか、消化不良な部分でしょうか。


最後に、
小説には色々なタイプがあると思う。
物語の展開の面白さで、次がどうなるか?とか、こういう展開するのか?と、ワクワク読み進めるようなタイプ。例えば推理小説とか、冒険小説とか。

しかし、この小説「海岸列車」は、ぶっちゃけ話の展開自体はワクワクするほどでもなく、面白いかといえば大して面白くもない。

ではどういう小説かというと、作者の思想、人生訓などを、物語を通して語りたいという小説なんだと思う。そちらへの比重が大きい。
それが響く人には面白いだろうし、響かない人にはつまらないものになる。

私個人としては、そういう人生訓に頷けるものも多かったので、楽しかったし、イイもの読んだ、教えて貰った、考えさせられた、ということで読後感も良かった作品でした。




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