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「百年の孤独」の作品背景を学ぶと色々わかった話

ガルシア・マルケス「百年の孤独」を読みました。作中の色々な摩訶不思議エピソードに驚いたり、魅了されたりしつつ、これは現地コロンビアの文化的背景が作品にどういう影響を与えたのかが気になりだしました。

前記事では各登場人物の名前から、名前とキャラが持つイメージの共通点を探ってみました。

今回は、ガルシア・マルケスと友人でもあった著者が作品世界を歩き、関係者に話を聞いたことをまとめた本、田村さと子著「百年の孤独を歩く ガルシア・マルケスとわたしの四半世紀」を読んでわかったこと、見えてきたもの、感想なんかを中心に書いてみたいと思います。

この本、凄く面白いので、作品世界をもっと知りたい方は是非読んで欲しい一冊です。


「百年の孤独を歩く」が教えてくれた謎の答え

「百年の孤独」は日本人の私からしたら突拍子もない出来事が起こったり、夢物語のように思える部分がある不思議な物語でした。しかしガルシア・マルケスはこう言っている。
「私の書くことは実際に存在している。私の目に映ったものの中から抜き出している。だから、私の作品はどの一行をとってもカリブの現実に根ざしている」と。

フィクションのようだと思っていたことが実はノンフィクションなんだと。勿論多少演出したり、盛ってる部分はあるはずだけど、それでも元ネタは彼が生きてきた中で見てきたものや、聞いてきたもの。そういうものを一つの物語に再構築した。それが「百年の孤独」なんだと。

著者の田村さんはコロンビアに何度も足を運び、彼の家族からの証言を得て、色々なエピソードの裏付けを取ったりしている。なので、あのエピソードは本当にあったんだ!とか、あのエピソードはこういう背景から作られたんだ!とわかって、本当に謎解きしてくれているようで面白い本でした。

ということで、私が感心したいくつかをご紹介。

架空の町「マコンド」は存在した!?

「百年の孤独を歩く」によると、物語の舞台、架空の町マコンドのモデルになったのは著者ガルシア・マルケスの出生地であるAracatacaアラカタカという町であるとわかる。

下の地図の黄色で記したバナナ農園の下あたりにアラカタカがあります。

赤い矢印で示したのは彼の祖父が移動していった経路です。

年の為、上の地図はコロンビアのこの印ついてる左下あたりです。印ついてる所がグアヒラ半島

ガルシア・マルケスの祖父はバランカスという町に住んでいましたが、そこで愛人の息子と決闘をし殺害してしまう。結果リオアチャで収監されるが親族からの復讐を懸念してサンタ・マルタの刑務所で一年服役する(←殺人でたった一年!?😲)。刑期を終えてからサンタ・マルタの南シエナガ、そしてさらに南のアラカタカへと移り定住する。

おそらく祖父が最初に住んでいたバランカスがホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランが最初に住んでいた村のモデル。決闘の末、殺害もしてますしね。

ただ祖父は海沿い経由でアラカタカに辿り着いたのに対して、ホセ・アルカディオ・ブエンディア夫婦は山越えをしている。Netflixドラマ「百年の孤独」でも険しい山を越えて、途中でロバが崖から落ちたりしてました。
この最初の地図にもある山がクリストバル・コロン山(コロンブスから名付けられた)といって、何と標高5700mもある超高い山なんです。山頂には万年雪があるほど(赤道に近いのに)。南からのアンデス山脈からは切り離されている独立した山のようです(プロミネンスとしては世界五位)。このクリストバル・コロン山の頂上を避けつつ、北か南の山岳ルートを越えて、辿り着いた場所がマコンドのモデルとなったアラカタカ辺りということです。

ガルシア・マルケスの祖父がアラカタカに着いた頃は原住民の質素な建物に住んでいたらしい。そこから次第に発展していき、石造りの建物になり、ガルシア・マルケスの生家は現在、彼の博物館になっている。彼が小学校の時に公立小学校が4校あったらしいので、町の規模は結構大きいものだとわかります。つまり彼の祖父の時代はまさにホセ・アルカディオ・ブエンディアがやって来て集落を創建したような時代と近いものがあった。ガルシア・マルケスが幼少期を過ごした頃は「百年の孤独」の世界だと線路が敷かれて汽車がやってきたくらいか、バナナ農園が大隆盛していた頃。つまりアウレリャノ・セグンドの時代ぐらいには繫栄していたのではないかと想像します。

上の地図に黄色いマルで記した、この辺りが低地の湿地帯で、広大なバナナ農場が出来ることで発展していった。ホセ・アルカディオ・ブエンディアとその仲間たちが何日も彷徨っていた湿地帯がこの辺りということになります。

そして驚いたのは、実際にアラカタカの北の方、黄色いマルのある辺りに、「マコンド農園」という名の農園があったらしい。その名前をガルシア・マルケスは憶えていて、響きが気に入り小説内の架空の町の名前にしたんだそうです。のちに詳しく調べてみると、その農園の真ん中あたりに”マコンドの木”という木が植えられていて、農園の名前がそこから取られていたことがわかる。マコンドの木とはパンヤの木に似た熱帯地方の樹木。(パンヤの木はカポック、または写真を見るとパキラっぽい葉っぱの木)

調べてみるとマコンドはアオイ科の樹木で、wikiにあるこの木の模様。
Cavanillesia platanifolia カバニレシア・プラタニフォリア
確かに別名としてマコンドと書かれている。(リンク先で画像も見れます)
コロンビア周辺の中南米の低地の熱帯雨林の中で生えていると書かれているので、その農園にあった木で間違いなさそうです。

アオイ科ということで芙蓉とかハイビスカス的な大きい花を付けるらしい。コロンビアの名産であるカカオもアオイ科なんだそう。

今回、ネトフリドラマ「百年の孤独」を観ていて、凄く気になったのはブエンディア家の中庭にど~んと植わってる栗の木。ホセ・アルカディオ・ブエンディアががくくり付けられる、あの木です。

from Netflix 「百根の孤独」

コロンビアと日本では栗の種類も勿論違うとは思うけど、それでも全く栗の木には見えなかった。まず葉っぱがトチノキみたいに大きいし、樹皮も栗はもっと黒っぽくひび割れてガタガタしてる印象だけど、あの木は灰色っぽくて凸凹が少ない滑らかな感じ。そして根も板のようになった板根気味だし、栗の根があんなふうになるのかは疑問。

庭木図鑑 植木ぺディアより 「栗の木」の幹

それで思ったのです、もしかしてこのドラマの木は”マコンドの木”なのではないか?と。
マコンドと言われるカバニレシア・プラタニフォリアの葉を見てみると確かに似ているし、熱帯で板根になる気をググったら、サキシマスオウノキというマコンドと同じアオイ科の木が出てきた。ただ樹姿はもっとスラっと高くなる感じなのでそこは少し違うのだけど…。

ということで、ドラマ製作スタッフは”マコンド”の真の意味を調べた or コロンビア人にとっては常識で知っていたので、この物語で一番象徴的なこの木を限りなく”マコンドの木”に似せてセットを作ったのではないか…と思ったのでした。

とにかく、マコンドという町は、確かにガルシア・マルケスの想像した架空の町の名前ではあるけれど、全くの創作ではなく、当地の自然や文化、歴史的背景からのインスピレーションによって創造された町なんだということがよくわかったのでした。

ワユー族

作品の中で出てくるリオアチャやマナウレはグアヒラ半島の根元辺りにある(先ほどの地図参照)。その半島周辺に住む原住民がワユー族。スペイン人たちはグアヒラ族と呼んだそうで、「百年の孤独」の中では使用人としてやってきたビシタシオンとその弟のカタウレグアヒロ族グアヒロ語を話す。それで彼らが世話をしていたアマランタとアルカディオがスペイン語よりもグアヒロ語を話すというエピソードがありました。
(「百年の孤独」ではグアヒロ、「百年の孤独を歩く」ではグアヒラ表記になってます)

このワユー族の話が作品世界に色々と影響を与えているらしい。
ガルシア・マルケスの母方の祖父母がこの地方出身で(おそらくワユーの血も入っている)、彼はこの祖父母に育てられる中でグアヒラ文化を継承し、自分の文化的アイデンティティがグアヒラにあることに気付くようになったんだそう。

あと、ガルシア・マルケスの幼少時、家ではレメディオス、ビシタシオン、ルシアという三人のワユー族の使用人がいた。彼らからワユー族の物語や迷信を聞いて育ったらしい。この部分がアマランタと独裁者アルカディオがグアヒロ族のビシタシオンに世話してもらい、グアヒロ語しか話さなかったという部分の元ネタであろうし、彼らから聞いた物語や迷信が、祖父母の影響に加えて、おそらくかなりのインパクトを彼に残したんだと思われます。

マルケスの回想録に
「一族の構成員が侮辱を受けたら、侮辱した一族のすべての男子はその侮辱のつけを支払わなければならない。それがグアヒラの掟である」
という記述があるのだそう。
実際に彼の祖父も1908年に決闘の末、相手を死亡させてしまい、その結果、その殺した相手の一族からの復讐を逃れるためにアラカタカというところに移った。

これはホセ・アルカディオ・ブエンディアがプルデンシオ・アギラルと決闘して殺してしまい、その後マコンドに新天地を求めたエピソードの下敷きになっている。一族からの執拗な復讐という恐怖心(あと殺人を犯した罪悪感も)を、物語ではプルデンシオ・アギラルの亡霊という形で表現した…ということなんでしょうね。

あとワユー族にとって”夢”は非常に重要で、過去を秩序付け、未来を決定するものとして考えられている。

「百年の孤独」の中でも、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが旅の途中で「鏡の壁をめぐらした家が立ちならぶにぎやかな町が、この場所に建っている夢をみた。ここは何という町かと尋ねると、マコンドという…」とあるように、夢を未来のお告げとみなし、そこに町を作ることを決めたりしている。これまたワユー族の影響を垣間見れる気がします。

レベーカの謎


物語序盤で私的に最も謎めいた存在だったのがレベーカでした。土は食べるは、両親の遺骨が入った袋は動くは、謎の伝染病は流行らせるは、ただものじゃない!www

その一部はワユー族の埋葬の習慣から謎が解けました。

ワユー族の埋葬の習慣の流れはざっとこんな感じだそうです。
誰かが死ぬ→遺体を洗って乾かされ衣類を着させる→通夜→女たちは交代で泣き女を演じる→男たちは酔っぱらって大声で会話をしないといけない→埋葬して第一の葬儀は終了→最低でも三年後経ってから第二の葬儀→掘り返して骨をきれいにして再び埋葬→その際に「遺骨の整理」をする。粘土の骨壺もしくは布袋に入れ、母系一族の大きな骨壺に移す→第二の埋葬の責任者が骨を触るから手袋と出来るだけ絶食しないといけない→それをしないと骨を通して伝染病に罹ると言われている→この伝染病は悪魔の目に見られることが原因だから護符を付けないといけない。

レベーカは父母を亡くしたと言われていたので、葬儀をして喪に服していた。それでブエンディア家に連れて来られた時に黒い服を着て黒いリボンをしていた。さらにスカプラリオという護符も付けていた。そしておそらく彼女が葬儀の責任者であった可能性が高く、両親の骨を触るために絶食していたからブエンディア家でも最初なかなかご飯を食べなかった。しかし絶食期間が短かったのか、骨を触る際に手袋をはめなかったのか、彼女から不眠の伝染病が流行っていった…ということらしい。

このワユー族の葬儀の一連の流れを知っていると、レベーカの行動はむしろそれに従っているだけで、何らおかしいことをしている訳ではないことがわかる。ただ私たちが知らないというだけ。おそらく海外の人が日本のややこしい儀式などを見聞きしたら、同じような謎めいた感覚に陥ったりするのでしょうね。何々したらバチがあたるとか、鳥居の真ん中を歩いてはダメとか。でもひとつひとつ、なぜそうなったかを説明されたら、案外納得出来たりするんじゃなかろうか?

私的にもうちょっと詳しく知りたいなと思った点は、レベーカはこの風習を守っていたならワユー族(グアヒロ族)ということになる。しかしブエンディア家で家族の一員として受け入れられる。一応遠戚らしいけど確かな証拠もない。一方で同じグアヒロ族のビシタシオンは使用人。後年に長年貯め込んだ給金をウルスラに使って欲しいと差し出すのでただ働きではなかったとはいえ、原住民、インディオはスペイン系の人々より階層が下なのかな?と思っていた。そもそもウルスラたちもどういう人種なのか今ひとつよくわからない。最初に入植してきたスペイン系の末裔なのか(フェルナンダはこの人種)、もともと住んでいたインディオ(グアヒロ族)の末裔なのか、それとも混血達の末裔なのか。グアヒロ族のレベーカが遠戚にいるなら、彼らもグアヒロ族な気がするけど、それならわざわざビシタシオンをグアヒロ族のインディオと区別して言う必要もないわけで…。その辺の人種間の微妙な区別やヒエラルキーが、現地の状況をしらないのでサッパリわからなかった。

16世紀からこの物語の舞台の19世紀までの200~300年くらいの間に、スペイン系×インディオ、インディオ×黒人、スペイン系×黒人など、当時のコロンビアではかなり混血も進んでいただろうし、妙なところは細かくて、妙なところは大雑把な、現地の人だからわかる独特な階級社会が形成されているんだろうな~とは想像しました。混血、インディオ、黒人はちょっと下に見ている感じもあれば、混血、インディオ、黒人だからこそ美しく魅力的みたいな表現もあったり。まあ容姿によって社会的階層が上がるわけじゃないけど…各グループが各々の基準を持っているからか、その共存の折り合いの付け方が日本人の私にはピンときづらいし、肌感覚で理解できないな…とは感じましたね。

フェルナンダが娘のメメとジプシーの末裔であるマウリシオ・バビロニアの結婚を反対したのも、おそらくこの階級の違いが大きな要因としてあったのでしょう。何代定住しててもジプシーは賤民扱いだったのか?そういう微妙なところがわからないんですよね。フェルナンダはスペイン貴族の末裔で、その文化を強く受けて育ってきたのでジプシーやロマの人々はいつまでも賤民という概念が強かったのだろうけど、ホセ・アルカディオ・ブエンディアなどのマコンドの人々にとれば、魔法や化学、他文明を紹介してくれるエンターテイナーであり科学者。尊敬することはあっても意味なく蔑む要素なんて無い人たち。こういう部分もコロンビアを構成する人種の背景を知っているとスッと理解できるのだろうけど、知らないと理由もわからないし、唐突な印象を持ってしまったりするんですよね。

もうひとつ、レベーカの最大の謎である”土を食べる”という行為。これは実際にそういう病気があるんだそうです。

土を食べるのは土食症、食べ物以外を食べるものを総じて異食症というそう。

異食症になる原因は以下のようなものが考えられる。
栄養不足:体が必要とする栄養素が不足していると、普段食べないものを摂取しようとすることがあります。
精神的ストレス:ストレスや不安を感じると、食べ物以外のものを口にする行動が見られることがあります。
病気や障害:特定の疾患や障害が原因となって、異食症のような行動が引き起こされることが考えられます。

レベーカの場合は2番目の精神的ストレスが原因っぽかったですよね。大人になっても結婚延期でストレスたまって土食が再開したりしてましたから。

土食症についてはこんな説明も…。

土や粘土を食べる行為を土食症といい、特定の土の味や食感を好む場合もあります。鉄分不足やカルシウム不足が背景として考えられることが多いものの、土には細菌や寄生虫、化学物質が含まれる場合があり、健康を害するリスクが高まります。

ミネラル不足…確かにカルシウムが足りないとイライラするっていうから、ストレスでイライラしてる時に土食べるのは理にかなった行動ではあるのか…って、牛乳飲めよ!って話ですけどねw。いや、レベーカが来た頃にはマコンドに乳牛がいなかったのかも?アウレリャノ・セグンドの頃には乳牛か肉牛か知らないけど牛は溢れていたんですけどねぇ…。

そもそもなぜ、ガルシア・マルケスがこんな土食症のエピソードを持ち出したかというと、「百年の孤独を歩く」によると、彼の一番近い存在だった妹のマルゴーが一時期土食症だったという衝撃の事実が本人の口から語られていました。そりゃ身近にこんな強烈なネタがあれば使いたくなりますよね。マルゴー的には超イヤだろうけど(苦笑)。

というわけで、レベーカの謎の数々も、蓋を開けてみれば全くの創作というわけではなく、ガルシア・マルケスが言うように彼が実際に見聞きしたことをベースにつくられていたということがわかるのでした。

まあ創作じゃなく事実なんだとわかってしまうと、ちょっとマジカルで不思議な空気が晴れてしまって、スッキリしたと同時に味気なく感じてしまう部分も無きにしも非ずですが…😅。

異食症で、最近たまたま見ていた動画の話。
最近、ニキビとか顔の角栓を取るという動画がおススメに出てくるとついつい見てしまっていたのですが(角栓が虫の幼虫みたいで気持ち悪ゥ~と思いながらなぜか見ちゃうw)、その流れで耳垢取りの動画にもハマリ、さらにその関連動画に出てきたのが手術で腸に詰まった髪の毛の塊を取り出すという動画。ラプンツェル症候群とか、抜毛症、食毛症とかいうらしく、食べた髪や布の繊維などが消化されずに塊になって腸を塞いでしまう病気なんだそう。毛を抜く病気までは知っていたけど、毛を食べて、それが原因で腸閉塞まで起こす病気があるとは知らなかったので驚きでした。

アウレリャノ大佐のモデル

「百年の孤独」が描く百年は大体1830~1930年辺りの時代に相当するらしい(コロンビアがスペインから独立を果たしたのが1819年)。その中でコロンビアは内戦を繰り返す。昔は大コロンビア共和国という今のベネズエラやパナマ、エクアドルを含む国だったが、中央集権と地方分権で対立して、結果それぞれが独立することになっていく。これが1830年頃。

それからも内戦は繰り返しつつ、1899年、コーヒー豆の価格暴落を期に、自由党系の農民が蜂起し、地主側の保守党との内戦が起こり、約三年続いたので千日戦争と呼ぶ。

その千日戦争の英雄であるラファエル・ウリベ・ウリベ大佐(Wikiだと将軍)の逸話と、同じく千日戦争に自由党支持者として参戦し、戦争の記録にそれなりに名を残しているガルシア・マルケスの祖父ニコラス・マルケスの話を融合して、アウレリャノ大佐像を創り出しているのだそう。
ガルシア・マルケスは大家族ゆえに幼少期に祖父の家で暮らしていた時期などもあり、おそらく祖父から戦時下の思い出話なども多く聞かされることもあったのだろう。そしてそれがアウレリャノ大佐の逸話のディテールに反映されているようです。

この戦争のエピソードで「百年の孤独」という物語にどういった意味を持たせたかったのか?

他の幻想的で不思議なエピソードの数々と対照的に、妙に生々しくて、物語全体のトーンと違う、別の物語が同時進行しているみたいで私的には最初違和感があった。千夜一夜物語と戦記物の話が交互にやってくるみたいな感じなので。

ただ、この一文を読んで納得できました。

”国を構成する二家族間のばかげた憎悪による血の報復という悪循環を、強制的に阻止しなければならない。また罪のない国民が、良心のない政治的に無知な指導者による操作の犠牲になっている構造を変革する必要がある。コロンビアの歴史の最初の百年は「連帯とは正反対」の孤独という結末に終わったーーーこれがこの本の核心なのだ、とマルケス自身が述べているように。”

「百年の孤独を歩く」P.42より

まずはコロンビアの建国からのおよそ百年と、ブエンディア家の百年を重ねているわけですね。そして当初は「西半球で最も古い民主主義国家」と呼ばれたにもかかわらず、百年を経て内戦を繰り返し、連帯するどころか色々な勢力が軍事化、ゲリラ化し、人々の心は疑心暗鬼と暴力と恐怖でバラバラになって孤独を深めていった。連帯どころか分断が進んだ。その”孤独”化したコロンビアという国、コロンビアの人々の心を、ブエンディア家の人々を通して描きたかったということなんだと。

ブエンディア家の人々も、最初マコンド創建の頃は仲間と連帯して協力的に町を発展させていた。しかし次第に各登場人物たちは色々な要素で孤独を抱え、孤独を深めていく。ビッグ・マザーであるウルスラが生きているうちはまだ家族としてのカタチは保たれていたが、彼女亡き後、そのカタチも崩れ始め、アウレリャノ・バビロニアの孤独が頂点に達したことで完全崩壊する。ブエンディア一族史は建国以来のコロンビア史でもあるということであり、彼らの姿はコロンビア人というか、人類が繰り返してきた姿であり、それを物語を通して浮かび上がらせ、風刺したかったと。ただの不思議な物語だけではない、強いメッセージ性がある物語なんだと、この一文を読んで視界が開けるかの如く「百年の孤独」の真意が理解できた気がしました。

バナナ大虐殺

マコンドでアメリカ資本のバナナ農園、バナナ会社が隆盛を誇る。しかし次第に労働条件の酷さから労働者が抗議し、デモやストライキを起こすようになる。そしてバナナ会社の現場監督であったホセ・アルカディオ・セグンドも巻き込まれた大虐殺が起こる。政府と繋がっている企業が軍の派遣を依頼し、虐殺の後も強引なプロパガンダで揉み消して貰った。

これは実際にあった話だと、訳者あとがきにも書いてあったし、「百年の孤独を歩く」でも、その虐殺が行われた広場を訪れ、レポートしてくれている。今では抗議の為にバナナを切り落とす山刀を振り上げた労働者の像が建っているらしい。
前掲した地図にあるシエナガ(沼沢地という意味)という町の駅前広場で1928年12月に起こった事件。

詳しくはコチラの方のnoteを読むとわかりやすかったです。

このエピソードの挿入も、祖父から聞いた母国の残酷な歴史を自分の物語に入れることで、政府の都合、プロパガンダなどで埋もれさせることなく、永遠に焼き付けること、そして人類が起こす蛮行の愚かさを多くの人に突き付け、考えて貰いたい、そういう意図があったのでしょうね。それでも歴史は繰り返され、天安門事件で抗議した若者たちもいなかったことにされたりしている。世の東西関係なく、人類というのは同じ過ちを繰り返し続けているんだなと考えさせられます。

灰の十字架

このエピソードに実際モデルにした出来事があったのには驚きでした。

先述したガルシア・マルケスの祖父ニコラスの誕生日に、戦争中にあちこちで身籠らせた彼の息子たちが額に灰の十字架を付けて現れ、まるで神秘的なエンブレムのようだったとガルシア・マルケスが回想録で語っているらしい。

灰の十字架、灰の水曜日については以下の説明を参照ください。

灰の水曜日は、キリスト教の教会暦で、復活祭(イースター)の前46日目の水曜日、つまり四旬節の初日にあたる日です。英語では「Ash Wednesday」と呼ばれます。
灰の水曜日は、キリストの苦難や受難を思い起こし、十字架の苦しみと死を心に刻む期間である四旬節の始まりを告げる日です。この日に司祭は、棕櫚(しゅろ)やオリーブの枝を燃やした灰を聖水で祝福し、信者の額に十字の印をつける「灰の式」という儀式を行います。これは、信者に死と痛悔を思い起こさせるために行われており、回心を表す旧約以来のしるしとして灰を頭にいただくことから「灰の水曜日」と呼ばれるようになりました。
四旬節は、洗礼の準備や回心、罪の償いといった性格を持ち、教会は主イエスの受難と死を思い起こし、自己中心から神と人々に向かう「心の転換」(回心)を呼びかけています。

勿論、灰の十字架をこすっても洗っても取れないという部分は創作でしょう。ただこの消せない十字架の意味が、「百年の孤独を歩く」の説明を読んでも私が鈍いからかピンと来なかった。コロンビアにおける教会は保守党の擁護者、つまり権力側。自由党支持者であるアウレリャノ大佐の息子である17人のアウレリャノたち=自由党支持者、革命予備軍、保守党の敵とみなされ、機会があれば根絶やしにするために印をつけたということ?(銃で撃つ時の目印の十字と重ねているという意見も見た)、もしくはたまたま印が付いた?教会の神秘の力のせいなのか(十字架を背負わされた?)、17人のアウレリャノたちが生まれながらに持っていた”死の運命”が偶々そういう形で現れたのか?(十字架を背負って生まれてきた?大佐も予知能力があったので彼らも自身の死を予知した?)、その辺りがよくわからなかった…。
それで大佐が再び反旗を翻しかねない発言をしたことで、おそらく監視されていた17人は次々に始末された。

ガルシア・マルケスの祖父も婚外子が多くいたようだけど、ワユー族はそもそも母系家族で、男の方が不定住者。グアヒラ半島のアチコチに妻がいる一夫多妻制なんだそう。

ワユーは神話上の先祖を共有している母系家族なので、母親の姓を継いだ父親の違うきょうだいたちが家族として暮らし、その姓によってひとつの集団を形成している。この家族集団の中では女性たちが強大な影響力をもっており、男性たちの意思決定よりも優先される。

「百年の孤独を歩く」P.52

これを知ると、ブエンディア家の家族の在り方が、母親であるウルスラが中心で強大な影響力をもち、男たちは家から出てフラフラ好き勝手なことしている。まさにワユー族的家族の在り方が大いに反映されていたんだなということがわかります。


フランシスコ・エル・オンブレ(”人間のフランシスコ”の意味)


「百年の孤独」単行本P.83に登場。自作の歌をちょくちょく披露するためにマコンドにやってくる200歳近い老人。ウルスラも故郷の家族の消息が歌われないかと聴きに行ったりしていた。

この人も実在の人物で本名はフランシスコ・モスコテ=ダサ。19世紀末から20世紀にかけてコロンビア北部を旅していた吟遊詩人的人物。
悪魔との即興曲による決闘で打ち負かした人間…という伝説のあるアコーディオン弾き。(←いまならラップバトル的な感じ?w)悪魔に対抗した人間という意味で”オンブレ=人間”というあだ名がついた。

伝説や伝承、通信手段の無い時代、読み書きできない人々のために、各地のニュースを歌にして別の場所で披露することで親戚の消息などを伝える役割などを果たしていた。ガルシア・マルケスも幼少時に見かけている。

バナナ大虐殺でも労働者たちは読み書きできなくて、それに付け込んで労働条件の悪い契約も結ばされていたという話もあった。だから20世紀初頭でもコロンビアの識字率はかなり低かったのだと思う(日本の識字率が世界的に高すぎたので、どちらかというとこちらの方が当時のグローバル・スタンダードだった気もする)。よって歌による伝承はとても重要な役割を果たしていたのでしょうね。読み書きができないと手紙でのやり取りもできないわけですから。

「マルケスにとってフランシスコ・デル・オンブレは神話と文学、音楽とフォークロアが、民衆的に共生している人物であった」(「百年の孤独を歩く」P.77)

このフランシスコ・エル・オンブレの音楽がバジェナート
黒人音楽の太鼓、先住民族(インディオ)のグアチャラカ(丸い棒に線を彫った部分を金属の棒でジャッジャカと擦る楽器)、そして白人が持ち込んだアコーディオン。コロンビアの主要三人種の代表的楽器で奏でる音楽ということですね。
特にアコーディオン奏者が作詞作曲をするシンガーソングライターで、フランシスコ・エル・オンブレはその才能で尊敬されていた。
バジェナートは彼らの民謡でもあり、それを歌いながら各地を巡る民謡歌手、民謡楽団。

1981年のインタビューでガルシア・マルケスは、
「百年の孤独」は450ページのバジェナートにすぎない”と断言している。
バジェナートが語っているような日常的な出来事を取り上げた物語。

前の記事でも書いたけど、「百年の孤独」を読んでいると、とめどない物語の奔流に流されていくような感覚に陥る。おそらくバジェナートを聴いている時も同じような感覚に陥るのだと思う。各地の伝承や個人的ニュースなどが音楽に乗って延々と奏でられていく。太鼓のドンドン、グアチャラカのガチャガチャ、そしてアコーデイオンの音色に合わせて。

小町娘レメディオスの謎

ガルシア・マルケスが「グアバの実の香り」の中で、大柄な黒人女性がシーツを干そうとしている時に風に持っていかれそうになったのを見て、小町娘レメディオスがシーツと共に風に運ばれて行ってしまうエピソードを思いついたそう。

加えて、カリブ海地方では、駆け落ちして娘が出奔してしまったことを「天に昇ってしまった」と表現するそう。ということは、小町娘レメディオスは昇天した訳ではなくて、漸く彼女のハートを射止めた男が現れて一緒に家を出ていった。それをああいう風にメルヘンチックに表現したということなのかも?

あと、ワユー神話にはプロヴィという超自然的な女性がいて、彼女は官能的な女性性の権化であり、邪悪で破壊的な力の持ち主なんだそう。彼女の局部は邪悪な力を持っていて、それを見た者は死に至ることがある。このプロヴィも小町娘レメディオスに求婚する男たちが次々に死んでいくという部分のモチーフになっているのではと、「百年の孤独を歩く」の著者である田村氏は推測している。

このプロヴィはたまたまワユー神話に登場しているけど、この”破滅させようとする意図はなく、男を破滅させる魔性性のある女性”というのはファム・ファタールであり、世界中で語られてきている。聖書に出てくるサロメもファム・ファタールと言われるし、小町娘レメディオスに近い存在は日本にもいますよね?そう、かぐや姫!彼女に求婚した五人の公達たちは悉く失敗し、子安貝を取ろうとして崖から落ちた中納言はその後死んでしまう。そしてかぐや姫も最後には月に帰ってしまう。まさに昇天していったレメディオスと非常によく似ている。

ちなみに、大河「光る君へ」で、ロバート秋山が演じていた藤原実資の娘が”かぐや姫”と呼ばれていたんだそう。言われてみればドラマの中で娘を猫可愛がりしていたような気がする。美人だったかどうかは憶えてないけど…😅。

黄色は富の色?死の色?

この物語において”黄色”というのは多くの場合で”死”と関連付けられている。

”秋の色であり、滅んでいくものの色である黄色は、この物語の中で死のシンボルとして用いられているのだ” と、「百年の孤独を歩く」にも書かれている。

それで実際に”黄色”と書かれている箇所がどれくらい死と関連付けられているか調べてみました。本文中に”黄色”が出てくるのは30回ありました。ザッと書き出してみましたので、気になる方は見てみてください。どうでもいいという方は適当に飛ばしてください😅。

***
P.50 黄色っぽい塊 ウルスラの金貨を溶かしたもの→長男ホセ・アルカディオが「犬の糞だろ」と言ったことで父ホセ・アルカディオ・ブエンディアが彼を血が出るまで殴る。おそらくここで父と息子の断絶が生まれている(父子愛の死)。この後にピラルとの色々があって、ジプシーと共に家を出ていってしまいます。

P.75 不眠症で黄色になったやさしい仔馬(の飴細工)をしゃぶった→町中が不眠症に陥った。緑色の雌鶏やバラ色の魚の飴細工もあるので特に黄色が重要ではないが、病気を流行らす不吉なアイテムとして描かれている。

P.115 以前は小さな黄色い花をつける水草が浮いていたコップ→直接は関係ないし、時間経過も不明だが、メルキアデスの死について書かれている箇所に出てくるので、やはり黄色い花は死の予兆的意味合いを持たせられている可能性はある。

P.121 金色の光線につつまれながら丘の向こうに沈むまん丸なお日さまを、色鉛筆でノートに描いたりするようになった→アウレリャノ大佐が幼な妻レメディオスの家に訪ねていって少しずつ距離を縮めている(悪い言い方すればグルーミング(;^_^A)時の描写。この金色が英語ではYellowになっている。これも後に不幸な結末を迎えるレメディオスに、死の色をまとわせる意図がこの段階からあったのかも?

P.221 小さな黄色い花が雨のように空から降ってくるのが窓ごしに見えた。→ホセ・アルカディオ・ブエンディアが死んだ時の描写。最も幻想的で印象に残る場面のひとつ。

P.272 黄ばんだ紙のひと巻をまず渡しながら言った→アウレリャノ大佐が幼な妻レメディオスに書いた詩や手紙を焼いてくれとサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダに頼むシーン。この後、ネールランディア協定の調印に出かけ、そこで自分の胸に印をつけたところを銃で撃つ。しかし見事に貫通して一命はとりとめる。死にはしなかったがここで”軍人としてのアウレリャノ大佐”が死んだことを意味したのでは?これ以降の彼は再び引きこもり生活になる。

P.296 アーモンドを思わせる黄色い目が豹のようなきつい感じを顔に与えていた→ペトラ・コテス登場時の説明文。これに関しては死に関連することは思い浮かばない。彼女は逆に家畜が増える力を持っているわけで、生殖、豊穣のイメージの方が強い。

P.308&309 六度目の日曜日、男は黄色い薔薇をもってあらわれた→小町娘レメディオスに求婚する、よそからから来たイケメン紳士。しかし拒絶され続け、最後はレールの上で寝て轢死。

P.321 窓ガラス越しの埃っぽい光線に血の気のない黄色い顔を浮かびあがらせている病気の母の部屋で→病弱なフェルナンダの母の描写。英文では”In the room of her sick mother, green and yellow under the powdery light from the windowpanes”となっていて、緑が”血の気の無い”と訳されていてヘェ~と思ってしまった。日本で言うと青白く且つ黄土色っぽい感じですかね?フェルナンダの母親は娘が修道院に入っている間に死んでしまう。

P.324 願いが予兆の蜃気楼を呼ぶ黄ひといろの荒野を横切った→アウレリャノ・セグンドがフェルナンダを探して旅をする時の描写。これも特に死と結びついている感じはない。

P.338 禿げあがった頭にわずかに残っている髪の毛→英語では”with a few yellow threads on her bald head”禿げた頭に少しの金の糸(金髪の髪の毛)と書かれている。これはアウレリャノ・トリステが廃墟だと思った家にまだレベーカが住んでいるのを見つけた場面。ドラマのレベーカは黒髪なんですけどね😅。しかしほぼ廃人みたいな状態だけど、まだレベーカは死なないので、これまた死のイメージは薄い。敢えて言うならレベーカの美貌が、禿げあがるほどになり完全に失われたことを表現している?

P.346 無心の、黄色い汽車が→アウレリャノ・トリステがマコンドに鉄道をつくって汽車で凱旋して来た時の描写。後にバナナ大虐殺の死体を運ぶことになる。
P.351 さらにジャック・ブラウン氏が、黄色い列車の最後尾に連結された…アメリカの資本家が特別車で町へ乗りこんできた→大虐殺に至る諸悪の根源であるブラウン氏(バナナ会社の社長)の登場シーン。
日本では黄色い新幹線ドクターイエローは幸運なアイテムになってますけどね(苦笑)。

P.434 屋敷じゅうが黄色い蛾であふれたのですぐに閉めなければならなかったが→マウリシオ・バビロニアがブエンディア家にやってきたシーン。ちなみに英語ではモスではなくバタフライと表記されてる。蝶なのか蛾なのか?
P.437 かならず黄色い蛾が出ることに気づいた。
P.443 日暮れになると、黄色い蛾が屋敷にはいり込んできた。
P.444 かたときも離れない思い出と黄色い蛾に悩まされ…年取ってわびしく死んでいった。
P.447 相変わらずつけ回す黄色い蛾さえ目にはいらないのか&マウリシオ・バビロニアの黄色い蛾が舞っている…
P.448 黄色い蛾の最後の一匹が扇風機の羽に当たってばらばらになった。
→黄色いと前置きせずに”蛾”だけの箇所ももっとある。この黄色い蛾は不吉で死のイメージがあるにはあるが、メメもマウリシオも別れてからすぐ死んだわけではない。

P.450 ステンドグラスから落ちる黄色っぽい光線の下でマウリシオ・バビロニアのことを考えていると…→メメがフェルナンダの故郷にある修道院に入れられる場面。これがメメが登場するほぼ最後の場面。老衰で死んだと書かれているので一応この時点では死んでいないが、マウリシオ・バビロニアとの恋が完全に死んだことを意味したのかも?

P.522 乗せる客もなく閑散とした駅にはほとんど停まらない黄色い列車→一時は豪華だった列車の唯一の名残り。大洪水などを経て廃れてきているマコンドを表している。もうすぐ列車も来なくなる。

P.542 ウルスラが百年ほど前にメルキアデスの義歯のはいったコップで見た、小さな黄色い花が顔をのぞかせた→屋敷が荒廃し、廊下のセメントの床のひびから雑草が生え、黄色い花を咲かす。もうすぐブエンディア家が滅亡する不吉な前触れのイメージか? この小さい花、コップで咲いた時は水草の花だったのに、ここでは雑草の花になってる。42の矛盾のひとつかも?

P549 黄色っぽい貂のマントと金色のボール紙の王冠を身につけ…→荒廃していく家の中でフェルナンダが着ていたもの。この後、そのマントを身に着けたまま死ぬことになる。

P.554 黄色い房飾りのついたスリッパをはいて浴室へ行き…→法王見習いホセ・アルカディオが帰国してお風呂に入るシーン。彼が殺害されるシーンはもう少し後。ただ風呂場で殺されることをこの時から暗示している?

P.559 ところが、黄ばんだ羊皮紙に手をかけたとたんに…→法王見習いホセ・アルカディオが連れ込んだ近所の悪ガキがメルキアデスの部屋に侵入し、羊皮紙にいたずらしようとすると不思議な力で空中に浮いて宙づりにされてしまうエピソード。これも直接的には死に関係していない。彼らが後にホセ・アルカディオを殺害する犯人になりはするけど…。

P.560 亀裂のはいったセメントの床を透かして黄色い光が射していることに気づいた→ウルスラが隠した金貨を法王見習いホセ・アルカディオと彼の世話をしていた少年が見つけたシーン。結局この金貨がホセ・アルカディオの殺害に繋がっていく。

P.562 これで二度目だが、街灯の黄色っぽい光にぼんやりと照らされた人気のない町を見ても…→法王見習いホセ・アルカディオにお使いを頼まれたアウレリャノ・バビロニアが町に出た時のシーン。マコンドの町が活気を失い死んでいっていることを表現したかったのだろうか?一応この後のシーンは、長年逃亡していたアウレリャノ・アマドルが匿って欲しいとやってくる。しかしホセ・アルカディオとアウレリャノ・バビロニアに拒否され、その後追跡者に殺されるシーンに繋がっていく。

P.624 ほの暗い浴室に群れる蠍と黄色い蛾のなかでの彼自身の受胎の瞬間に行きあたった→物語の最終盤、アウレリャノ・バビロニアがメルキアデスの書を解読し、それを読んでいる中で自分の出生の秘密を知る場面。彼自身+ブエンディア家の滅亡の場面なのでもちろん死に関連している。

***
多少こじつけた部分もありましたけど大抵は確かに死や不吉なことに関連している。

この他にもバナナ農園のバナナも黄色で、それが大虐殺に繋がる。

それと「百年の孤独を歩く」では金色も黄色と同じ意味合いで使われていると指摘する。アウレリャノ大佐が作る金細工の魚。あれを貰った人物、最初は幼な妻レメディオス、そして密使として女装してきたスティーブンソン大佐、17人のアウレリャノたちも悉く死んでいく。

コロンビアの古い墓からは魚のカタチの石板や金細工が発見されていて、魚は死者への供物とされていたそう。その伝承をガルシア・マルケスは物語に活かしたのだろうと。

ウルスラが親からもらった金貨も夫の錬金術への傾倒→夫婦間の断絶、息子との不和に繋がるし、謎の男三人が持ち込んだ金貨も、最終的に法王見習いホセ・アルカディオの殺害に繋がる。この物語における”金”は幸せになるものではなく、大抵碌なことにならない邪悪なアイテム的扱いであることが多い。


そもそも黄色はガルシア・マルケスの大好きな色だったそうで、襟にいつも黄色い薔薇をさしていたりしたそう。彼の葬式でも黄色い花が供えられたり、紙で作った黄色い蝶を飾ったりしていた模様。

ノーベル賞受賞時も黄色い薔薇付けてますね。

この記事によると、

黄色は変化と破壊のメタファー、黄色い蝶は禁じられた恋人の象徴なんだとか。

2021年のディズニー映画「ミラベルと魔法だらけの家」はコロンビアが舞台で、魔法使いの一族の話らしい。そしてガルシア・マルケスへのオマージュとして黄色い蝶が出てくる。予告でもチラッと映ってる。

黄色い蝶以外にも「百年の孤独」やガルシア・マルケスへのオマージュがありそうなので観てみたいかも。

そもそも黄色はコロンビアにとって重要な色。国旗で赤や青より多く描かれてますから。

コロンビア国旗の色の意味はこういう感じらしいです。

黄:新大陸の黄金、主権、正義、富
赤:ヨーロッパの旧大陸、革命のために流された尊いの犠牲、名誉、寛容、勇気、犠牲
青:大西洋によって新旧両大陸が結ばれる、自由、忠誠、警戒

「百年の孤独」の中で旧大陸からの保守勢力が青で、自由党、革命軍は赤だったので、その部分は少し逆なような気がしますけど…😅。

そして西洋文化における黄色は、幸福、陽気、前向き、暖かみ、喜び、希望 などのイメージ(一応”臆病”や”裏切り”のイメージもあるそう。12使徒のユダが黄色の服を着ていたのが由来)。

日本でも黄色から金を連想して金運や富の色、太陽の光をイメージして希望などのポジテイブな色の印象が強い。なので黄色をココまで死と結びつけるというのは、ある意味新鮮というか、意外に感じました。これもまたワユー族の黄色に対する考え方が影響を与えているのかも?


「百年の孤独を歩く」は、著者の田村氏が何度もコロンビアを訪れて現地の状況を伝える紀行文の部分と、現地の伝承や文化を見聞きし、「百年の孤独」やその他のガルシア・マルケスの作品への影響や元ネタを考察する部分、そしてガルシア・マルケスの家族にインタビューするファミリー・ヒストリー的な部分が盛り込まれています。

この他のコロンビアの不思議なエピソードとしては、こんなのがあったりする。

アニーメ

コロンビアのカリブ海地方で信じられている小人妖精的な存在。主人が困っている時助けてくれる超自然的な生き物と辞典には書かれているが、家にはおらずに農場、畑にだけいるとか、助けるどころかイタズラしてくるとか、乳牛の乳の出を止めたり、子供の目の色を変えたり、そういうのがアニーメのせいだと考えたりする。

世界中どこにでも小人伝説があるんだな~と思ったり、

死者の家
町の中にある死者の家に死者が住んでいて、ときどきそこから出てきて通りを歩いていたのを見たとマルケスの幼馴染が説明する。

お化け屋敷とは少し違って、死者専用住宅的扱い?(どう違うか説明が難しい😅)色々な興味深い文化についてのエピソードが書かれているので、興味出た人は是非読んでみてください。

ただ「百年の孤独を歩く」の後半はガルシア・マルケスの兄弟姉妹にインタビューする話になっていくのですが、兄弟姉妹が11人もいるんです。そこに両親や祖父、叔父、叔母、婚外子と、もう誰が誰やらわからなくなってくる😅。

ということで、次項はガルシア・マルケスの家族についての私的まとめです。


ガルシア・マルケス家の話

「百年の孤独を歩く」の著者・田村氏は実際にガルシア・マルケスにも、その兄弟姉妹にも会ってるので混乱することは無いのでしょうけど、私的には登場人物が多すぎてついていくのに必死でした😅。なので本を読みながら自分の理解の為にガルシア・マルケスの家系図を作ってみました。

(PCの場合はクリックで拡大できます)

ガルシア・マルケスは最下段中央あたりにいます

祖父ニコラスがバランカスからアラカタカに移動してきた経路はマコンドについての項目の地図を参照。

ガルシア・マルケス一家もまたアチコチ移動している。
祖父母が落ち着いた町でマコンドのモデルでもある町アラカタカが起点。

ガルシア・マルケスの両親も最初アラカタカに住んでいたのかな?そこでガルシア・マルケスは生まれている。下の子が生まれた時にガルシア・マルケスと妹のマルゴーをアラカタカにある祖父母の家に預けて、両親はバランキージャで薬局を開こうと先に下の弟妹と共に引っ越し。けど上手くいかずにアラカタカに戻ってきたっぽい?(弟妹達が祖父母の家に加わるので)その後シンセー、マガンゲーなどの町を経て、祖父が亡くなったので祖母を引き取って少し内陸部のスクレの町に落ち着く。そこで父親はホメオパシーの医者になる。後年にはカルタヘナにも移っている模様。

ガルシア・マルケスはスクレで家族と何年か過ごした後、バランキージャの寄宿学校に入り、首都ボゴタの大学に入り、新聞記者としてカルタヘナやバランキージャに赴任したりしている。その間にスクレの実家で休暇を過ごしたりしている。

母方祖父ニコラス:元軍人。アウレリャノ大佐のモデルのひとり。
決闘で相手を殺したことにより復讐を恐れて故郷を離れる。←ホセ・アルカディオ・ブエンディアのモデルの部分もある。
ユナイテッド・フルーツ・カンパニー(バナナ会社)の店でガルシア・マルケスに氷を始めて見せた人物。←「百年の孤独」の氷のエピソードはこの実体験から。

母方祖母トランキリーナ:ウルスラと同じで、家計を助けるためにお菓子を作って店に卸していた。飴や焼き菓子、砂糖をまぶしたバナナ。信心深く、迷信などを信じていた。この話をガルシア・マルケスはよく憶えていた。

父ガブリエル・エリヒオ:私生児。四男ハイメ曰く、メルキアデスみたいな人だった。ジプシーみたいな放浪癖があった。思い付きで行動する。新しい物好き。自分の実験室を作っていたし、カメラが珍しかった時代にカメラを手に入れ家族写真を撮っていた。←この辺りはホセ・アルカディオ・ブエンディアの描写と似てますね。婚外子も4人いる。

母ルイサ・サンティアガ:アラカタカで最初のピアノ演奏をした人物。修道女の教育を受けたお嬢様。←少しフェルナンダっぽい?
両親はガブリエル・エリヒオとの結婚を猛反対。←メメとマウリシオ・バビロニアのモチーフかも?
まだ都会だったバランキージャから、蛇が家の中に入ってくるし、雨期には水に沈み、蚊の大発生のあるような超ド田舎のスクレに引っ越す時は諦観の表情。夫に振り回されながらも耐え続けた。

*****

➀長男:ガブリエル・ガルシア・マルケス(愛称ガボ 子供の頃から知っている人はガビート呼び)「百年の孤独」著者

兄弟姉妹には父親似の浅黒くて黒髪タイプと、母親似の色白で金髪タイプがいる。スペイン人とワユー族の血、さらに父親はシンセー出身でセヌー族の血も入っている←兄弟には生まれた時に蒙古斑があった。

小さい時から記憶力の長けた子供だった。細かいところまで憶えている。幼少時から見聞きした伝承や逸話を作品に盛り込めたのもそのおかげ。

バランキージャで新聞記者として住んでいた頃、犯罪通りというところにある売春宿に住んでいた。よって「わが悲しき娼婦たちの思い出」「エレンディラ」など、娼婦をテーマにした作品も多く書いている。
スクレ時代の13歳の頃に父親のお使いで娼館に行き、エスプエルアという娼婦に童貞を奪われている(未遂だったという説も)。同性愛に走らない様にと父親が仕組む習慣があるのだそう。この体験は彼のいくつかの作品でも書かれているし、「百年の孤独」の長男ホセ・アルカディオとピラル・テルネラの話などにも影響を与えていそう。

「百年の孤独」の終盤、アウレリャノ・バビロニアが出会う黒人の娼婦がニグロマンタ。ガルシア・マルケスもサクレ時代に人妻の黒人女性ニグロマンタと関係を持っている。練習台に自由党民を銃殺するような狂暴な夫に見つかったが、父親が彼の淋病を治していたので見逃して貰えた。

②次男:ルイス・エンリケ
悪ガキ
だった。12歳でお酒をおぼえて酔っぱらう。ギターでセレナータをあちこちの女の子に歌いに行って朝帰り。犯罪を犯した子供が送られる矯正院に送られて(彼は犯罪で捕まったわけではない)帰ってきたら分別のある子供になった。
かつて4人の愛人がいて、3回結婚している(←分別あるか、コレ?w)。やりたいと思ったことを何でもやってきた人物。ガボが一番羨ましく思っていた人物。

③長女:マルゴー
無口で内向的で人見知り幼少時に土を食べていた。祖母がそれを阻止するために牛の胆汁を撒いたりした(←ウルスラがやったことと同じ)。ガボが監視役を命じられたが優しいので黙っていた。

妹アイーダが生まれて世話で大変だからか、当時ガボとマルゴーは祖父母の家に住んでいた。祖父母の家に連れて行かれた当初はレベーカのように揺り椅子に座って指を咥えて何も話さなかった。
ガボとは双子のように仲が良かった。父親と馴染めなくて彼をおじさんのように思っていた。
求婚されていた彼氏がいたが、先延ばしにしていたらその男が別の女との間に子供ができてそっちと結婚することになった。それで傷心で一年間引きこもった。その後結婚せずに小さい弟妹、甥、姪の世話を献身的にしてきた。

レベーカとアマランタの要素は彼女からなのは間違いないし、ウルスラのキャラもマルゴーの影響があるらしい。

④次女:アイーダ
外交的。結婚せずに修道院に入る。好奇心の塊のような子供。
修道院で教師をしていた時代にした調査で、まず(コロンビアの男子は)セックスを鶏や驢馬などの動物から始める習慣があることを知る。←ホセ・アルカディオ・セグンドが聖具番ペトロニオから獣への夜這いを教えられるエピソードはこの辺りから。

⑤三女:リヒア
夢遊病者だった。夜中に家を出ていき、道で出会った人とちゃんと会話もしてくる。

⑥三男:グスタボ
色が一番黒い。強烈な性的魅力があって、次々に女性をものにしていった伝説がある。十代で三人の父親になる。誘った女性はどんな女性でもついてきた。女とみれば誘って車に乗せていた。現在の妻リーリアとは家庭を大事にする愛妻家。←長男ホセ・アルカディオのモデルかも?


11人もいるので、上6人と下5人でグループが別れている

⑦四女:リタ
最も穏やかで誠実な人物。生後五カ月でスクレに移住。そこで育つ。ガボは当時ボゴタに住んでいた。
後にガボの妻になるメルセデスもスクレに住んでいて、マルゴー、アイーダと一緒に出掛けていた仲。メルセデスの女友達が婚前交渉を別の男としていたとかで、結婚時に処女じゃなかったために相手の男が新婦の家族に殺される名誉殺人事件があった。マルケスはこの事件を「予告された殺人の記録」のモデルにしている。

⑧四男:ハイメ
スクレで生まれた。上のグループと下のグループの取りまとめ役
ジャーナリスト養成機関であるイベロアメリカ新ジャーナリズム基金の理事長。土木技師時代に日本人と仕事をした経験から日本びいき。

⑨五男:エルナルド(ナンチ)
余り情報なし

⑩六男:アルフレード(クキ)
末弟エリヒオに続いて死亡。
生まれた時は色が白くて金髪でドイツ人みたいだった。

⑪七男:エリヒオ・ガブリエル 
父親そっくりでガブリエルの名前を貰う(家族で3人目のガブリエル)。←兄のガボが既に家を出ていたからいいかと付けられたとか。
ジャーナリスト、小説、評論家。
「メルキアデスの鍵を求めて」という本を上梓したのち、2001年に癌で死亡。

本当にバラエティ豊かな家族たち。小説のネタになることが満載ですよね。そりゃ書いてみたくなる気持ちもわかる😅。


「百年の孤独を歩く」は2005年~2009年頃のコロンビアを旅していて、マフィアやらゲリラやらの支配地域というかなり危険な土地も旅します(現在はどうなってるんでしょう?少しは平和になってるのかな…)。田村氏は現地の友人やガルシア・マルケスの弟妹が付き添ってくれていたので大きなトラブルに巻き込まれることは無いのですが、それでも緊張感が伝わってくる場面が幾度とある。川を渡る船で話していた少年達が実はゲリラの少年兵だと後に教えられ、行先などの余計な情報を話さなくて命拾いしたエピソードなどは読んでいてもゾッとしました。

他にもガルシア・マルケスの別作品の舞台やモチーフになった町を訪れ、作品と実際にあった事件とを現場を見ながら振り返ったり、現地にある実際の伝説伝承の地を足で歩いて回ってみたり、紀行文としても面白いし、潜入レポみたいな趣もあったりする。再度言いますが、「百年の孤独」に興味持った方は読んで損はない本だと思います。単行本の末にある筒井康隆氏の解説の最後みたいに私も言いたい、「お読みいただきたいものである。いや、読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め」とwww。

(最近、筒井先生のドキュメンタリーもBSでやっていたけど、この解説も2024年2月に書かれていて、90歳だけどまだまだ元気そうで何より。ビーバップ・ハイヒールで長年見てきて、番組終了と共にご無沙汰だったので車いすと老け込み具合に少し驚いたんですけどね)


結局「百年の孤独」とは?とグダグダな感想


前記事で登場人物の名前の意味を調べ、今記事では作品の裏にあるコロンビアの文化やガルシア・マルケスの家族の話などを知り、「百年の孤独」とはどういう物語なのかが漸く見えてきた気がしました。

「百年の孤独」とはブエンディア家の隆盛と崩壊の年代記であるとともに、そこに独立してからのコロンビアの歴史を重ねている。

更にはホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラが旧約聖書「創世記」のアダムとイヴになぞらえると、プルデンシオ・アギラルの殺人は逃れられなく付きまとう原罪(聖書では知恵の実を食べた罪ですけども(;^_^A)。さらには何年も続く大洪水はノアの箱舟のエピソードを彷彿とさせるし、サロメのようなファムファタール、聖母マリアの名前を付けられた登場人物、神に禁じられた行為(近親相姦)によって破滅する部分は、バベルの塔やバビロンの滅亡、ソドムとゴモラの話なんかもなぞっていそう。メルキアデスはある意味知恵を授ける神でもあり、堕落を誘う悪魔でもある。預言者として彼の書いた書物はヨハネの黙示録を連想させる。つまり「百年の孤独」は、聖書を別の言葉で書き直し再構築した話のようにも見えてくる。

聖書をなぞっているということは、「百年の孤独」とは人類の隆盛と滅亡を描いていたとも解釈できる。人類史の縮図。未開の集落の発生。他文明との交流による文化の発達。イデオロギーの対立。政治的闘争。独裁者の誕生。政治と宗教の結託による権威主義。産業革命。資本主義の到来。大殺戮。
インターネットの発達で世界が繋がり、共通言語でコミュニケーションを取れるようになり、集団知が大きくなることで加速度的に文明が発達し、神の領域にまで挑戦しようとしている。人々の連帯が強化された部分もありつつ、一方で人々の心の孤立化は進んでいるようにも感じる。それはなぜか?「百年の孤独」の登場人物たちも人と関われば関わるほど煩わしさに悩まされたり、絶望したり、苦労したりし、孤独に陥り、孤独を深め、孤独に逃げ、孤独で自己防衛を図ったりする。

人間はひとりでは生きていけない生き物。社会的動物。生きるためには仲間を必要とし、求めてしまう。一方で争いをやめられず、その集団、社会にウンザリして孤独を求めてしまうというジレンマも抱える。それでも孤独に耐え切れずパートナーを求めると、それはどこまでも主観でしかなく、相手とは究極的には理解し合えない別の人格という壁がある。独立した個であることを思い知らされ、孤独がどこまでも付きまとう。逃れられない。悲しい性。

しかし実質的に孤独に生きることはセーフティ・ネットを拒否することに繋がる。連帯していたら救えたはずの孤独死。分断されたグループの集団死。孤独化による知識、知恵の継承が絶たれることでの滅亡。人類が生き残るためには連帯、連携を諦めてはいけない。「百年の孤独」のラストシーンが人類の黙示録になるか、そうならないかは我々の連帯にかかっている…そんなメッセージもガルシア・マルケスは込めていたりしないかな?とふと思ったりしました。

もしくは灰十字を付けられた17人のアウレリャノたちのように、滅びるのは逃れられない運命と、未来を予知したアウレリャノ大佐のようにガルシア・マルケスにも何か見えていたのだろうか?

現在、世界の分断が広まり、心の孤独化も強まってきている。人類滅亡の日は刻々と近づいている気はする。メルキアデスの予言が当たったように、ガルシア・マルケスの予言も当たる未来しか想像できない今が苦しく辛い。

コロンビアでは何百年も前からヨーロッパやアフリカからの移民が入り、多民族多人種国家になった。現在は人口の7~8割は混血だと言われているらしい。よってコロンビアには人種差別はないと言われているそう。しかし表面的にはそう見えているだけで、やはりインディオの血が濃い人、黒人の血が濃い人、地方の原住民文化で育った人への差別はあるのではないだろうか?「百年の孤独」の世界でもスペイン侵略者の末裔が多そうな中央政府周辺の横暴さは何度も描かれていた。インディオや黒人、混血の血が濃い人ほど教育等の機会が得られず扱いが悪そうだった。この百年で劇的に変化したのだろうか?貧富の差に人種による傾向は全くないのだろうか?

ヨーロッパ各国の移民政策も多くの問題を抱える中、日本も他人事ではいられない状況になってきている。ウクライナもソ連系の人々を助けるという名目で侵略行為が始まった。日本も保守だと思っていた勢力がとんでもない売国奴で内部崩壊、侵略されて、明日のウクライナになるかもしれない。多民族化、他人種化で混沌とした武力勢力が跋扈するコロンビアのような状況に陥り、収集がつかない暗黒の時代が何十年も続くようになってしまうかも。

人種や民族が悪いというより、人間という生き物が、他人より有利でいたい、優越感を持っていたいという欲望を持つ限りそれは解決できないように思う。そしてその欲望を消し去ることはほぼ不可能。それがあるからある意味人類は進化してきたのだから。そうなると争いは無くならないし、人類に永遠の平和は訪れない、それが人類という生き物の運命という気がする。アウレリャノ大佐も、仲間のはずだった自由党からも裏切られたり、結局権力におもねったりするものが出てきて、最後には諦めの境地に、虚無の境地に陥る。あれが全てを物語っていたような気もする。いくら血を流しても平和、ユートピアなんて辿り着かない。一時の休戦はあっても、また血を欲し始める。

多様性は確かに人類存続に貢献するとは思う。いろんな可能性を持っていることは生存戦略のひとつなわけだから。しかしそれを認めて受け入れ、平等に富や英知を分配できるほど人類は賢くないし、利己的な欲を捨てられない生き物。う~ん、やはり考えれば考えるほど「百年の孤独」の黙示録が実現してしまいそうですね。「百年の孤独」では強風でしたけど、何か大きな自然の力であっという間に人類なんて消え去ってしまうのかもしれないなぁ…。


感想も悲観的でまとまりもないグダグダになってきたのでこの辺で😅。

次記事はNetflix版「百年の孤独」を観ての感想なんかを書いてみたいと思います。

次記事です。

前記事です。長いですがコチラを先に読んで貰ったら、この記事で説明を省いた各キャラの概要とかがわかると思います。


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