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光があれば闇も生まれる〜善と悪の基準は何だろう〜

こんばんは。Vinoです。
はじめましての方へ。

行き過ぎた正義感や正しさは周囲に息苦しさを生んでしまいます。

時には正しさという名の暴力にもなり得るかもしれません。

少し前にマスク警察や自粛警察が流行っていましたが、あれも正義という名の元に行われていたと思います。

以前どこかの記事でも書いた気もしますが、正義感は、脳にとって快感らしいので要注意です。

随分前の話になりますが、わたしは、とても大きなショックを受けました。

オリジナルって何だろう?商売って何だろう?正しさって何?

自分の今までの価値観がガラガラ音を崩れていきました。

自分が今まで信じて来たことって何だろう?

自分は、一生懸命、善き人になろうとしていたところに、下記のような感じの人たちが目の前に増えて来たのです。

「親が子供の面倒見るなんて当たり前な訳ないじゃん。さっさと家を出て行って欲しい。」

「そんなキレイごとだけで金稼げないよ。お前、やってみろよ。」

「昔、道端にチャリ置いてあったから、パクっちゃった。ラッキー。」

「海外のパーティでハメはずしてさぁ。ヤバかった。」

実際のセリフとは違いますが、こんな感じのノリでした。

それも皆さん一見、普通に見えるのです。

ただし、口から飛び出すセリフは、全然違いました。

とても驚いた記憶があります。

人生を振り返ると、時々、ダークな世界に迷い込むというか垣間見ることがあります。

その度に、こっちはダメだと逆方向にハンドルを切り、善き人になろうとして来ました。

闇に飲まれないよう切り捨てて、近寄らないようにしていました。

今、振り返りどうして闇が怖かったのかなぁと思うと、他人の評価が凄く怖かったのだと思います。

それは、何処か自分の本質が善ではないと思っていたのかもしれません。

過去にも何度か書いていると思いますが、世間の評価基準からするとダメと言われそうな部分を、自分自身が受け入れることが出来ずにいました。

親を悲しませてはいけないガッカリさせてはいけない、世間からハミ出てはいけないという意識が、とても強かったです。

でも、今、ハッキリ分かることは、善き人になろうとして闇を切り捨ててはいけないということです。

自分の中にあるダークな部分を見つめて、それも自分なんだと受け入れることが、とても大切なのだと思います。

実は、善き部分だけの自分では片手落ちで、反対側の自分を受け入れて初めて一つの自分になれるのだと思います。

人間には肉体と自我がある限り、完全な神の世界のような精神性に到達するのは至極難しいと思います。もちろん目指すことは自由です。

ただ、肉体を持っている限りケガレのない世界というのは、とても難しいです。

今は、おとめ座の時期ですが、今一度、自我と向き合うことが大切なような気がしました。

取り止めのない話になってしまいましたが、何か伝わることが有れば嬉しいです。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


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