校内マラソン大会:苦しい経験をする意味とは
僕は走るのを楽しいと思ったことは今まで一度もない。疲れるし、のどは乾くし、息は上がるし。今日はそんな疲労を強制させる学校のマラソン大会。女子は5km、男子は8kmの距離を走る。
出席番号が前から3番目の僕は、足は遅いのに最前列でのスタート。転んだら、後に続く300人に踏みつけられる。それだけは避けようと、ピストルの音とともに全力でダッシュ。今だけは芸能人の運動会番組で、最初だけ全力疾走するお笑い芸人の気持ちがわかる。
走る時に走りを意識すると余計疲れる。とりあえず、意識をそらす。…そうだな、「人は苦しみを経験するべきなのか」マラソン大会中にちょうどいいテーマについて、メタ的に考えてみよう。
1) 苦しみは何を与えるのか。
A:苦しみによる感情のコントロール
苦しみとは、一時的な感情の下振れである。つまり、苦しみによって下振れを知ると、普通の状況が比較的+に感じる。感情が上振れるときは、下振れを知っている分、大きな快感を得る。マラソンの例に沿って考えると、普段、普通に息をして、水を飲んで、体も疲れていない状態に対して、プラスの感情もマイナスの感情も抱かないのに対し、マラソン後に、普通に息ができることの快適さや水を思う存分飲める幸せを感じたとき、今までなら評価0の状況が+に感じてくるのではないだろうか。他にも、断食を三日間した後の食事、普段から食べなれた米に対し、普段以上のありがたみやおいしさを感じることができるだろう。つまり、苦しみは感情のマイナスを一時的に深め、自己感情の評価基準を下げる事なのかもしれない。
B:苦しみは進化のきっかけ
人は苦しみの中で、進化する。例えば、食料を手に入れることが大変で苦しかったホモサピエンスは牧畜や農耕を生み出した。受験勉強に追われた受験生は、自分なりに効率の良い学習方法を模索する。友達が少ない人は、アニメやネットの中に自分の居場所を見つける場合もある。このように苦しみを感じる個人は、それから逃れるために方法を模索し、人生の質を向上するのである。
Aで述べたこの感情のコントロールは、恐ろしいことに、自分以外の人に対しても使うことができる。小学校のとき僕はいじめられてたが、いじめっ子の宿題写してやったときとかに、たまーに見せる「お前、やるじゃないか」とか「サンキュー」とか言葉が、妙にうれしく感じてしまうんだよね。苦しみの中で脳がバグって、プラスに感じるべきではないところでもプラスに感じ始めたのだ。これは何もいじめっ子だけに言えることではなく、宿題を大量に出した上で受験勉強を頑張る学生に対し労いの言葉をかける先生は異常に優しく見えるとか、仏教の教えみたいに、生きてることは苦しみで死後初めて浄土という楽園に行けるということで、アメをちらつかせてムチを肯定化させる、世の中のあらゆる場面でみられる構造なのだ。この「アメとムチ」昔から言われている言葉だが、ムチによって苦しみを与え、アメを普段以上の価値に見せる、巧妙な洗脳でそれに気づかないものは搾取されうる。
まあ、こういうことには気づかないことがほとんどで、高校生でこんなことに気が付いてるやつは、僕の知る限りそういない。
そんなこんな考えているうちに、とりあえず折り返し地点。やっぱり思考はいい。脳の容量を必要とするこの作業は、走るという作業に使われる脳のエネルギーを相対的に減らし、苦しみの感度を下げてくれる。(これは同時に、苦しみの感度が低いため、上記のようなメリットを減らしていることにもつながるのが。)
2)苦しみの悪影響
このままだと、苦しみは悪用されなければ基本はよい、という結論に見えるので、「そんなに悪用する人はいないでしょ。」って他人を簡単に信じられる人々にとっては、悪用による危険性はあまり響かない可能性がある。こういう時は、次のように考える。
苦しみを味わう経験そのものが悪影響を与えるケースはないか?
ざっと3つくらい思いついた。
A:ストレスによる心身疲労
苦しみを経験するというのは、そもそもが否定的な感情を経験することであり、ストレスになる。心理的にマイナスの状況を経験することは、本能的に体にも心にも悪影響を与える。ストレスによる脱毛、頭痛、イラつきなどは、医学的にもしばしばみられる。受験勉強で苦しみを覚え、命を絶ったり、感情を失う青年が増えていることは、日本や韓国での社会問題だ。こんな苦しみさえなければ、きっと健康な人生を送れただろうに。
B:短い苦しみの効果と苦しみの代わりにできることの比較
上記の苦しみによるメリットは一時的でそう長くは続かないので、何度も経験して、感情の下振れの程度を体に思い出させる必要がある。一度8km走ったら5kmは余裕になるかと言ったら、2週間くらいはそう感じるかもしれないが、長期的に見ればそんなに効果はない。どっちみち2週間後に5km走ると、特に楽に感じない(元に戻る)のであれば、日曜日の朝から現地に出向いて8km走る代わりに今日の朝のアンパンマンやプリキュアをいつも通り見て楽しむほうが、比較的良い。
いやいや、8km走ったのに2週間全く走らんてことはないって。って思う人がいるかもしれない。そうね、スポーツ選手とかは継続的に苦しみを与える、とか、せっかくめちゃくちゃ受験勉強したんだからこれからも継続的に勉強続けていくでしょ、みたいな例もこれにあたるね。これを抽象的に言うと、「苦しみを継続的に与えることで、メリットも継続的に味わうことができる」てところか。いい視点だけど、こう思っている人たちも説得できるようにしたら、「苦しみを経験することは悪い」ということをほぼすべてのケースをカバーできるかな。これは、ケースCとして次のように説明できる
C:苦しみへの慣れの怖さ
「苦しみを継続的に与えることで、メリットも継続的に味わうことができる」というのは、一つ盲点がある。こういう人達は、心身が強くなるにつれて、苦しみの度合いを段階的に大きくしないと、苦しみを感じにくくなる。一見これは、メリットのように思えるが、実は非常に危険だ。例えば、陸上選手が、普段の練習場所ではもの足りなくなり、過酷な環境を追求して高地トレーニングをすることで体を壊してしまったり、ダイエットのために3日断食するのがそこまでつらくなくなってきたら4日、5日とどんどん追い込むのがまさにいい例だ。一度経験した苦しみでは満足できず、苦しみの度合いを大きくすることで自己を成長させようとしても、いつかは耐えられる苦しみの限界を超える。苦しみを求め続けることでいつかはパンクする。
エピローグ
今日の朝、開会式で校長が言ってた、「苦しいかもしれないが、これは必ず糧になる」というのは、結構無責任な発言だなって気付いている人は何人いるだろうね。各個人で苦しみを肯定化するのは勝手だけど、人や場合に良いか悪いかわからないことを「必ずプラスになる」ってのは、ただの意見の押し付け。ゴールまであと300mっていう看板をもってその校長が生徒たちを励ましている。普段の校長からは聞いたこともない大声で応援してるところを見ると、意識的に生徒たちに意見を押し付けようと思ってるわけじゃないんだろうけどね。
ここまで淡々と来てたのに、そこからの300mは、沼地を走るように脚を運ぶのが重かった。最後何人に抜かれたことか…肺から音が聞こえるんじゃないかというくらい息が上がり、器官に亀裂が入るんじゃないかと思うくらいののどの渇きを感じ、最後は歩いた方が早いんじゃないかというスピードでゴール。最前列のスタートからゴール時には150人ほど前にいる形で終わった。
Rubinより♪