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寄付の美化に潜む二面性

 我々は普段「カァ、カァ」と仲間と鳴くが、緊急事態には「ギャー、ギャー」と声質を変え、仲間を呼び助けを求める。すると、数百数千のカラスが集まり、仲間の危機を救うべく出動する。

 人間の援助の仕方は、カラスとは異なり、その場に駆けつけるだけではなく、援助の仕方は様々だ。人や場面によって異なるが、食料や物資の提供、電話で安心を確かめ合ったり、救急車を呼ぶなどの短期的な援助、募金や政策変更などを通した長期的な援助などがあげられる。

 さて、カラス界隈にはなじみのない「募金」という寄付の一種と、それに伴う人間の行動について今日は熟考していくことになる。

1)前提、金とは何か。
2)モノの寄付と金の寄付の決定的な3つの違い。
3)寄付の美化が導く2つの結果。
4)この文章の受け取り方。

お金の受け渡しアイコン

1)金とは。

 金。それは人間が使う、モノやサービスの価値を置き換えて一律に表現するための指標で、しばしば金属や紙からなる。近年では、暗号通貨やオンラインでの支払いや受け取りが可能な、物理的なもの同士の交換にも使われ、金はモノではなく、概念となってきた。

 金はそれ自体に実用的な幸福を与える力があるわけではなく、価値を取引して初めて価値を持つ場合が多い。例えば、お金があったら生きられるというわけではなく、金を支払うという行動を通して、医療や教育というサービスを受けたり、食料や衣服などのモノを得るという取引を行う。このサービスやモノが何か良い価値を持つから、それらにアクセスする道具としての金にも、価値があるということだ。

2)寄付はモノか金か。

 人々はなぜモノではなく金を寄付するのか。今回は先に結論を言うが、状況と場面によってモノの寄付と金の寄付のどちらが良いかは変わってくる。それはなぜか、モノと金の決定的な3つの違いを考察することで見る。

A:送るプロセス。
 お金が概念となった今では、今や数秒で届けることが可能である。モノは物理的な存在を持つため、送り手と受け取り手の距離と、運び手の能力に大きく依存する。また、大きさという物理量のないお金と、大きさという概念を持つモノでは、一度に送り届けることができる量や体積に差がある。

B:即効性と汎用性 
 仮に、同じ時刻に同じ価値の金かモノを受け取ることができた場合を考える。受け取ることができたとして受け取り手が良い価値をすぐに享受できるという意味ではモノのほうが即効性がある。ただし、送り手が考える必要なモノは、必ずしも受け取り手が、一番必要としているモノではない可能性もある。もし金の寄付ならば、受け取り手が自分のニーズに合わせて何に支払うか決定することができる。

C:受け取り手の能力と環境。
 汎用性の議論では、2つの仮定がある。一つは、受け取り手がニーズを正確に判断できる能力があること。当然だけど、お金をあげることで、つい携帯ゲームに課金して肝心の食費がなくなってしまう人には、汎用性はむしろないほうがよいかもね。
 もう一つは、モノを得る環境があること。災害でスーパーも配達サービスも機能してない状況で食費です、と金を渡されても、金で魚は釣れんし、金でジャガイモは育たんわな。電気が止まってんのに、スマホ渡されても意味ないわな。環境てのはそういうこと。

 我々のカラス界には、そもそも金っちゅう概念がないんで、モノかサービスの提供くらいしかできんのだけど、寄付する際に人間は金なのか、モノなのかサービスなのか、これを選ぶという行為を毎回、行ってるらしい。意識的にか、無意識的にかは知らんけど、考えること多いね。

コイントスのアイコン1

3)寄付の美化の二面性

 声が聞こえる範囲にいたら全員で駆け付けるカラスとは異なり、人間界では助けるかどうかは個人次第のようだ。その結果、寄付を行う人というのは、寄付を行わない人に比べて、「徳」の高い人間だと評価されるようだ。それやったら、カラスはみんな「徳」超高いな、皆助けに向かうし。

 ちなみに、有名人が寄付なんかした日には、テレビでいくら寄付したとか言ってたたえまくるし、一般人にも寄付をお願いする募金活動なんかを我々の縄張りでもよく見かける。寄付することはいいことで、それが寄付という行動は素晴らしい、寄付できる人は徳が高いといわれ、とりあえずここでは、この状況を「美化」と呼ぶことにする。

 寄付は素晴らしい「徳」のある行動よね。でも、だからと言って徳のある行動を美化することがいいかどうかってのは、まだ考える人用があると思うわけよ。徳のあることを美化するとどうなると思う?キラーん★。漆黒のカラスには見えてしまった二つの面を話してみる。

良い面:寄付といういい行動を美化することで、自分もそんな行動をしたいって人が増えて、より多くの寄付金や物資が集まる。これらが届けられると、より多くの人が助かるからいいんじゃないか。まあ、これはイメージできると思うんでこの辺でいいでしょ。

悪い面:寄付できる余裕がある人は基本、裕福な人。多くの仮定は、家のローン返すのも、子供を育てるのも、奨学金を返済するのも、なんなら明日の食卓に食べ物を用意するのも大変な人がいる。
「寄付が徳を示す行動で素晴らしい」という美化の文言は、裏を返せば、「他人が苦しんでいる中、寄付しない行動は徳の(少なくとも相対的に)低い」というメッセージとして受け取られうる。こんな時、裕福でない人がとりうる行動はAかBのどちらかだろう。

A:頑張って切り詰めて何とか寄付することで、自分を肯定する。この場合、少額でぶっちゃけそんなに助けにはならんわりに、自分の生活を切り詰めた犠牲はめちゃ大きい。例えば、寄付した次の日に予想外のパソコン故障ケガして医療費が必要になった場合、寄付しなかったら払えていたかもしれないものが払えなくなってしまうなんて場合もある。美化によって、自分を守ることができなくなった一例だ。

B:余裕がなく寄付できない現状を悔やみ、罪悪感と自分への失望や劣等感を抱える。周りの上司が寄付したといっているなか、自分は寄付する余裕がなかったという罪悪感や劣等感、また自分は寄付もできない人間なのかという自己否定に走る人もいるだろう。

 美化が生む二面性、救われる人も増える一方で、苦しむ人も増える。まあ、人間界って複雑やなぁ。カラスでよかった。

4)この話の受け取り方

 カラスは別に人間に対して、どうしろって言ってるわけじゃない。モノをあげるもよし、金をあげるもよし、何にも寄付しないのもよし。美化しても、しなくてもそれぞれに良い点はあるし、その時々で最善の選択をするという人間の能力を生かせば、少なくとも我々みたいに声が聞こえたらとりあえず飛んでいかんとアカン社会よりはええんちゃうの?って思っただけ。せっかく考える力があるんじゃけえ、その都度、考えたらええと思うで。

 …ちょっとしゃべりすぎたな。我々、意外と空から人間のこと見てんで。でも、仲間には人間の言葉をかけるなんて言ってねえし、隠れて夜中に哺乳類のために文章書くのも、仲間からはぶられそうなんで、そろそろ寝たふりするわ。明日は寝坊やな…ほなまた。zzz


Rubinより♪

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