私たちの主がその絶対的首位権を認められる典礼へと立ち返りましょう。まさに天主の御稜威への憎しみから改革主義者たちが改悪した以前の、本来の礼拝へと立ち返りましょう。(2020年8月6日)
2020年8月6日に、LifeSiteNewsのスタッフの方々のために、ヴィガノ大司教は小黙想会を指導しました。この日本語訳をご紹介いたします。
その内容は、Ap. Viganò: Christ the King has been ‘dethroned’ not only ‘from society but also from the Church’として掲載されています。
この内容は、すぐにイタリア語や、スペイン語、フランス語などに訳されました。
「王たるキリストは『社会からだけでなく教会からも退位』させられた」2020年8月12日 米国東部標準時間午後4時25分
TE ADORET ORBIS SUBDITUS
服従したこの世が御身を礼拝せんことを。
O ter beata civitas
cui rite Christus imperat,
quae jussa pergit exsequi
edicta mundo caelitus!
三重(みえ)に幸いなる国よ、
そこにキリストが合法的に命令し、
天からこの世へ命じられた
法の順守を実行する社会!
【王たるキリストの祝日の賛歌より】
イエズスはペトロとヤコボとその兄弟ヨハネを連れて、人里離れた高い山に登られた。そして、彼らの前で姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そのとき、モーゼとエリアが現れ、イエズスと語り合った。ペトロが口をはさみ、「主よ、私たちがここにいるのはよいことです。お望みなら、私はここに三つの幕屋をつくります。一つはあなたのために、一つはモーゼのために、一つはエリアのために」とイエズスに言った。ペトロがなお話し続けていると、光る雲が現れ、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け」と声があった。弟子たちはこれを聞いて、恐れて倒れ伏した。するとイエズスは近づいて彼らに触れ、「起きよ、恐れることはない」と言われた。彼らが目を上げてみると、イエズスのほかには誰も見当たらなかった。山を下りるときイエズスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるまでは、見たことを誰にも言うな」と命令された。(マテオ17章1-9節)
愛する友人の皆さん、私たちが今日お祝いする御変容において明らかにされた私たちの主イエズス・キリストの王権についての黙想について、皆さんにお話しさせてください。この御変容は、主の地上での生活における他の重要な出来事であるベトレヘムの洞窟の上に現れた天使たちから、三博士の礼拝、ヨルダン川での洗礼に続くものです。
私がこのテーマを選んだのは、ある意味で、私たちと皆さんのカトリック教徒としての責任の焦点が、私生活や家庭生活だけでなく、とりわけ社会生活や政治生活において、このテーマに集約されていると信じているからです。
まず第一に、私たちの天主なる救い主の普遍的な王権への信仰を復活させましょう。
主は本当に普遍的な王でいらっしゃいます。すなわち、すべての被造物、人類、すべての民、さらには聖なる、カトリックの、使徒継承の、ローマ教会という主の囲いの外にいる人々にさえも、絶対的な主権を持っておられるのです。
一人ひとりの人間は本当に天主の創造物です。すべての人は、その全体としての本質においても、身体、霊魂、能力、知性、意志、感覚といった全体を構成する個々の部分においても、その存在全体が天主に帰せられるものです。これらの能力の働きと身体のすべての器官の働きは天主の賜物であり、天主の支配権は、天主の計り知れない自由の実として天主の善のすべてに及んでいます。誰も自分が地上で属する家族を選ばず、選べないという事実を考えるだけで、私たちが自分の存在に関するこの根本的な真理を納得するのに十分です。
このことから、天主なる私たちの主はすべての人間の主権者であり、それは個人としても、社会的集団の一員としても同じことです。なぜなら、人がさまざまな共同体を形成しているというからといって被造物としてみずから与えられた条件を失うことはないからです。実際、市民社会の存在そのものが、人間の本性を社会的なものとされた天主の設計に従っているのです。ですから、すべての民、すべての国家は、最も原始的なものから最も文明化されたものまで、最も小さいものから超大国まで、すべて天主の主権に服しており、その民や国家自体、みずからこの甘美なる天の支配を認める義務を負っているのです。
イエズス・キリストの王権
聖書がたびたびに証言しているように、天主はこの主権を御独り子に授けられました。
聖パウロは、総括的に、天主が御子を「万物の世継ぎ」(ヘブライ1章2節)になさったことを断言します。聖ヨハネも、みずからの福音書の多くの箇所で、異邦人の使徒【聖パウロ】の考えを裏付けています。例えば、彼が「父は審判をされず、子に審判のことをまったく任せられた」(ヨハネ5章22節)と思い起こすときがそうです。審判を行う特権は実際には王に属しているので、その特権を持っている者は誰であれ、主権者としての権力を(王から)委任されているからこそその特権を持つのです。
御子が御父から受け継がれたこの普遍的な王権は、ただ、天主の本質の一致において、いとも聖なる三位一体の第一のペルソナと等しくかつ本質を同じくする属性のすべてを、御子の天主としての本質ゆえに外面的に引き継がれたというだけの理解では足りません。
この王権はまた、イエズス・キリストがまことの人間にして天と地の仲介者であるという特別な理由によって、イエズス・キリストに属しているのです。事実、ご托身のみ言葉の使命は、まさに天主の御国を地上に確立することなのです。イエズス・キリストの王権に関する聖書の種々の表現を見てみると、それらは疑いの影もなく、イエズス・キリストの人間という状態に言及しているのです。
イエズス・キリストは、ダヴィド王に代わって、地の果てまで及び、年を数えることすらできない永遠のものである父の王座を受け継ぐために来た、ダヴィド王の子として世に示されました。ですから、大天使ガブリエルはマリアの御子の尊厳を次のように告げたのです。「あなたは子を生む。その子をイエズスと名付けなさい。それは偉大な方で、いと高きものの子と言われます。また、その子は主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は終わることがない」(ルカ1章31-33節)。
さらに、彼を礼拝するために東方からやって来た博士たちは、王としてのイエズスを探していたので、エルサレムに到着したとき、「お生まれになったユダヤ人の王はどこにましますか」とヘロデに尋ねるのです(マテオ2章2節)。ご托身の神秘において永遠の御父が御子に託される使命は、地上に御国、すなわち天の国を打ち立てることです。この御国を打ち立てることを通じて、天主が人間を永遠から愛され、御あわれみをもってご自身のもとに引き寄せてくださった計り知れない愛徳が具体化するのです。「Dilexi te, ideo attraxite, miserans.」「私は永遠の愛をもって愛し、おまえに私の慈悲を保っておいた」(エレミア31章3節)。
イエズスは、「天主の国」と呼ばれることもあれば、「天の国」と呼ばれることもある、ご自分の国をのべ伝え、確立するために公生活を捧げられます。東方の慣習に従って、私たちの主はご自身が確立するために来られたこの国についての観念と本質を教え込むために、魅力的なたとえを用いられます。主の行われる奇跡の目的は、主の国はすでに来ていて、それは民の中にあるのだということを人々に納得させることです。「Si in digito Dei eiicio daemonia, profecto pérvenit in vos regnum Dei」―「私が天主の指によって悪魔を追い出しているのなら、もう天主の国はあなたたちのもとに来たのである」(ルカ11章20節)。
イエズス・キリストの使命において、ご自分の国の確立がそのあまりに本質的な部分であったため、彼の敵が背教したときもこの考えを利用して、ピラトの法廷でイエズスに対する非難を正当化する際、この観念を逆に利用したのです。「Si hunc dimittis, non es amicus Caesaris」―「もしあの人をゆるすなら、あなたはチェザルの友ではない」。彼らはポンティオ・ピラトにこう叫びました。「自分を王だと言う者はチェザルの反逆者です」(ヨハネ19章12節)。イエズス・キリストは、ご自分の敵の意見を確認して、ローマ総督に対して自分が本当に王であることをお認めになります。「あなたの言うとおり私は王である」(ヨハネ18章37節)。
本当の意味での王
イエズス・キリストのみわざの持つ、王としての性格に疑問を呈することはできません。イエズスは王でいらっしゃいます。
しかし、私たちの信仰においては、天主なる贖い主が王であるということの範囲や意味をよく理解することが必要です。ピオ十一世は、私たちがその在り方や行動について人間的に優れたものなら何であれ「王(king)」と呼んだり、「王的な(kingly)」と呼んだりする比喩的な意味を真っ先に排除しています。そうではありません。イエズス・キリストはこのような比喩的な意味での王ではありません。彼は王という言葉の本来の意味での王です。聖書の中で、イエズスは主権国の王としての大権を行使し、法を定め、法に違反する者たちに罰を与えておられるように見えます。有名な山上の垂訓では、救い主は御国の律法を公布されたと言うことができるでしょう。まことの主権者として、主はご自分の律法への服従を求められ、それに従わない者に対しては永遠の地獄以外のなにものをも与えられないのです。また、世の終わりを告げる審判の際には,天主の御子が生ける者と死せる者に裁きを下すために来られ、「人の子は、その栄光のうちに、・・・光栄の座につく。そして、・・・ちょうど牧者が羊と雄やぎを分けるように、羊を右に雄やぎを左におく。そのとき王は右にいる人々に向かい、『父に祝せられた者よ、来(なさい)、・・・』と言う。また王は左にいる人々に向かって言う、『呪われた者よ、私を離れて・・・永遠の火に入れ・・・』。そしてこれらの人は永遠の刑罰を受け、義人は永遠の生命に入るであろう」(マテオ25章31節以下参照)。甘美であると同時に、恐ろしい判決です。義人にとっては、彼らを待っている類い稀なる褒美のゆえに甘美なものですが、悪人にとっては、彼らが永遠に地獄に落とされるという恐ろしい審判のゆえに、それは恐怖に満ちた恐るべきものとなります。
このような考察をするだけで、イエズス・キリストの御国がここ地上にあるということを人々が正しく認識することが極めて重要であることが理解できます。なぜなら、この国に属するか属さないかということが、私たちの永遠の運命を決定するからです。「ここ地上に」と言ったのは、人が来世に良き報いを受けるか罰を受けるかがこの世において決まるからです。それゆえ地上では、人は、この一時的でもあり永遠でもある神聖な天主の国に入って、その一員となるべきなのです。なぜなら、天主の国はこの世において形作られていますが、天において完全に花開くからです。
現在の状況
人類を憎む敵【悪魔】の怒りは、主にキリストの王権の教理に向けられています。なぜなら、その王権はまことの天主でありまことの人である私たちの主のペルソナに繋がっているからです。19世紀の世俗主義は、フリーメーソンに煽られて、自らをさらに倒錯したイデオロギーに再編成することに成功しました。なぜならこの世俗主義は、贖い主の王権の否定を、市民社会に対してだけでなく教会の体にまで拡大したからです。
この攻撃は、ローマ教皇の持つ天主の代理者としての王権という概念そのものを教皇が放棄するというところにまで達しました。これによって、すでに国家と支配者の権威を弱体化させるために使われてきた民主主義と議会主義への要求が、教会のまさに中心にまで持ち込まれたのです。
第二バチカン公会議は、永遠の大司祭の持つ天主の王権を暗黙のうちに否定したため、教皇の君主制を大幅に弱体化させ、またそれによってそれまでキリスト教社会の世俗化に対する防壁として立っていたこの制度に対して横柄にも一撃を加えました。天主の代理者の主権は縮小し、続いて漸次、キリストの神秘体に対するキリストの主権が否定されてゆきました。そして、パウロ六世が、あたかも聖なる天主の代理者の君主制を放棄するかのような仰々しい身振りで王の三重冠を脱ぎ捨てたとき、また私たちの主からも王冠も取り去り、主の王権をただ終末論的な領域のみに限定してしまったのです。その証拠は、王たるキリストの祝日の典礼が大幅に変更され典礼年の最後に移されたことです。
この祝日の目的、すなわちキリストの社会的な王権を祝うことはまた、暦の中でその光を放っています。伝統的な典礼では、(天において)参加することによって君臨する諸聖人の祝日に先立って、御自らの権利によって君臨するキリストの祝日がくるように、10月の最終日曜日に割り当てられていました。1969年にパウロ六世によって認可された典礼改革により、王たるキリストの祝日は典礼年の最終主日に移され、キリストの王権の社会的な面が消し去られ、キリストは単なる霊的、終末論的な面へと追いやられることになったのです。
「信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)」に賛成投票し、パウロ六世と共に信教の自由を宣言したこれら公会議の教父たちは全員、自分たちが実際には私たちの主イエズス・キリストを追放し、彼の社会的な王権の冠を奪って【退位させて】しまったことを理解していたのでしょうか。彼らは、私たちと全世界の上に立つ天主としての玉座から、私たちの主イエズス・キリストを現実的に引きずり降ろして【退位させて】しまったことを理解していたのでしょうか。彼らは自分たちが背教した国々のスポークスマンとなって、これらの卑劣な冒涜をイエズス・キリストの王座に向けて投げつけたことを理解していたのでしょうか。
「私たちは彼が王になるのを望まぬ」(ルカ19章14節)、「私たちの王はチェザルのほかにはありません」(ヨハネ19章15節)と。しかし、無分別な人たちの混乱した噂に直面した主は、彼らから聖霊を取り除かれました。
偏見に目がくらんでいない人にとっては、ピオ十一世によって制定された祝日とそれによって表現された教理を矮小化しようとする邪悪な意図をここに見ないわけにはいきません。キリストの王座を社会からだけでなく教会からも奪ってしまったことは最悪の罪であって、それによって位階階級が救い主の教えの管理者としての役割を果たさなかったという汚点を残したかもしれません。
この裏切りの必然的な結果として、主によって使徒のかしらに与えられた権威は実質的に消滅してしまいました。はっきりとした異端でないとしても強く異端の疑いのある曖昧な言い回しの定式が作られる状況をつくりだした司牧性を支持し、ローマ教皇の不可謬の権威を意図的に排除した第二バチカン公会議の教令以来、私たちはこの確証を得てきました。
それゆえ私たちは、何世紀にもわたって闇の勢力がキリストの優しいくびきを拒否し、背教と罪という憎むべき暴政を国々に押し付けてきている世俗の領域において自分たちが包囲されているだけでなく、権威者が自らを破壊し、天主なる王が教会やその牧者たち、その信徒たちの上にも君臨すべきであることを否定している宗教の領域においても、自分たちが包囲されてしまっていることに気づくのです。
この場合もまた、キリストの甘美なるくびきは、世俗の革新主義者たちの権威主義と変わらない権威主義によって、新しい教理、新しい道徳、新しい典礼を押し付ける革新主義者たちの憎らしげな暴政に取って代わられています。そのようなところで私たちの主の王権が言及されるのは、別の宗教、別の教会からの気まずい遺産として扱われるときだけです。聖パウロが言ったように「天主は、惑わしを彼らの内に働かせられる。こうして彼らは偽りを信じるようになる」(テサロニケ後書2章11節)。
それゆえ、世俗において、裁判官が正義を覆して無実の者を断罪し、有罪の者を無罪にし、支配者が権力を乱用して市民を虐げ、医師がヒポクラテスの誓いに反して病気を蔓延させ、病人を慢性的な患者に変えようとする者たちの共犯者となり、教師が生徒に知識への愛を教えるのではなく無知を養い、イデオロギー的な操作を助長するように、キリストの花嫁の中心にも、みずからの非難されるべき道徳的行為によって信徒たちをつまずかせ、説教壇から異端を広め、世界統一主義(globalism)が意図した(教会の)解体計画と完全に一致して明白にフリーメーソン的な基盤に基づいた環境主義(ecologism)の名の下に、パチャママをたたえ、母なる大地(Mother Earth)を礼拝することで偶像崇拝を支持する枢機卿たち、司教たち、聖職者たちがいるのを見ても、それは不思議なことではありません。
「今はあなたたちの時である。くらやみの力だ」(ルカ22章53節)。もし私たちが、私たちの救い主、世の主、歴史の主、そして教会自身の主の約束が確実であることを知らなければ、カテコン(kathèkon)【反キリストの来臨を「止めているもの」το κατεχον】は消えてしまったように見えることでしょう。
【訳注(2020年11月5日追記):ヴィガノ大司教はここで、kathèkonと、ギリシア語の単語をラテン文字で書いて使っている。テサロニケの後の手紙の第二章には「かの者が、時いたってあらわれ出るまでとどめているのはなにかを、もうあなたたちは知っている。罪悪の奥義はすでに内にはたらいている。ただ、それを止めているものがいつか除かれるときまでのことである」とある。つまり、反キリストの来臨は、それを「止めているもの」το κατεχον(katechon)が、取り去られて無くなるまでは来ない、とされている。さてフランス語では、katechonとkathekonとを混同していることが見受けられる。例にとると、フランスのブルーノ・ラトゥールという哲学者とされる人は、ある世界的に有名になったエコロジストの少女は、黙示録的な災害を止めるkathèkonである、と感想を述べている。ヴィガノ大司教が聖書を引用して、暗闇の力の時を語っているので、反キリストの到来の時について語っているようにも思われる。英語やイタリア語やポルトガル語では、あえて訳し出そうとせずにkathèkonのままである。フランス語では、kathèkonの意味をそのままストア派の意味で取ろうとしている。スペイン語とドイツ語では、kathèkonをテサロニケ人への手紙の中にあるkatechonの意味で理解して、el katejón、der Aufhalter, vgl. 2 Thess 2,6としている。日本語訳についていえば、これを発表する時は、スペルを尊重してkathèkon を、古代ギリシアのストア派が作り出した語彙として、その意味を「ふさわしい行為」「自然に適した行為」(これは「完全な行為」に対照的な概念であるとされる)として訳した。しかし、ヴィガノ大司教のトランプ大統領への第二の公開書簡の中でその意味を正確にしているので、それを踏まえて以前の訳を訂正した。】
結論
しかし、彼らが破壊する一方で、私たちは再建するという喜びと名誉を持っています。また、さらに大きな幸福があります。それは、新しい世代の信徒たちと司祭たちが霊魂の救いのための教会の再建というこの仕事に熱心に参加していることであり、また彼らが自分たちの弱さやみじめさを十分に認識しながらも、天主の御手にある従順な道具、つまり、助けの手、強き手、全能者の手として天主に用いていただいているということです。私たちのもろさが、特にこの人間的なもろさに謙遜が伴っているところでは、これが主のみわざであるという事実がさらに明確になります。
この謙遜は「instaurare omnia in Christo(キリストにおいてすべてを復興させる)」ことへと私たちを導いてくれるはずですし、それは信仰の中心、即ち教会の公式な祈りから始まるものです。
私たちの主がその絶対的首位権を認められる典礼へと立ち返りましょう。創造主を貶め、全能の妄想の中で王に反抗する権利を主張し、主に当然なされるべき礼拝に反して自分たち自身の「non serviam(私はお仕えしない)」を口にして、被造物を誇らしげに高揚させるために、まさに天主の御稜威への憎しみから改革主義者たちが改悪してしまった、それ以前の本来の礼拝へと立ち返りましょう。
私たちの人生は一つの戦いです。聖書はこのことを私たちに思い起こさせてくれます。しかしそれは、「sub Christi Regis vexillis militare gloriamur(王たるキリストの御旗のもとに戦うを誇りとする)」(王たるキリストのミサの聖体拝領後の祈り)戦いであり、その前ではこの世や地獄の砦さえ何の力も及ばない天使の軍団の配備、という非常に強力な霊的武器をもって私たちが取り組む戦いです。
私たちの主が、(王家の血筋であることから)世襲の権利によって、(位格的結合のために)天主の権利によって、また(十字架上のみずからの犠牲によって私たちを贖われた)征服の権利によって王であられる一方、天主の御摂理の計画においては、この天主なる主権者のおそばには、聖母にして元后であり、主ご自身の荘厳なる御母、至聖なるマリアがおられることをも私たちは忘れてはなりません。
マリアが甘美にして母なる元后であることを抜きにして、キリストの王権はありえません。聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールが私たちに思い起こさせてくれるのは、この元后が、王の前で取り成しする王妃として、御子の御稜威の王座の前で、私たちの仲介者でいてくださるということです。
社会と国々における天主なる王の凱旋の前提は、天主がすでに私たちの心と霊魂と家族の内に君臨しておられることです。キリストが私たちの内にも君臨してくださり、キリストとともにその至聖なる御母も君臨してくださいますように。Adveniat regnum tuum: adveniat per Mariam.(御国の来らんことを、マリアを通して来らんことを。)
Marana Tha、Veni Domine Iesu ! マラナ・タ、主イエズスよ、来り給え!
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
【参考資料】【王たるキリストの祝日の賛歌より】
Vexilla Christus inclita
キリストは誉れ高き御旗を
Late triumphans explicat:
凱旋して大きく広げ給う、
Gentes adeste supplices,
民々よ、跪いて来たれ、
Regique regum plaudite.
王の王に喝采せよ。
Non Ille regna cladibus:
彼が諸国を服従させるのは、破壊によるのでもなく、
Non vi metuque subdidit
暴力によるのでも、恐怖によるのでもない。
Alto levatus stipite,
[十字架の]木に高く挙げられて、
Amore traxit omnia.
全てを愛によって引き寄せた。
O ter beata civitas
三重(みえ)に幸いなる国よ、
Cui rite Christus imperat,
そこにキリストが合法的に命令し、
Quæ iussa pergit exsequi
天からこの世へ命じられた
Edicta mundo cælitus!
法の順守を実行する社会!
Non arma flagrant impia,
不敬な戦争は火を噴かず、
Pax usque firmat fœdera,
平和は条約を固め、
Arridet et concordia,
心の一致も微笑み、
Tutus stat ordo civicus.
市民秩序は安全に立ち留まる。
Servat fides connubia,
忠誠は、婚姻を守り、
Iuventa pubet integra,
若者は、貞潔を尊び、
Pudica florent limina
家庭生活の諸徳により、
Domesticis virtutibus.
慎み深い家族は花咲く。
Optata nobis splendeat
望まれたこの光は私たちに光り輝かんことを、
Lux ista, Rex dulcissime:
いとも甘美なる王よ、
Te, pace adepta candida,
燦然たる平和を楽しむことにより、
Adoret orbis subditus.
[御身に]服従したこの世が御身を礼拝せんことを。
Iesu, tibi sit gloria,
イエズスよ、御身に栄光あれ、
Qui sceptra mundi temperas,
御身は世の王笏を統括し給う、
Cum Patre, et almo Spiritu,
聖父と聖霊と共に、
In sempiterna sæcula. Amen.
代々に至るまで、アメン。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?