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社長インタビュー「始まりは阪神・淡路大震災」
こんにちは!
ヴィガラクス株式会社です。
私たちは、災害対策のなかでも特に電気にフォーカスした商品の開発、
販売などを手がけています。
2019年秋に創業したばかりの新参者だけど
私たちについて知ってもらえるとうれしいな^^ということで
今回は弊社を立ち上げた張本人、横山和也社長のインタビューをお届けします。
聞きたかったのは「災害時に役に立つ仕事を」という想いのルーツ。
どうやら、中学生のときに阪神・淡路大震災で被災したことがすべての始まりらしく…
当時の経験や心境を語ってもらいました。
起こるはずのない大地震が起きた
──阪神・淡路大震災を経験されたんですよね? 地震が起きたのは1995年1月17日、朝6時前でした。
社長:寝てたら突然揺れた、という。避難訓練では「机の下に隠れなさい」と教えられるじゃないですか。地震が起きた瞬間はそんな余裕がまったくなく、布団の中で揺れがおさまるのを待つしかなかった。中学一年でしたけど本当に怖かったです。
当時、私は両親と祖母、姉と兵庫県尼崎市に住んでいました。あの頃は東海地震が来ると危惧されていて、関西は地震の恐れがないと言われていた。それが大きな地震が起きてびっくり、しかも震源地が東海じゃなく淡路島と分かって二度びっくりでした。
──あの日、国内で史上初めて震度7が観測され、尼崎市でも推定震度6だったとか。家の内外、まわりの状況はどうでした?
社長:幸い家族は皆ケガもなく無事でしたが、家の中はめちゃくちゃ。台所は食器の山になり、部屋にもいろいろなものが散乱して。両親や祖母の部屋は箪笥なんかが倒れて大変な状態になっていましたね。
家は尼崎市の北側、いわゆる阪急沿線線にあったんです。建物の倒壊が少なかったエリアですが、近所でも古い家は倒れるなどの被害をこうむっていました。
直後の暮らしを支えた、ふたつの〝なぜか〟
──そうした被害は免れても、普段通りの生活とはいかないですよね。ライフラインはいつ復旧しました?
社長:電気はわりと短時間で元通りに。当日復旧しなかったのはガスと水道です。特に水道は水道管が壊れてしまい、長く使えませんでした。ただ、車庫の水道だけはなぜか問題なく水が出て、家族でバケツリレーをして生活用水にしました。
なぜか、はもうひとつありまして。地震前日、たまたま大阪市の南港にあった会員制スーパーに家族で行き、水1ケースとカップラーメン1ケースを買っていたんです。倉庫みたいな陳列が珍しくて楽しかったのか、箱買いなんてしたことがなかったのに、カートにぽんぽん入れてたんですね。
これがとても役に立ちました。地震当日、近所のスーパーにも行きましたが、棚がすっからかんだったので。
見たことのない光景に、死を思う
──生活が何とかなってくると、次は学校ですね。再開はいつ?
社長:一週間ほど経って学校から「点呼をとりたいから登校して」と電話がありました。私は尼崎市の西隣、西宮市の中学に阪急電車で通っていたんですね。大阪在住の同級生と電車で行くと、途中の西宮北口駅で不通に。ホームから西を見たとき線路が大きく波打っていて、衝撃でした。
徒歩で学校に向かうと、さらに見たことのない光景が広がっていました。阪急電車の線路上、至る所に新幹線の高架が落ちている。レールは宙吊りになり、通学路脇の家がわさわさ倒れている。道路には路面が見えないほど瓦礫。その上を越えていくしかなかった。
もし地震の発生が2時間くらい遅かったら、通学時間です。自分も巻き込まれていたかもしれないと、初めて死を考えました。人生の中で、ものすごい衝撃を受けた出来事です。
──確かに衝撃的……中学校も被害を?
社長:校舎の別館は丸焦げになっていました。本館は残っていたんですが、以前なかったところに亀裂というか段差が。上階だったのに、その段差の隙間から地面が見えていました。
震災後、気づいたこと、思ったこと
──そんな体験は、忘れられないですね。
社長:忘れることはないでしょうね。いまだに鮮明に覚えています。
その後も驚きだったんですよ。波打っている線路とか、どうやって直すのかと見当もつかなかったのが、短期間でダーッと一気に復旧していく。その過程を目の当たりにして日本の土木技術はすごいなと実感しました。
阪神・淡路大震災はおそらく当時、都市部で起こった災害で最大のもの。そこに全国の人が物資や義援金、ボランティアとして手を差し伸べてくれたのも印象深くて。そうした善意、支えあいが、東日本大震災などにもつながっていく。世の中捨てたもんじゃないなと思います。
──「災害時に役に立つ仕事を」という想いの原点には、やはり被災体験が?
社長:この経験を何かのきっかけにできれば、とずっと考えてきましたから。
日本列島は太平洋プレートはじめ複数のプレートが衝突しせめぎ合う場所にあって、地震や火山活動が活発じゃないですか。台風だってやってきます。災害対策は日本で生きていくうえで切り離せない問題。災害対策のために、商品を出していくのは意義があることだと私は思っています。
今は、当時とは社会の状況が変わって多様化しています。あの頃はスマートフォンもなければパソコンも少数、電気自動車だってなかった。現代でスマホが、パソコンが使えなかったらどうなるか。電気というライフラインの重要度が、だいぶ高まっていると感じています。
形あるものを売ってみたい
──電気、というキーワードが出てきましたね。横山社長の前職は、太陽光発電にたずさわる仕事です。
社長:それまで旅行関係の仕事をしてきて、情報やサービスといった無形商材の営業はやりきったという気持ちになったんですよ。次は形あるものを売ってみたいと、太陽光パネルメーカーに転職を。もちろん、環境への負荷が少ない太陽光発電のシステムは社会にとって良いものだと捉えていました。
業界に足を踏み入れたのは2013年9月、買取価格にプレミアがついていた時代です。前年に国の固定価格買取制度が導入され、大手電力会社が1キロワット時あたり42円という高値で買い取る仕組みができていた。入社の1週間後に大阪で開かれた展示会には大勢の人が詰めかけて、会期中の3日間、新人の私ですら商談しっぱなしでした。
──国が太陽光発電の普及拡大を支援して、活況だった。
社長:今と比べたら、規制などすべてにおいて緩かった。誰がやっても成功する投資で、お金を増やしたいという人が押しかけたんです。バブルですよね。当初は営業がめっちゃ楽やなと思いました。でも、徐々に疑問を感じるようになって。
太陽光パネル業界に抱いた疑問、得た確信
──疑問、というと?
社長:まず投資目的にばかり、太陽光パネルが使われること。
それに、いわゆるメガソーラーを作る場合、当時は山を切り開いて設置するのが大半で、結果的に環境を破壊していたんですね。土砂災害を引き起こす恐れすらある。社会に良いもののはずが、ギャップがかなりあったんです。
もうひとつ、地震などで停電したとして、メガソーラーで生み出す電気をそのまま一般家庭で使えるかと言ったら、電圧が高くて使えない。だったらメガソーラーは日本に必要ないんじゃないか。太陽光発電システムは被災時の電源に、普段どおり電気が使えなくて困るときにこそ活かされるべきだと思って。
──それが本来あるべき姿、自分が取り組む道だと確信を持ったんですね。
社長:でも、太陽光パネルだけだと現実的に無理なんですよ。発電したものを貯められないと災害の備えにならない。そこから家庭用の太陽光パネルと、大容量のバッテリーをセットにして、電気の備蓄ができないかと考え始めました。
社長自身、実は起業をためらった?
──その後はどう動いたんですか?
社長:勤めている間にバッテリーの勉強もして、次はレジャー用バッテリーメーカーへ。キャンピングカーのバッテリーを従来の鉛電池からリチウムイオン電池に切り替えたいというので、開発を手伝ったんですね。そこで自分が本当にやりたいのはレジャー関連じゃない、やっぱり災害対策だよなと実感して。
建築用コンテナとの出合いもあったんです。コンテナは頑丈で、移動も運搬もできる。このコンテナと、太陽光発電と蓄電池機能との組み合わせを考えました。
──ついに、たどりついた感じですね。いよいよ「ヴィガラクス」の立ち上げですか。
社長:30代半ばを過ぎて、周りから「独立したら?」と勧められるようになり、なかには「独立するなら出資するよ」という方も。起業は40歳までにとは思っていたけれど、まだ早いかな、やっていけるのかなと、二の足を踏んでいたんです。
妻に相談すると「そこまで言ってもらえるんだったら絶対やるべきだ」と背中を押されまして。確かに、応援してくれる人がいる今が絶好のタイミング。意を決して2019年、38歳で会社を興しました。
常に〝熱さ〟を忘れずに
──応援してくれる人がいるのは心強いです。
社長:災害対策のため、意義があることをやっているから応援してくれるんだと思います。事業をやるにあたって周りから応援されないと意味がないし、ファンも増やせない。励みになっています。
──少年時代に被災体験をして、いずれ「災害時に役に立つ仕事を」という気持ちを長くあたためてきた。めぐりめぐって起業して、想いを実現したわけですね。
社長:やりがいはすごくあると思っています。
災害対策は日本で生きていくうえで切り離せないけれど、日本人はつい「喉元過ぎれば熱さを忘れる」。メディアの取り上げ方も良くなくて、例えば台風が来ると突然騒ぎ出したり、ピークが過ぎたとたんに報道しなくなったり。国としても考えなきゃいけない重要な課題です。
私たちは会社として訴え続けたい。災害対策につながる商品やサービス、しかも非常時だけでなく日常でも使えるもの、〝熱さ〟を忘れないものを提供していきたい。そう考えています。