善意が枯れる日。
先日、町内会の人(かなり高齢の女性で暑い中歩くのも辛そう)が、「町会費2,400円(200円/月×12ヶ月分)と赤い羽根募金をいくらかお願いします〜」とやってきた。今回は町会費+寄付600円で3000円を支払うことにしたのだけど、他の人がいくら寄付しているのか、また寄付の相場がいくらなのかはよく分からない。以前、赤い羽根に1000円を出そうとしたら、このおばさんがやたら動揺してしまって「えええ!? 1000円!? いいんですよそんなに出さなくて!誰もそんなに出す人いませんよ!?」と言われてしまったことがあり、なんとなく「1000円は多すぎるのだろう」と了解している(こういうときのために小銭を貯めておくのもいいのかもしれない)。
彼女は震える手で領収書を書き、どうもすみません、と手渡してくれた。全然「すみません」ではないし、むしろ高齢者に町内の集金を任せていることにこちらが心苦くなってしまうのだけど…。しかし正直なところ、町内会員としての活動はいっさいしたくない。東京都とはいえ、この辺は住民のつながりが結構強い方なのだ。家の事情を詮索されたくないので会費を納める程度の距離感がちょうどいい。うちの隣に新しく建った2件の家には寄っていないところをみると、新しい住人たちは町内会そのものに入っていないのだろう。完全によその人、として暮らしている彼らを羨ましく思う。うちは夫が地元民として育ってきたから町内会を完全無視することができずにずるずる付き合っている。まぁ、どこもそんなものだろうけど。
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寄付といえば、ここ数日、夕方になると UNHCR(国連難民高等弁務官事務所) から電話がかかってくる。一昨年まで、少額ではあるけど継続して寄付をしていたから、また再開しませんか?という内容だろう。なんかそれが毎度パート帰りだったりするので面倒くさくて出ない。寄付をしても全然いいけど、なんか白々しい、うすら侘しい気持ちになることってありませんか? 非常にケチくさい発想なのだけど、個々人から金をちびちび集めているくせに国連付近の人間や政府が手柄をとる、みたいなのが正直ムカつくのですよ。紛争、ほんとに終わらす気があるの?みたいな。いや、わかるけど紛争地域の子どもにミルクや毛布、その他もろもろの生活用品が必要なのは。事務局もきっと忙しくしていることでしょう。でもわたしのパート代はようやく100円上がって1250円になったところなんです、声かけるとこ違くないですか?という、なんか黒い気持ちが湧いてくるのですね。
さいわい、今のところ生活に困っているわけではないので、協力すべきところには協力したい、いやすべき、と思っている。親への仕送りのほか、以前働いていた障害者団体へ年末の寄付はするつもり。寄付とはちょっと違うけど、飲食店には潰れてほしくないからコロナ禍だって通っていたし毎度飲んだり食べたりして気前よく払ってきた。なぜ景気が回復しないのか? それは、わたし以外の人間の景気が悪いからに違いないのですね。
まぁいろいろ思うところはあるけど、戦争のような過酷な状態や食糧にありつけないような貧困を寄付でどうこう、というのはもう通じなくなるのではないのだろうか。日本だって、多くの人は寄付を必要とするほど貧しくなっている。お金のないところへきて善意をよこせというのは暴力に近いような気もしなくはない。政治家にしても官僚にしても、国の運営ってエリートが集まっているはずなのになんでとち狂ったことばかりやっているのだろう。なんで政治の失敗を善意でカバーしなきゃならないのさ? わたしもいい人ぶるのをやめて自分のことだけにお金を使いたい。もう最近はいろんなことに思いを馳せるのにも疲れて、自分の「善意」などというものはもう底をついているのだよな、と感じるようになった。もともと狭量なのと、歳のせいもあるかもしれない。27日の選挙のあとはお寿司でも食べようと思う。いつも言うが、長生きはしたくない。
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