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阮廌先生への手紙

阮廌(グエン・チャイ、ベトナム語:Nguyễn Trãi / 阮廌、昌符4年(1380年) - 大宝3年8月16日(1442年9月19日))は、後黎朝大越の建国の功臣、政治家、儒学者、詩人。号は抑斎(ベトナム語:Ức Trai / 抑齋)。功績により皇室の姓「黎」を賜ったため黎廌(レ・チャイ、ベトナム語:Lê Trãi / 黎廌)とも。

阮廌先生への手紙

 孫(わたし)は、謹んで拝礼して、先生にご挨拶いたします。

 本日の朝六時頃、孫は幻覚の中で、先生にお会いすることが出来、大変嬉しく思っております。孫は謹んで、先生に感謝を申し上げます。

 孫は、実に恥ずかしいことに、まだまだ大変不徳な無学者達です。

 ですが、朱熹先生の『近思録』(道体1:12)に、

感覚が有れば、必ず反応が有る。凡そ、動くことが有れば、それら全ては、感覚によって為されている。感ずれば、これは則ち、応じることが有る。応じる所からまた感覚が為され、感ずる所からもまた反応が有る。これが、感応が止まない所以である。感通の理は、道を知る者が黙々と達観すれば、それでよいのである。

『近思録』(道体1:12)

とあります。

 孫は常々、身体の感覚や外界の時空に対する感覚だけではなく、精神の感覚や内界の時空に対する感覚をも生成並びに鍛錬して、形而上の世界へと留学しております。

 このようにして、孫は、世の人々が、忘れたり、棄てたり、去ったり、そして、知らなかったり、探らなかったり、求めなかったりする存在を探究していくことで、道を体得しては、理を究明して、徳を修養しております。

 その成果のおかげか、何物かが動いては、孫の心魂がこれに反応して、そこから、特殊な感覚と反応が為されて、「先生」の名と形を象った『道』にお会いできたと思います。二年前に孫が伯胡から十詩を受け取ることが出来た時と同様にです。先生は孫に、

 熱が冷めて、静へと変わる。これが「停止」である。
 熱が温まって、動が生じる。これが「運動」である。
 誰が、どうやって、運動を停止させて、そして、どうやって停止から運動を成しているのだ?
 誰が、どうやって、静から動を発生し、動が静へと変化するようにしているのだ?
 『誰』と言う物は、どの空間に存在しているのだ?
 『誰』と言う事は、どの時間に存在しているのだ?
 『誰』と言う者は、生でも死でも有でも無でもなく、何として存続しているのだ?そして、『誰』の心は何であろうか?
 究極の心は、生命の心神でも、物質の中心でも、事象の中心でも、空間の起点でも、時間の起点でもない。これは、何であろうか?
 「停止」と言う運動・「運動」という停止への道。善く運動する物は、道を体得しており、善く道を体得する事は、運動を鍛錬している物の業である。
 音を聞かずに見て、光を見ずに聞くように、声を聴かずに情を感じ、字を読まずに理を知るように。
 先生は、音であり、光であり、そして、道であり、孫(あなた)は、声も情も、字も理もある、生きている物体である。
 完全に停止しては、完全に変化してしまう前に、善く運動しては、善く道を体得して、善く運動を鍛錬するように。

とご教示して下さいました。

 先生、今年で先生と先生の御家族と御親戚の方々が冤罪で処刑されてから六百年目となります。謹んで、哀悼の念を申し上げると同時に、至誠の愛国心を以て、祖国に貢献・献身・尽忠することを、天と先生に誓って申し上げます。


明後日の二〇二二年のテトの祝辞と共に

二七日一月二〇二二年

LVN/荷進・Nguyễn Hoài Minh・Tạ Hướng・Nguyễn Trọng Đức

https://video.mua79.com/chuc-mung-nam-moi-2022/

紹介文献

ありがとうございます。心より感謝を申し上げます。