京都ひとり時間

こども達の夏休みに合わせて日本に一時帰国をした。その合間に、学生時代の友人と2年ぶりに会うことになったので、久しぶりにひとりで上洛した。特に用事があったわけではないけれど、なんとなく待ち合わせより40分ほど早く、地下鉄烏丸線の烏丸御池の駅に到着した。

喉も渇いていたし、続きが気になる読みかけの本も持参していたから、珈琲と共に馴染みのある安心感を提供してくれるスターバックスのような店を目にしたら、吸い込まれるように入って行ったと思う。でも、幸か不幸か改札口を出て視界に入ってきたのは老舗ベーカリーのイートインスペースくらいで、照明が明る過ぎるなんていう言い訳を誰にともなくして通り過ぎてしまった。

学生時代の4年間を過ごした京都は、私にとって、大好きなまま別れた恋人のような場所だ。だから、久しぶりにこの町をひとりで歩くというのは、遠い昔に恋をした相手との再会さながらで、少し勇気がいる。何百年も変わらないものを内包するこの町に反して、私はいつしかあの頃とは変わってしまっているし、上手く向き合えるか自信がない。はやる気持ちを抑えて平静を装い、大人になった自分という鎧を身に纏って呼吸を整えてから、東西に走る御池通を東へと歩き始めた。

繁華街の少し北に位置するこの界隈も、この町の例に漏れず碁盤の目のごとく几帳面な路地が町を四角く区切っている。日が暮れかけて幾分蒸し暑さが和らいでいくのを感じながら進むと、いくつもの連なる提灯で鳥居の両脇が彩られた小さな神社があった。案内板に安産と幼児の守り神として有名と記されていたので、こどもたちが健やかに大きくなるよう、お参りをした。

あんなにも離れがたかったこの土地が、今ではとてもよそよそしい。卒業式の日に感じた胸がえぐられるような喪失感も、既に別の何かで埋められてしまった。この町を再び恋しいと思えるきっかけを求めて、私はひたすら辺りを上ル下ル西入ル東入ルしながら阿弥陀籤のように路地を彷徨った。でも、風情のある立派な日本家屋や当時と変わらない佇まいのカフェ、アルバイトをしていた法律事務所を見ても焦がれる思いも沸き起こってこなければ、ノスタルジックな気持ちにすらならなかった。

約束の時間になったので、足の疲れと乾いた喉を携えて友人との待ち合わせ場所である堺町通の居酒屋に向かった。この友人とは大学の入学初日に法学部のある建物の階段をのぼりながら初めて言葉を交わして以来の仲だ。卒業後も九州、四国、東京、香港と色んな場所で再会してきた。一見近寄りがたそうな値の張る人形のような顔立ちをしていて、お洒落のセンスに富み、聡明で、でもそんなところをちっともひけらかさない親しみやすさのある女性だ。

ほどなくして彼女も店に入って来て、私たちは麦酒で喉を潤して美味しいお料理を食べながら互いの近況やこれからの展望を話した。話題が、大学卒業を間近に控えた頃に2人でバーで飲んだ時の思い出へとうつると、突然込み上げて来るものがあった。それは、私がひとりで町歩きをしていても見つけられなかったあの頃への恋草だ。ああ、馳せるべき思いの先はこの土地ではないのか。隣に座る彼女が、今は遠い国に住むあの先輩が、東京や大阪で頑張る彼らがいた、あの愛おしい時間を共に過ごした箱、それが京都なんだ。中身の全てもひっくるめて、はじめてそれは、触れると心に深く響く宝箱になる。

せっかくの機会だからと珍しい日本酒を飲むつもりでいたのに、結局私は学生時代に飲んでいたものと同じ銘柄を選び、友人に笑われた。私たちはふざけた言葉を重ねながら夜は更けていき、それはそれは、美味しくて、楽しくて、恋しい時間となりました。

☝️京都市中京区御池通高倉東入 御所八幡宮